ACT.1 side-葵

Side-葵




脱衣所の扉が閉まる音が聞こえた後に鍵の閉まる音を聞いて、俺は小さく溜息を吐き出した。


テーブルの上には一枚の婚姻届。


激高した志穂に破られることも見越して、同じものを後3枚持っている。


志穂が俺を好きじゃない事くらい分かっている。


それでも志穂はきっとこの書類に印を押す筈だ。


そう期待するのは、今まで色んな事をしてきた俺を志穂は結局許すから。


今日だって、勝手に志穂の家に上がり込んでいた俺を問い詰める事もせずに、差し出した婚姻届を見ても青ざめて固まるだけ。


本当は志穂に俺を好きになってもらいたい。


俺を好きだと言わせたい。


でも、それがだめならせめて紙切れ一枚の契約だとしても繋がっていたい。


志穂への恋心に気づいた時から変わらない俺の想い。


いつか志穂と結婚したい。


本当ならもっと前に結婚したかった。


志穂を妻とする事で俺に縛り付けたかった。


でも、俺が選んだ道は“アイドル”で。


事務所の方針が30歳まで結婚は認めない。


だったから仕方ない。


契約解除されて無一文になったら志穂を養う事すら出来ないし。




4月7日。


俺の誕生日。


いつも志穂から色んな物を奪ってきた日。


奪うのは今日で最後にするから。


だから志穂、お前の人生を俺に頂戴?




バスルームから聞こえるシャワーの音が止まった。


無意識にゴクリと喉を鳴らした自分に苦笑する。


29になっても相変わらず綺麗な志穂。


白く透き通る肌も、艶やかな唇も、昔から何一つ変わってはいない。


俺の大切なたった一人のお姫様。




バスルームから出てきた志穂はラグマットの上にぺたんと座り込んだ。


そんな志穂の視界の先には置きっぱなしの婚姻届。


ボーっとそれを見つめる志穂の思考を奪う様に志穂のカバンの中から機械音が聞こえた。


鞄の中から二つの携帯を取り出す志穂。



1つはプライベートの。


もう1つは会社の。



チカチカ緑色のランプを点灯させているのは会社の携帯電話だ。


志穂はそれを開くなり、ふっと柔らかく笑った。


ドキン、と心臓が跳ねる。


誰が志穂にそんな顔をさせるんだ。


俺には見せることの無い優しい笑み。


「まったく、王子は・・・」


ポツリ、志穂がそう呟いた。


ポチポチと携帯をいじる志穂は、恐らく誰かから来たメールに返信しているのだろう。


そんな事より、俺の耳に届いた呟きの方が問題だ。


志穂は確かにそのメールの主を“王子”と言った。


苦い記憶が甦る。


『しほちゃん ぼくのおよめさんになって』


『やだ。だってあおいくん おうじさまじゃないから しほ おうじさまとけっこんするんだもん』


無意識に握りしめた拳が震えた。


再び志穂に届くメール。


志穂が開くより先にその携帯を志穂の手の中から奪い取った。


志穂にとっての王子は俺一人で充分なんだよ。


「あ、葵何するのよ」


何するも何も・・・


メールを開く。


送信者の欄には上嶋宏堵(かみしま ひろと)。


男の名前だ。


“また誘ってください”


また?


誘う?


そのメールを閉じてひとつ前のメールを開く。


“今日はお誘いありがとうございました。お陰様で素晴らしい夜になりました”


志穂から誘った?


男を?


わざわざ俺の誕生日に?


嫉妬と怒りは直ぐに俺の沸点を超えていく。

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