いつかあなたを殺すでしょう。
ハルコナ
プロローグ
薄眼ながらも瞼を開けると、淡い常夜灯の光が朧日のように目を刺す。
辺りを見渡そうと思い首を軽く回そうとするが、もはやそんな体力すら僕には残ってはいなかった。
脳が呆けている。現状を理解しようと寝ぼけた頭を叩き起こすと、今、僕は入院していることを思い出した。
体を起こそうとしてみたが、薄皮が貼り付けられたような手のひらと、ひ弱で手折れる木の棒のような腕では自らを支えることは出来ないと思い諦めた。
鼓動が速さを落としていく。細動の動きを緩めていく。
もう頑張らなくて良いのだと。もう楽になって良いのだと、そう言うように。
「ぁ。」
自らの口から発せられた嗄れた老人の声が鼓膜を揺らした。
近づく死の予兆に怯えわずかに声を上げたが、直後にも不意にその恐怖は姿を隠して、妙に落ち着いた気持ちを僕は保つことができた。
おそらく天寿を全うする時が来たのだろう。浮いていくような感覚が手足の先から順に、腿と二の腕を伝って身体の中心に向かっていく。
思えば、長く無為な人生だった。
齢21にして恋人を亡くし、気力を無くし、誇りを失くし。
人は死す直前に自らの人生を評すというが、何せ僕の人生というものは、歩んできた道程とあるべきはずの意義とが何一つとして存在していない。
故に評すことも、顧みることも、後悔することすら僕の人生においては行う権利を持ち合わせていないのだ。
―――ああ、でも。
ただひとつ。たったひとつだけ、悔いている事が、悔いるべき事があった気がする。
なんだろう、なんなのだろう、この突っ掛かりは。
魚の骨が喉に引っ掛かるような、なんてありきたりな表現にはなってしまうが、忘れてしまった後悔を、覚えておくべき後悔を確かに僕に持ち合わせているはずなのだ。
そうだ、あれは確か恋人を亡くしてちょうど2ヶ月のことだった。
確か、喪ったはずの彼女が目の前に現れて―――僕はその瞬間、病室の中央にその姿を幻視した。
長い黒髪の長髪。あどけなく幼さが残った相貌。無垢を宿した淡色の瞳。
あぁ、思い出した。あの時も、こんなふうに君は姿を見せてくれたのだったな。
『やっと、思い出してくれたね。』
果たして、それは僕の見ている幻影なのか、或いは怪異の類いなのか。
どちらにせよ、そんな疑問など僕は構うことなく姿を視界に捉え、枯れたはずの涙が瞳から溢れた。
『約束通り、殺しにきたよ。色波くん。』
彼女がふわりと、固いベッドのシーツに腰掛ける。
そしてその華奢な指先を僕の首元にかけた。
痛みはない。苦しみもない。あるのは、ただ彼女に会えたことによる充足感と満足感だけだ。
そうか、これが僕が取りこぼした後悔だったのだな。
あまりにも遅すぎる反芻。あまりにも遅すぎる逡巡。
それでも構わない。もう一度、彼女の姿を見て触れることができたのだから。
死が視界を埋め尽くしていく。
死に意識が抱かれるその僅かにも満たない刹那にて、僕は走馬灯のように、この長い長い後悔を想起する。
そうだ、あれは僕が彼女を喪って2ヶ月。僕が齢21の頃。
今から、およそ60年も前の話だ――――
いつかあなたを殺すでしょう。 ハルコナ @harukona
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