アレックス

 警察署を出ると、アレックスは車を取りに行くと言った。これが最後のチャンスなのかもしれない。レイチェルの姉だと名乗る人物から逃れるには。


 アレックスは真剣な眼差しでレイチェルに言った。


「レイチェル・セバーグ。私の事を信用できないのはわかるわ。だけどこれだけは信じて?私は貴女の味方。この世界で唯一のね」


 アレックスはそれだけ言うとレイチェルの前から離れた。レイチェルはぼう然とその場に立ちつくしていた。


 しばらくすると大型のジープがレイチェルの目の前に停まった。座高の高いドアが開いてアレックスが顔を出し、レイチェルに助手席に乗るようにうながした。


 レイチェルは指示を受けたロボットのように従った。アレックスはレイチェルがかんまんな動作でシートベルトをした事を確認すると、ゆっくりと車を発車させた。彼女の運転はとても丁寧だった。


 レイチェルはじっとフロントガラスを見つめていた。辺りは真っ暗だ。レイチェルが警察に保護されてから、どれほど時間が経過したかがうかがえる。


 レイチェルはアレックスに何も聞かなかった。彼女が誰なのか。何故自分の事を知っているのか。そんな事どうでも良かった。アレックスはレイチェルを目の端で見つめてからゆっくりと口を開いた。


「レイチェル。答えなくてもいいから、私の話しを聞いてくれる?」


 レイチェルは無言でうなずいた。アレックスもうなずいてから話し出した。


「まずは自己紹介ね。私はアレクサンドラ・ウォード。アレックスって呼んで。何故私がレイチェルの事を知ったかと言うとね、警察に情報を流してくれる奴がいるの。警察の風上にも置けないような自堕落でがめつい奴。そいつに定期的に金を握らせているの。私の調べている事件が起きたら知らせてって。そいつには、私は新聞記者って言ってあるの。私はもちろん新聞記者なんかじゃないわ。私はね、」


 丁度信号が変わり、アレックスは車を停車させた。アレックスはレイチェルの方を向いて言った。


「私はね、レイチェル。貴女と同じ。殺人鬼に襲われて生き残ったの」


 レイチェルはビクリと身体を震わせてアレックスを見た。アレックスも、レイチェルと同じ。あの、恐ろしい羊の仮面を被った殺人鬼。レイチェルは途端に息苦しくなった。息を吸おうとしても、うまくいかず、ハァッハァッと短く荒い息をした。


 アレックスの顔にサッと緊張が走り、彼女はハンドルをきって、狭い小道にバカでかいジープを無理矢理停めた。自分のシートベルトを素早く外すと、レイチェルの身体におおいかぶさるようにして、レイチェルのシートベルトを外した。


 そしてまるで母鳥が我が子をみずからの翼で守ろうとするように、レイチェルを両手で優しく抱きしめた。


「レイチェル。大丈夫よ、私がついてる。ゆくっり呼吸をして?」


 ヒュッヒュッとまるで壊れた笛のような音をたてていたレイチェルの呼吸が次第に穏やかになる。


 レイチェルの脳裏に忌まわしい記憶がよみがえる。大切な親友のエイミーはもうこの世にいないのだ。レイチェルはそう思った瞬間、ひきつけを起こした子供みたいに泣き出した。


「エイミー!エイミー!私が悪いんだわ!私のせいでエイミーが!」

「エイミーって誰?レイチェルの友達?」

「そう、私の親友。わ、私が死ねば良かったのに!私のせいでエイミーは死んでしまった!」

「そう。レイチェルはエイミーがとても大切なのね?」

「ええ、ええ。私の命よりも大切な友達よ」

「そうなの。それならエイミーも同じ気持ちでしょうね」


 ヒステリックに泣きわめくレイチェルに、アレックスは穏やかに辛抱強く会話をしてくれた。そこでエイミーの最期の姿が思い出された。


 レイチェルとエイミーがロッジの廊下を走っていると、突然羊男が飛び出してきた。羊男はレイチェルにキラリと光るナイフを振り上げたのだ。これで自分は死んでしまうのだ。レイチェルがそう思った瞬間、エイミーに突き飛ばされた。


 羊男のナイフは、エイミーの小さな背中に深々と刺さった。エイミーはうつ伏せに倒れ、背中には大きなサバイバルナイフが突き刺さっていた。


 羊男は、エイミーの背中からナイフを抜き取ろうとした。させてはならない。ナイフを抜けば、大量に出血して、エイミーは死んでしまう。


 レイチェルは羊男に体当たりしようとした。その時、エイミーがジッとレイチェルを見て言った。


「走って、」


 その言葉を聞いた瞬間、レイチェルはきびすを返して走り出した。目から涙があふれた。エイミーはレイチェルを必死で助けようとしたのに、レイチェルはエイミーを見捨てて逃げたのだ。


 背後から羊男の雄叫びがした。ギャアッギャアッと耳障りな獣の声。レイチェルがチラリと背後を振り向くと、羊男の手には血のついたナイフが握られていた。


 羊男がナイフを握っているという事は、エイミーの背中からナイフを抜いたのだ。つまりエイミーは大量出血をして死んでしまったのだろう。


 レイチェルの走る速度がゆるんだ。急にどうでもよくなった。エイミーが死んでしまったのに、自分が生きているわけにはいかない。


 自分も死んでしまおう。なに、このままジッと立っていれば、羊男はレイチェルにとどめをさしてくれるだろう。


 走って。脳裏にエイミーの最期の顔が浮かぶ。真剣な眼差し。レイチェルはハッとして背後を振り返った。羊男はレイチェルに向かってナイフを振り上げる。


 生きなければ。レイチェルは強くそう思った。その時不思議な事が起きた。廊下に置いてあった大きな置き時計が、羊男の側頭部に直撃したのだ。


 羊男は勢いよく壁に叩きつけられた。この瞬間しかない。レイチェルは一目散に走り出し、ロッジの裏口まで走った。防犯のため、裏口には内側からカギがかかっているはずだ。だがその時のレイチェルは、カギの事には頭が回っていなかった。


 開け。レイチェルが強く念じると、バンッと大きな音をたてて、裏口のドアが開いた。レイチェルは疑問に思う事なくドアから外に出た。


 レイチェルは、裏口のドアから真っ暗な外を走り続けた。呼吸が苦しくなり、こめかみからは、ドクドクと血液の流れる音が鳴っていた。


 自分の息づかいと、心音の他に何かの音が聞こえる。その音の原因に思いいたってレイチェルはせんりつした。ロッジの裏口の先は海なのだ。しかも崖になっている。


 このまま進めばレイチェルの逃げ場はない。レイチェルが元来た道を引き返そうと振り向くと、ナイフを振り上げた羊男がわめき声をあげながら走ってくる。


 レイチェルは正面に向きなおって必死にかけた。このままでは切り立った崖に出てしまう。しかしパニック状態のレイチェルに良案は浮かばなかった。


 突然身体のバランスを崩し、レイチェルはバタリと倒れた。何かに足を取られてつまずいたのだ。遅れて全身に身体を打ちつけた痛みが襲ってくる。


 痛みによる涙をこらえて立ち上がると、辺りには大きな石がゴロゴロしていた。暗闇で目が慣れていなかったが、ようやくレイチェルの現在の現状が見えてきた。


 崖の先はもうすぐで、あと二メートルも走ればレイチェルは崖から真っ逆さまに海に落ちてしまっていた。


 レイチェルは痛みをこらえて立ち上がると、羊男は目前にせまっていた。羊男に殺されるくらいなら、いっその事海に身を投げてしまおうか。それならばレイチェルの命を奪ったのは海であり、エイミーが命がけで守ってくれたレイチェルの命は、羊男に奪われない。


 レイチェルは覚悟を決めて羊男をにらんだ。その瞬間に去来した感情は、激しい怒りだった。何故自分たちは理由もわからず羊男に命を奪われなければならないのか。


 レイチェルは激しい怒りの感情を爆発させた。死ぬのは私ではない。お前だ。


 次の瞬間、ロッジの廊下での不思議な出来事が再び起きた。まさに羊男がレイチェルにナイフを振り上げ襲いかかろうとした時、レイチェルの周りに転がっていた大きな石が羊男めがけて飛んでいったのだ。しかも一つだけではない、たくさんの石が、まるで意志を持ったように羊男に当たっていくのだ。


 羊男は猛烈な石の攻撃により、ヨタヨタと横に歩き始めた。やがて羊男は、崖から足を踏みはずし、奈落の海に消えていった。


 


 

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