五 駿府

「わ~ここは日本です……げろえええぇ!」

晴信一行の船は別の路線で、新港から魍港、伊豆の七島から下田へ向って停泊する予定である。

だが、船旅に、ある人が凄く期待している一方で、酷い状況になってしまった。

「ユイラ―殿はずっとあの調子でございますか?」

「ええ、聞けば、彼女は初めての船旅です故……」

牡丹色の民族衣装や花飾りは台無しくらいで、ユイラ―は船縁を掴んで、体がイカやタコのようにふわふわする状態で、嘔吐が続いていた。

「陸に上げると良くなるであろう、それより」

日ノ本を見る感想はどうじゃ?晴信は船に寄りかかるユイラ―へ問った。

「そうですねぇ……」

ユイラ―は陸へ見た。この時にユイラ―を見たのは、下田にある伊豆半島でしょう。瑠璃色の海が船で切り開き、白い浪花がばしゃと跳ね上がっていた。遠くから見ると、折り重ねる山々に新緑を染めて、桜の花がこの時初咲になったので、少し桃色にも帯びる景色となり、その岸の所には町はぼつぼつと点在して、人々は往来している。

「大員と似て……だが、似てないですねぇ。あたしは本当に外国へ来ましたなぁ……」

「あまり驚きがございませんなぁ」

田舎娘ならもっと反応してくれぬか?角兵衛は心にそう思って目がギョロっと回った。

「だって、これは師匠があたしにたくさん語った国です、そして、あたしが自分の意志で来る国ですから」

ユイラ―はそう感慨した。

「自分で決めて来た国は驚きがないのか?胆力ある女子だ」

「それはそうじゃろう。ユイラ―は儂が選んだ『高山国の姫君』じゃ」

そう言った後、晴信は何か気付いたようだ。頬が赤に染めて、ユイラ―は顔全体茹でるように赤くなった。二人の間に微妙な空気を流している。

「何かあったでございましょうか?殿」

「角兵衛、ミゲル、船を降りると新港への貢物をまとめて、我々は大御所様に御座る駿府へ向かう」

「はい……」

帰り道の船に、晴信とユイラ―は妙な関係があると、角兵衛とミゲルは薄々気が付いたが、切支丹でも側室持つくらいは、別に大事ではないと判断して、二人は何も言ってなかった。

「だが、修理大夫様、何で下田に船を降りるのに、江戸じゃなく駿府へ行くのか?先に大樹(徳川秀忠)様と会う方が良いのではないでござましょう?」

船倉から上がった顔思斉はそう問った。下田は「伊豆の下田に長居はおよし、縞の財布が空になる」と謳われる港町である。ここは江戸と大坂の間、後に東・西廻海運の風待ち湊として東西を繋がる大事な所であり、後にペリー来航の時も、黒船にも初めて下田で停泊したが、この時にはそこまで栄えている港ではなかった。しかも江戸幕府の中心地である江戸もやや離れている。

「今回は大御所様の許しを得て我々は渡海出来たじゃ故、先に拝謁する方が宜しいと思うのじゃ。江戸に御座る上様より、儂は大御所様の勘気を触れることがもっと恐ろしい」

晴信はそう説明した。

「しかも、ゆっくり使節団を練り歩いて、日ノ本の皆さんにその威儀を見せる方じゃ、我々の功績がもっと大きいじゃろう?」

晴信は悪戯のような笑った。

「修理大夫様も悪いのう」

顔思斉も何か理解するように笑った、確かに、大名や外国の使節なら、見栄えはその相応の格式がある、室町時代から朝鮮と明の使者、その華やかな行列で人々の心に印象が残した。

「だが、威儀を見せるとはいえ、ここにいる大員の人はユイラ―嬢さんだけでござるぜ」

(謁見はいいが、御礼をしたのは臣従と同じ!故に、ユイラ―以外にほかの人は行くべからず!)

出発前に、孫七郎はそう主張したから、新港の人はたくさんの貢物を船に積もたが、ユイラ―と同行する人を出すのは渋った。

「一人だけでどうやって使節団の威儀を見せるのよ?」

「ははは、そういうことか?」

晴信は顎を撫でながら得意げに笑った。

「もし使節の威儀を見せぬなら、そもそも殿はあの要求をその場に反対するでござろう。」

我々は船を出た前に、すでに数着の新港人の服をガスパル殿からもらいました、あとは……角兵衛はそう言いながら意味深の笑顔で顔を見ていた。

「おい、そのようなことをやりやがって、バレるとどうしますか?」

これは仕事範囲外じゃぞ!なんとなく晴信たちの考えを察した顔思斉は苦虫を噛んだ顔で残ったミゲルを見た。

「おいは反対したよ。だが、晴信従兄弟殿はそう決めたから、これも『高山国の社の者達は今回の使節を同意した』という証であろう」

ミゲルは昔の欧羅巴ヨーロッパ派遣を思い出したか、懐かしい顔で苦笑した。

「心配ご無用、ただの一芝居じゃ。それに、金も弾けるぞ」

アンドレア殿にも申したじゃ。この船は人共に、これからこの晴信の貸切じゃ。

大名の財力は侮れないことは、顔思斉はこの頃の晴信の爽やかな悪人笑顔で思い切り分かってきた。


「何てことじゃ!」

駿府にある本多上野介屋敷に、本多正純は怒り極まりないほどに怒鳴した。

「有馬修理大夫晴信殿、高山国来使共、駿州江に候。其姿体奇妙、草民驚異……」

正純は奉行から送って来た書状を読み、その手が力に入れ、紙を握り潰すほど皺が出来て来た。

「それは良いことではないか?」

屋敷に胡座している老人、本多正信は焦る様子を見ていない、ニコニコして上機嫌らしいが、居眠りそうな皺だらけの顔に、眼だけが光っていた。

「海外への貿易国はもう一つ増えたじゃ、入貢までしてくれての」

「父上はこんなことは如何なる大事なのか分からぬ!」

正純はそう叫んで、屋敷のもう一人を見ていた。

「有馬、高山国、ハ、危険デス」

黒髪、和装と帯刀したが、青い目を持つと彫る顔を持つ、明らかに外国人の武士はそう言った。

「有馬ノウシロニヒカエルイスパニア、ポルトガルハカトリック国故、宣教シナガラ、其国ノ領土ヘモ野心ヲモツ。我ライギリス、オランダノヨウナプロテスタントコソ、日本ヲ通商スルノミノ『ヨイ相手』ニゴザル」

「按針、、そなたのエゲレスとイスパニアは元亀天正以来弓箭の間柄故、斯様に申すのじゃろう。日ノ本はイスパニアと弓箭に及んでおらぬ。彼奴等が太閤殿の脅しに弁明として、ルソンから使いを出して詫び言となった沙汰さえあるのだぞ」

だが、正信は青目の武士――三浦按針の言葉は完全に信じていない。

(彼奴、まさか今回の事件で自国の貿易利益を拡大する目論見がおるではないか?マカオとの取引の足元にも及ばぬというに)

「しかも、有馬殿の背後はあの大久保石見守殿がおる!彼らの渡海が成功すれば、我らの一派は引きずり降ろされるのは必定でござる!」

それも一理あると、正信は息子の意見を同意するが、彼は大久保長安にはそこまで悪く印象はない。実用性を重視する正信には、長安は才ある男じゃ、鉱山開発や治水など、江戸を豊かにするのは長安の功績であり、彼は太平の世に必要な人と思っている。

「儂は彼らに試してみようでも良いと考えるのじゃが」

「父上はあの金に汚い男を増長しても良いのか?」

「良いと思わないが、悪いとも思わぬ……島津と同じく諸侯一手のみで、入貢の国が増え交易が広まり武威が示されたのじゃ。少なくとも、大御所様は良き働きと見做そう。それに、ノビスパニア(メキシコ)から良き山師を呼ぶためにも、切支丹・バテレンと入魂な大久保石見は外せぬ」

そもそも、お前の父も相当汚い人じゃ。さすがに正信はそれを言わなかった。

「兎に角、この事は阻止しなければならぬ!そしてこの機にイスパニアとポルトガルの貿易には制約せしめるべし!」

やれやれ、息子は秩序を乱すことは毛嫌いじゃから……

「父上!」

気がつくと、正純の顔もう正信に迫った。

「父上は、大御所様を作る世が乱されるのは良いとお思いか?大久保石見にて柄を絞められてよろしいのですか!?」

この台詞、反則だろう……正信の心にそう思ったが、

「やれやれ、これじゃわしも協力しないといけないねぇ」

ようやく折れた。

「それじゃ、策を授けよう」

正信は二人の耳を寄って、そう言いました。

「まず、我が家中に切支丹がおるのか?」


「修理様!あれは何ですか!?」

「振り売りを行う行商人じゃ」

馬上に乗っている晴信は目でちらっと見たと、適当に答えた。

「ならばそっちは何ですか?」

「あれは呉服屋じゃ。そうじゃのう、新港の人間はあまり服を着てぬじゃのう」

「目に見たのはすべて新港がない物ばかりですねぇ……」

輿に乗っているユイラ―の目が輝く周囲のすべてを見ている、まるで母の腹から生んだばかりの赤ん坊が自分にいる世界を見る如くである。

「もう完全に物見遊山気分でござる……」

同じ馬に乗っている角兵衛は文句を言う如く呟いていた。

「いいじゃないか?私も初めて欧羅巴に行った時の震撼を思い出すのじゃ」

「だが、仮にも異国よりの使節、その有様はどうかと思うてならぬ」

下田から船を降りたから、ユイラ―はずっとはしゃいでいる少女になっている。彼女の好奇心が炸裂している、岸に着いたから手配する馬でも驚き、さらに町全体を興味津々となり、瓦葺の商人の屋敷、家紋を入る瓦と立派な門を構う奉行所、魚介と肉類をちゃんと台を乗せ、衛生を拘る日本人の風習を理解出来ない所もあり、道中には晴信たちへそのような問答を繰り返しいた。

「高山国には確かに馬にいないじゃのう」

使節団の先導として先頭に行っているからか、晴信は旅の時の小袖と胴服ではなく、内へ折り畳む肩衣袴で馬を乗っている。

「自然だけ同じじゃのう」

角兵衛は軽く言っていた。

いえ、自然でもかなり違うだと、晴信を思っている。天城峠を越えた所に、ユイラ―は道沿えに咲いている桜の花や、まだ残り香りを残っている臥竜梅、十郎梅を愛でて、「山にでも珍しい花ですね!」と言いました。道によく見られる松や柏も、高山国にもっと広葉の樹林を良く見るユイラ―に珍しく見える美景だろう。

「だけどよ」

その所、後ろに歩いている顔思斉は不機嫌げに文句を言った。

「何で儂らはそんなことやらなければならないのよ」

「仕事ですからじゃ。船も人を残っているし、操るが足りないなら儂も書状を送って江戸にいる家来たちを手伝うと伝えたのじゃ。其方はこの行列の『顔役』なのじゃから、しっかりやれよ」

その通り、顔思斉とその仲間三十人余は、今上半身をはだける、半裸で肌に妙な文字を描いて、下半身は帯で布を締めるという新港の男の民族衣装をしている。さらに、顔は大きな木板を持ち上げて、その板の上は漢字で「高山国来訪使」と大きく書いて、下田から降りたから道に練り歩いている。

ユイラ―も藤で作った奇妙な輿を乗っている、これも孫七郎が用意された新港の伝統の輿らしい。

「儂は番仔じゃないから!」

「だが儂は金を払ったから、ユイラ―の謁見が終わるまでちゃんとこの格好にしてもらう。それに、見たことがない姿を見て、民たちは我々に惹かれているじゃないか?」

それもそうです。威儀に好ましい日本人たちには、馬乗りが先頭とする勇壮な大名行列は何よりの楽しみである。後に朝鮮通信使やオランダ商館長(カピタン)が江戸へ出府する際も、大名行列のような華麗なる行列で向かうので、晴信はその点も考えてそのような事をやった。

「しかも、顔殿は今高山国の一部を開墾しておるではございませんか?その高山国にいる色な民を日ノ本へ服させる事こそ、殿の狙いでござる」

「つまり儂たちは勝手に代表として仕立てられたのですか?」

晴信で作った行列は作ったから、一行が通る所に民が集まって、騒いでいった。その時ユイラ―は鉄で作る薄片を取り出し、音楽みたいの物を奏でて、民たちも囃し立て、行く所に話題になっている。

「これで、大御所様もわしらを重視しないといけぬじゃからのう。ははは!」

晴信は自分の策が得意するかドヤ顔で大笑した。

「さぁ、見えて来たぞ。駿府じゃ」

一行は富士川を越えて、今は南から一面の瑠璃色の海を見え、北は折り重ねなる青山を、険しい地形を持つ薩埵峠をたどり着いた。

「ユイラ―殿、さきに越えた富士川は治承・寿永の時、源頼朝公、武田信義公と桜梅少将維盛公が対陣した所であり、そして今我々が立った薩埵峠は、観応の時に将軍尊氏公と御舎弟直義公が争う地になります……」

「ミゲル、薀蓄な知識を披露するのは程ほどにせい」

晴信はミゲルの説明を打ち切って、ユイラ―へ言った。

「ユイラ―、ミゲルの言う通り、今我らにいる駿河は天下人とゆかり深いの地じゃ。そして」

晴信の指はさらにその先を指した。

目に映るのは、大都市だ。駿府は戦国時代には戦国大名今川氏の本拠地、今川館の所として、京文化と武家文化の融和地として栄えたが、武田信玄の侵攻で壊滅となった。だが、徳川家康は征夷大将軍の任官から、二年後の慶長十年(1605)、将軍職を嫡男の秀忠を譲り、かつて自身が本拠とした駿府城へ隠居したが、「大御所政治」と呼ばれるように、実権を握っている。そのため、駿府も大いに発展して、「駿府九十六箇町」と呼ばれる街区が整備され、人口10万以上ともいわれ、大坂、江戸に次ぐ大都市になった。

その真ん中に鎮座しているのは、天下普請によって修築された駿府城である。巨大な石垣に聳え立つ白亜の城壁と櫓、そして青瓦で光っている本丸御殿が眩しく鎮座する。壮観な層塔式天守も同じ白亜で雲の中に衝くほど立ったはずだが、去年の火事により焼失されたので、ユイラ―を見たのは、再建工事中の大天守の骨とそれと連なる小天守だろう。

「大きい……白い……綺麗……」

「あれは、これから其方と会う、天下人の城じゃ」


だが、そこまで上手くいかなった。

「大御所様謁見の件について、今は些か難しいのう」

「それはどういうことじゃ!」

大久保長安の苦渋の答えに、晴信は憤慨に拳を床板へ叩いた。

「いや、暫く……待たれよ……」

「もう十日くらい待っているぞ!」

「いえ、儂としては、有馬殿は見事に役目を果たしたことは嬉しいと思うが、まさかこのような姫君まで連れて来たとは……」

今晴信に来たのは駿府城下に据わる大久保長安の屋敷である、そこに近く寺を宿所とした。長安は晴信の依頼を受けて、すぐ家康へ取次したが、続報が芳しくないと見えます。

「今は時期的にちょっと微妙でござる故……」

「微妙っていうと?」

「おや?有馬殿は知らなかったのか?あ、渡海したからか?」

長安の次の言葉は晴信をかなり驚かせた。

「島津が琉球へ侵入した知らせが入ったのじゃ」

「何!」

珍しく、晴信の声に明らかに狼狽えた。

「琉球の漂着船送還の件について、大御所様はずっと島津を介して謝恩使の派遣を求めているが、一向に応じなかった。今回琉球の謝名某は島津へ罵ったので、樺山、平田二人の将を派遣して琉球を攻めることに相成った。今は丁度、大島へ攻め入った知らせが届いたのじゃ」

「これは、何かマズイですか?」

ユイラ―の疑問には答えられぬ。

もし島津が琉球を征伐するなら、それは幕府の外交転換かもしれない、今まで貿易だけで足りる幕府、これから諸国へ服属を要求する流れと変わるかもしれない、ならば、上手くいかないなら、大名に命じて軍勢を派遣しその国を征伐、あるいは「唐入り」のような日ノ本挙げての出兵も……そう考えると晴信は冷や汗をかいている。

(最悪、孫七郎が求める、『ユイラ―達の高山国の独立性を守る』いう目的は、潰えかねぬではないか……)

「それならば猶のこと、大御所様に高山国の来訪使殿に接見させて頂きとうでございます。不埒な琉球加えて、さらに南の国は、千里遥々しく徳川の御威光を仰って来朝した者もいることを見せなければならないと思います故」

「それも一理おるがのぅ」

晴信は挫けず説得していたが、長安は相変わらず難色に示した。

「琉球は明より冊封を受けておる。その琉球へ兵を出したということは、亡き太閤殿下のように明国との合戦の瀬戸際故、大御所様は今相当に気が立っておるのじゃ」

武士は合戦を恐れているのはどういうことだ?と晴信は一瞬、家康に蔑視してしまった。

(やっぱり徳川は殿下のような天下人の器ではない!)

ガスパル殿はもしそれを聞くときっとそう言うだろう。と晴信を思っている。

「しかも、大御所様の側は今、貿易について、快くないと考えている人もおる。」

「……本多上野介殿か?」

「如何にも」

本多正純一派と大久保一派は長く不仲している事は大名の間に既に知れ渡っている。

「あいつらはイスパニアとポルトガルとの通交は嫌がっているじゃ。エゲレスとオランダのような新教南蛮国の方がいいとばかり言っている。分からず屋めが、石見銀山と佐渡の金山を開発するのは今イスパニアとかの国の山師は必要なんじゃ……」

長安は愚痴を思わず垂れていたが、すぐ真面目な顔を戻った。

「とにかく、儂はもう一度大御所様へ申し上げますので、しばらくお待ち下されよ。今度は寄親の相模守殿(大久保忠隣)も一緒に頼みしに来ますので、きっと成し遂げましょう。何せ奇妙な見た目の姫君である故」

大御所様もきっと興味があるであろう……はず、と長安はそう言いながら、視線は嘗め回るようにユイラ―の体を見ている。

「ひィィ!!」

何か危険を感じるが、ユイラ―は素早く晴信の手を掴み、「しゃー!」と長安を威嚇している。

「石見守殿、女癖もほどほどの方が良かろう」

長安の女好きも有名で、側女を70人から80人も抱えていたとでも言われている。

「いやいや、そんな野性美がある女子は初めて見ました故、ついに……」

長安は笑いで誤魔化した。

「だが、お二人の仲はこう見ると随分深いじゃのう」

ニヤニヤする長安にそう言われると、ユイラ―と晴信はすぐ気まずく分けていた。

「そ、それじゃ、一応、石見守殿の言う通り、儂は宿所に少し待っておる。今回の出使、儂の望みを叶うといいようにと、帰り道に駿河の社も参りましょう」

晴信は立ち上がり、話は終わるなら帰って次の一歩を考える方がいいと思っている。

「うん、自分の欲望に正直にする者は嫌いではない、が」

その時、長安はいきなり言った。

「欲望を正直にする者は嫌いではないが、欲望を隠す方がいいとでも思いますぞ」

長安はそう忠告した。

「本多親子に気を付けなされ。正直を剝き出すと、どんなしたたかな者でも彼奴らの罠に嵌められかねぬ」


晴信はユイラ―と大久保屋敷にいるほぼ同時に、ある人は晴信一行の宿所を訪ねて来た。

「お引き返えてくださいませ」

「それでいいのか?」

角兵衛の冷たい言葉に、満面の笑顔を持つ男、岡本大八はそのまま懐のロザリオとラテン十字を取り出した。

「……デウス様の思し召しで」

それを見て角兵衛も仕方なく、懐のロザリオを示し合わせてしまった。

「……アーメン」

「して、パウロ殿、今回は何の用件でこちらに?」

パウロと名乗るこの岡本大八という男は、有馬家中には馴染まない人ではない。この男、元は長崎奉行長谷川藤広の家臣だったから、有馬ともちろん長崎の南蛮貿易で付き合ったことがあった。だが、いつも笑顔があるので、何を考えているかまったく分からない者であり、有馬家中にも苦手の相手である。

「貴殿は本多家へ移ったと聞きましたが……今日はどんな吹き回しで?」

「ははは、有馬様は伊豆から高山国の使節団を連れて参る事で、民たちに人気が湧いて来ていると耳にいたしました、我が主、本多上野介様は我を遣って、高山国の使者をおもてなししようと仰せつけられたのです」

「ご覧の通り、今殿も使者殿もご留守でございましたので、お引き返しを」

「まぁまぁ、そう邪険にするな。ご留守でも、別に大御所様をお目通りしにいくじゃございませんよなぁ?」

(そこまで知ったのか?いや、十日まで逗留しましたので、もう嫌でも知っただろう)

「そこで、一つ建言がある。今大御所様は島津の琉球出兵の件で気になって仕方がない所であるので、使者ではなく、漂流民という建前で彼らを謁見すればいかがでしょうか?」

「これじゃ使者とは呼べぬではないか!」

角兵衛は反対しますが、傍にいるミゲルの意見は異なる。

「いえ、今の大事なのは使者と大御所様と会い、それこそ次の一手を打てるではないか?ならば、形はどうあれ、私はそれを受けるべきだと思うが」

「だが、それは体裁には取れませぬ!」

「如何にも。使者として扱わず、記録にも謁見を残らず、丁重なおもてなしもしない。だが、我々はそれを功績として有馬殿、使者殿の事も考え、明への外聞も気にする必要がない。それも悪くない提案と思いますけど?」

「そこまで華々しく行ったのに!話にはならぬ!」

「はて、そこまで正式な謁見を拘るのは、もしかして何か謁見しなければならない理由がありますかねぇ?それども、使者殿には何か『事情』でもございませんか?」

大八は笑っているが、その笑いの中にその時に何か危ない者を感じられた。

「それは……」

急に話が詰めた角兵衛に対して、ミゲルは冷静に対応した。

「飲むか飲みまいそれは従兄弟殿で決められる事。申し訳ございません、一度引き返して頂けますか?後にまた上野介様へ返答致しますので」

冷静に対応されたから面白くないと思われるか、大八の笑顔はいきなり消えたが、すぐにも戻った。

「いえいえ、私も忙しい過ぎた。ここには波瀾万丈の面白い旅話を聞けると思ったのに、どうやらまた今度で」

では、先に失礼いたします。と大八は去った。

「今回は収穫なしか……」

寺から出た大八の声には失望に感じられた。言葉であの二人から何か今回有馬晴信が高山国へ行った情報を曝されると思ったが、やっぱりそう上手くいかないものである。

「殿も人使い荒い――う?」

次はどう出るかと考えている大八には、ある者を目に映った。

それは、寺の中にうろうろして、何か詰まらない顔をしている顔思斉である。

「御公儀の所には俺のような海賊にとっては窮屈と感じるなぁ……」

その時、顔と大八は目に合った。

「其処許、確か長崎の李旦殿の所にいる筈の」

日光の照らす光で伸びる大八の影に、何か笑った気がする。


「何卒!何卒!有馬修理大夫殿と彼が連れて来た高山国の使者への謁見をよろしくお願い申し上げ奉りまする!」

「まぁそう慌てるな」

平伏して、取次の面目をかかるように必死に願っている長安に対して、上壇に脇息に寄る徳川家康は亀のようなまったりしている。

「面を上げよ、石見守。太閤殿下も、朝鮮の使者を待たせた例があったではないか?」

「大御所様は太閤殿下になる気でございますか!?」

長安は家康に面に向って大声で言った。

「今誰か大御所様へ讒言を吹き込んだか分かりませぬが、イスパニア、ポルトガルへの貿易は続かなければならぬ。白銀の技術や香辛料、色な商品は彼らから日本へ入る。朱印船貿易も、今多くの日本人は海外へ行き、商売をする金はやがて本国にも流れてくる。それは戦国の世を終わる浪人たちにも新しい道を開きまする。それを閉じ込めようとする人は、銭の力が分からぬ、最終は海外の事も分からなくなって、武士は銭を分からない故に貧しくなり、外国への威脅を対応できなくなるぞ!」

貿易を制限しようとする行いは不智ぞ!と、長安はそう説明した。

「有馬殿の事も、かの殿様は自ら未知の国へ行き、そして海外の使節を見事に連れて来た。その事は褒めるべきと存じまする」

長安はそう主張した。

「しかも島津と違って、有馬殿は血を流さずで高山国の使者を連れてまいり、華々しい行例で、琉球よりさきに大御所様へ謁見しようとしている。これは大御所様の御威光の賜物じゃと存じます。新しい朱印船貿易の道を開くために、何卒……」

長安は兼ねて平伏して願っているが、家康はそれを聞いて微動だにせず静かに何か考えているらしい。

「石見守、うぬ随分有馬修理大夫を贔屓しているのう」

そして、渾厚の声で言った。

「うぬの言ったことすべてが正しい、だが、そうはいかぬ」

「何故でございましょうか?」

「うぬは少し勘違いしたようのう、上野介の建言もちろん余も聞いたが、決定を下るのはあくまでも余じゃ」

家康は言った。

「貿易はいい、だが余は有馬を気に入らぬ」

その事は長安に困惑している。

「それはどういう事でございますか?有馬殿の渡海をお許しくださったのは大御所様ではございませんか!?」

「許したが、そこまで大行例で見せびらかすようにここに来たとは言っておらん」

家康の顔はまるで苦虫を嚙み潰したようになった。

「まるでこれで余を何か要求しているように見えるぞ」

長安は沈黙した。家康も長安も、九州の大名の間に何か競合関係があること、そして有馬晴信は旧領を取り戻す事も力に入れる事も知っている。

「明国に干渉しない国はいいが、彼奴はその恩賞に儂は肥前の所領を求めるか、あるいはその国ごと我が物にしたいか、分からぬ」

「今島津の琉球出兵の最中で、一方の要求も飲めばもう一方の反感を買う。今の世はもう下の力で上へ願いを通せる世にあらず!」

家康は指で長安を指した。

「有馬へ伝えせよ!要らぬ野心を抱くな!加増など考えせず、私心なき公儀を奉公尽くせば、余はかの使者と会う!」


晴信はユイラ―は大久保屋敷から帰ったと、角兵衛とミゲルはすぐ岡本大八の事を晴信へ伝えた。

「長谷川殿所におったあいつか……」

「はい、しかもユイラ―殿を漂流民という名義で謁見すると申しましたが……」

「ほう」

「まったく腹立たしい!殿は貿易のためにユイラ―殿を連れて来たのに、なんと仕打ちじゃ……」

「いえ、恐らく腹案の一つであろう」

「どういう事でございますか?」

そこで、晴信は大久保屋敷に長安から聞いた事を話した。

「つまり、今の幕府内は我々の行動を快くない者がいる……?」

「そうじゃ、貿易抑庄派の事もあって、島津めの琉球出兵の件もあって、高山国の使者来訪の事を出来るだけ目立たなくなりたいであろう。」

「何か、我々は規模が大きい網に落ちたじゃないですか……」

ミゲルの発言は衆人を沈黙した。幕府、肥前日野江だけではなく、日本、高山国、さらにオランダ、イギリス、琉球、唐国、イスパニア、ポルトガルなど、今回の渡海は一気に諸外国と絡む問題となっていく気がした。

漂流民という建前で使者を謁見するのは、いざいざこざと起こす時に、この使節団の事を、幕府の落ち度なしとする腹案があるだろうと思われる。

「困り物じゃのう……」

ユイラ―、奥へ行こう。と晴信は頭を抱えてながら、彼女の手を握って立ち上がろうとした。

「まだユイラ―殿と閨に一緒に過ごすでござるか?」

角兵衛は声を低くなって聞いた。帰国の旅路に、家臣たちは何も言ってないが、主君と彼女の雰囲気でなんとなく察せられたのである。

「何か文句が言いたいでも?」

「恐れながら申し上げますが、今の状況を鑑みて、この出使をやめる方がいいかと思いますが……」

「ならぬ」

だが、晴信は即座に角兵衛の建言を断った。

「儂はこの件に自ら海へ出て、高山国へ行った。此度の謁見は我が面子もかかっているのじゃ!しかも……」

旧領奪還の悲願。

外国貿易の利益。

そして……

連雀れんじゃく、海賊、牢人、欠落者。法の箍を適わないものたちは、生きる必要もあると、助左殿はそう申した)

(人々の各々の自由を尊重し、それを自由にさせる方が一番だと思います)

「儂は、彼らに頼まれたからの」

晴信はそう言いながら、ユイラ―を連れて宿所の奥に潜んだ。


「修理様は、優しいですね」

暗闇の中、裸のユイラ―はそう言った。

「優しい?儂は自分のためだけじゃ」

それに対して、晴信の声は素っ気ないと感じる。

「商売相手がいなくなると、儂は困るからだけじゃ」

「そう言っても、修理様は皆に気を遣っているじゃないですか?」

「そんな事より、自分は謁見の時に何か言うか考え方が良いぞ」

晴信はそう言った。

「大御所様は新しい物が好き故、何かの芸があるなら披露する方が良い」

「あたしも修理様のように言葉の言い方を直す方がいいのか?」

「いえ、そのままで良い。素直こそユイラ―殿の良い所じゃ」

晴信は、まるで自分へも言い聞かせたように言った。

「ユイラ―殿、君は知らないかもしれないが、日ノ本は十年ばかり前まで、戦続きじゃった。儂は生きるために、騙して、騙されて、裏切って、裏切られて、ようやくここまで生きてきた。太平の世に、儂はこれからの人をさような苦労など味わってほしくないと願っている。儂は、『正直』を『弱み』と扱う世になると、それはあまりにも悲しい事と思うのじゃ……」

「なれど……」

ユイラ―はまだ何か言いたいが、晴信は一日中歩き回したせいで、布団に横にした。

「今日はそのままにしておこう。やもすると、明日に何か良い知らせが来るかもしれないじゃ」


その良い知らせは、本当に数日後にもたらされた。

「大御所様は謁見は許してし申った」

「誠でござるか!?」

長安は晴信一行の宿所へ訪ね、座ったばかりの所にそう知らせて来た。

「何かあったのか?」

「察しが良いのう。薩摩の軍勢が琉球の都城を落としたという早馬が来たからじゃ」

「なるほど、明がそこまでになると何も動きがないから、大御所様は我々と会うのも良いと判断なさいましたか?」

「さすが有馬殿、ごもっともじゃ」

長安はまず晴信の冷静の分析を称賛した。

「謁見は三日後じゃ。使者殿を準備させ、貢物を用意して頂きたい。貴殿らは薩摩の樺山殿と長門宰相様の証人である桂某の後でする予定でござる」

「かたじけない。すべては仰せのままに」

長安は去った後は、宿所内の晴信一行は瞬間嬉しい空気を爆発した。

「いよいよだなぁ……」

「顔殿!謁見を首尾良く終われば貴殿たちも多く商売利益を得られるぞ!」

角兵衛は嬉しいげに顔思斉へ言いましたが、肝心な顔は何か浮かべない顔している。

「何かあったのか?」

「いえ、別に……」

だが顔は頭を振って誤魔化した。

「ど、どどどしよう……」

逆に、ユイラ―は緊張して体をすべて震わせていた。

「謁見って……あ、あの人はこの国一番偉い人でしょうね?あたし、何か間違いことをすれば……」

「大丈夫じゃ。大御所様はこの国二番目偉い人だけじゃ」

「そういう問題じゃ……!」

その時、暖かい手をユイラ―の頭を撫でて来た。

「あ……」

「其方が外国の人、些細な粗相を犯しても誰にも怒られまい。其方、其方のその竹を割った素直を発揮し、大御所様に、高山国をいかなる場所か申し上げれば良いのじゃ」

晴信は慈しんでユイラ―の頭を撫でている。晴信一行が高山国に来て初めて知り合いとなった女子として、長い旅を経て日本までついてきたから、彼女と晴信の間に、愛情や友情を越える何でも言えない絆があると見える。

「そう、ですね。そう、修理様は……あたしの側にいる」

ユイラ―は晴信の手の温かさを感じながら、震える体が段々落ち着くようになってきた。

その時、誰でもこの謁見は高山国との通商が出来し、国を豊かとすると思った。

そのはずだった。


「登城前に先に言っておくが、ユイラ―殿、これから何を見ても驚きを表すでないぞ?」

駿府城を登城する前に、晴信は縹色に波紋模様の直垂を着替えて、侍烏帽子も被りながら言い続いた。

使節団の一行はまず駿府城の大手門へ行き、そこに下馬札がある所に晴信が下馬し、ユイラ―や角兵衛など僅かな供を連れて、白亜の玄関に入る。

「わ――」

「控えよ」

ユイラ―は思わず感嘆を発したが、晴信から声低く止められた。

これは無理もない。白亜の玄関でも金箔を張る懸魚を飾る唐破風造り、それを潜ると、一面とにかく長い惣檜作りの廊下が見えてくるのである。

それはすべてには大員に生きる彼女には見たことのない豪華さだ。

「高山国の使者と有馬修理大夫殿でござるか?こちらへ」

晴信一行を接待するのは涼しい顔を持つ小姓である。

「榊原内記清久でござる」

「よろしくお願いいたし申す」

「この女子は……?」

清久の目を少し上がり、奇異な眼差しでユイラ―の民族衣装と頭に飾るデイゴと蘭花を見ていた。

「使者である。何か不都合でも?」

晴信は毅然とした態度で言った。

「いや、それは失敬。だが、そのような派手な格好で大御所様の所へ?」

「それは高山国のしきたりじゃ」

晴信のあの一歩も譲れない心構えで、清久はさすが屈した。

「大広間へ案内致します」

埃一つもない清潔な廊下を通り続き、襖には松、鶴、唐土の聖人たちを画を描き連ねなっている。さらに頭を上げると、天井にも牡丹、竹、ヤマハギ、オミナエシなどの花絵が施されていた。

「田舎者と思われるぞ」

角兵衛に注意しろと言われると、ユイラ―はようやく気付いて、開けっ放しの口を閉じた。

「すみません、これは本当に――凄く綺麗ですから」

先頭に歩く晴信は何も言わなかったが、それを聞く時に、仄かに微笑した。

「こちらに待ってくださいませ」

清久が一行へ導いたのは、大広間の下の間である。

「もうすぐ謁見が始まるでござる」

今回の謁見の主役はユイラ―ですので、彼女が真ん中に座らせ、晴信はその傍に侍らせた。

暫く待っていると、緊張で引き締める空気に、上の間と下の間の分ける襖はゆっくりと広げた。

晴信は自然に頭を下げ、それを見た彼女も慌ただしく頭を下がりました。

襖が完全に開くと、上の間から物々しい雰囲気を感じられた。

そこにある両側には裃を着る家臣はすらっと並んで、成瀬正成、安藤直次、秋元泰朝など、駿府詰め老職がずらりと顔をそろえている。

上の間のさらに上に高麗畳に敷いた上壇がある、そこには座布団と脇息が鎮座している。

「大御所様の御成~」

清久の甲高い声が大広間によく響き回し、それを聞いた人々も自然に頭を垂らした。

針が地に落ちた声でも聞こえほど静かの中に、晴信とユイラ―は何も見えなかった、衣の擦る声だけよく聞こえた。

誰か上壇に座った。

「表を上げよ」

分厚い声が言った。

「は、はい!」

ユイラ―は一気に頭を上げ、手で顔を塞ぐ晴信を気にせず、前を直視ていた。

「女子!?」

衆人驚異の目の前方に、白い胴服と小袖を着る丸い老人がいる。

髪と髭が白くなるこの老人は肌だけ艶があるが、その上にいくつかの傷を見える。老人は脇息で体を右に寄りかかり、声を発した。

「くつろぐが良い。余は前征夷大将軍、右大臣、源家康である」

徳川家康はそう自己紹介した。

「有馬修理大夫晴信、高山国の使者である姫君ユイラ―が、日ノ本と通交するために、大御所様のご尊顔を拝したく、遠路はるばる参上仕り候!」

晴信もその時、用意した口上を口にする。

「姫君だと!?」

「女を連れて来て、大御所様を愚弄する気か!?」

「さにあらず!高山国は女人入眼の国故、大事な姫君を外国へ使者として選ばれるのじゃ!」

駿府詰め老職の驚愕に対して、晴信は理論で反論した。

「ほう、姫君が大事か。ならば、その大事の姫君が、儂に何の誠意を見せるつもりか?」

(貢物のことか?)と晴信は家康の疑問そう理解した。

「はい、角兵衛をここに!」

晴信がそう呼んだ所に、角兵衛と数人の家臣はいくつの長持ちを担いで、広間外の白洲にやって来た。

「開けてみよう」

「おお!」

広間にあげられた長持ちを老職たちが開けると、中には鹿皮、干し肉、サトウキビ、硫黄、煙硝などの物がある。

「鹿の皮は鎧の内部に使える、干し肉は歯応えがあり美味い物でござる、兵糧として良く使えましょう。そしてサトウキビがあれば、我々は砂糖を安値で手にできまする。硫黄と煙硝も、我らを唐国以外から火薬の材料を得られる術になるのではありませぬか?」

晴信はさらに言った。

「高山国という地に、様々な民が住まう、誰の物でもない国でござる。この誰の物でもない国こそ、今の日ノ本にとって、明国と南蛮諸国の、マカオのごとき交易の拠点と化けまする!」

「よく申したのう」

家康の目は一つの香木に付けた。

「あれは?」

清久は長持ちにある木を家康の目の前へ持ち、彼は興味深いそうに香木を撫で、その触感を感じている。

「あれは樟脳の木でございます。」

「嗅ぐと妙な香りがおるのう」

「この香りは蚊と虫と除ける力があると、地元の住民たちはそう申しました」

「ほう~それは良く働いたのじゃ、修理大夫殿」

どうやら医療が趣味な家康にはこれは一番気に入ったようだ。

「だがなぁ、ユイラ―殿、儂が知りたいのはそれではない」

だが、この時から、家康の声が変った。

まるで戦場にいるという緊張感が出てくる。

「余は見せたい『誠意』は、うぬらは本心で徳川へ帰服するのか?あるいは、ほかの大名や商人と結んで、儂を楯突きするつもりか……」

家康が話した途端に、その鋭い目光は晴信を刺すような気がした。

「どうじゃ?高山国の姫君よ、返答はいかに?」

家康の声は猫を撫でているように軽いですが、異常な威圧感でユイラ―に迫ってきた。のどが渇き、舌も上手く動けなくなり、体も本能で、答えが間違えば命の危険があると、心臓が早鐘を鳴っている。

「あたしは――」

うそをつけば良い。彼女はこの時に思った。

目の前のこの男は、山のような体と得も言われぬ覇気、まともに相手出来る男ではないと分かっている。

新港は大御所様に帰服します、そう返答しようと思った矢先。

(貴殿は今日から『シラヤの姫様』じゃ。誇りを張って、日ノ本の人間を存分に驚らせてくれ)

師匠、原田孫七郎の言葉は脳内に蘇った。

(徳川は信用できん!)

あの愚直の男の姿がユイラ―の脳裏にはっきりと映った。

海の島へ流れ来たのに、商人であるが、自分はあの「殿下」の家臣のように、武士の如く振る舞って、日ノ本に逃げて来た人を受け入れている。

あの男は誇りを持つ人と、社に来たから彼の𠮟咤激励を受ける彼女は幼いからそう思っている。

「武士」という生き物もあの男から聞いた。その「武士」の生き方に理解したいから、外の世界を見てみたくなりここまで赴いた。

武士なら、この時、どうするべきか……

「――できません」

「何?」

自然に、拒絶の言葉がユイラ―の口から流しました。

大員ダイワンは、徳川を服属できません」

ユイラ―は、何か肚を括った顔、そう言いました。

「ほう」

家康のあの好々爺の顔が獰猛に崩れた。彼は上壇から降り、傍の小姓である清久の手から太刀を持って、彼女へ向け歩く。

「大御所様!なりませんぬ!」

清久の止めを効かずに、家康は太刀を抜き、冷たい抜き身の太刀をユイラ―の頸の近くに振り止めた。

「大御所様、それはどういうおつもりでござるか!?」

「控えよ、修理太夫。儂は高山国の使者から答えを聞きたい」

家康は晴信をそっちのけで、ユイラ―の茶色の瞳を見つめていた。

「はい、恐れながら、あたしは今度の出使は徳川への服属のために来たではありません。」

「ならば何のために」

「それは日本と大員は、対等な友好国になるためです。」

「対等?」

家康は鼻で笑った。

「うぬ如き小国が日ノ本と対等とは?」

「だからこそ、徳川様の助力が必要となります。交易という命綱を守るために」

彼女は言った。

「大員があれば、日ノ本は南蛮諸国との南の航路が保証出来ます。そして今明国の海禁で貿易できない明人とも落合の場として取引出来ます。されど、もしこの大員は南蛮や明の手に落ちれば、貿易の道は断たれ、さらに陣取った異国の兵が日ノ本を脅かすでしょう。」

(だが、其方たちの力だけで、本当に自分を守りきれるのか?もし出来ないなら、たとえ危険があっても、他人の力を求めよう)

(嫌でも構いませんよ、我が国は通商など興味がなく、ただ、この国を保つ事を腐心しているだけじゃから)

(私はその前に、ここを『自由』のままにしたい。連雀れんじゃく、海賊、牢人、欠落者、この島は太閤殿下の遺産になる世のはぐれものたちの居場所になりたいと思います)

(今この地にやるべきことは、過大の干渉しない国を後ろ盾にし、それを公儀と仰ぎ、外来の脅威から自身を守ると存じます!それは自由を保つ唯一の方法にござる!)

出会った人々の数々の言葉を思い出すと、ユイラ―の言葉はスラスラと口から流れてくる。

よもや彼女がこのような理路整然の利害関係を説明するとは、と、晴信は心底驚いていた。

「琉球もおるではないか?たかが小島一つで誰にも気にするはない。現に明国は一兵も動かさなんだ」

「琉球は――知りませんね。あの薩摩に落とした国でございますか?」

「うぬは……なぜ!」

家康の顔色が変った。

「そんなか弱い国は、異国の兵を防御出来ますか?しかも明との繋がりがあり、いざという時は裏切りかもしれませんよ」

ユイラ―ははきはきと言った。

「あたしは大御所様を保証します!もし日本は大員の独立を守れるなら、我が大員は全力で日本の貿易と要望を叶えます!」

「そのために、うぬら大員は何を目指すのか?」

家康は感情がない声でユイラ―に問う。太刀もさらに彼女の頸に近くなったが、妙なことは太刀に触れている蘭の花を切り落としていなかった。正直、高山国から今までそんな長時間で花はとっくに枯れたはず。あれも尪姨の魔法か?と晴信は思っている。

「自由の国を。自分の手で、自分の国を自由に暮らしたい」

彼女の声はおごらずへつらわず、堂々とした色であった。

その答えを聞いた家康は、何故か懐かしい顔をしていた。

「只今はおしなべて、自分の力量をもって、国の法度を申しつけ……か?」

太刀は徐々にユイラ―の頸から離れ、鞘に納めていった。

「よくぞそんな口利き方するのう。日ノ本の言葉が上手いのじゃ」

「はい、いい師がいますので」

その時、彼女の目は晴信を見た。

「そうか」

家康は上壇へ戻った。

「高山国の姫君よ。名は何と申す?」

「ユイラ―と申します」

「日ノ本の言葉を分かるユイラ―を、今うぬへ『高山国国王』との名号を授けよう」

これは過分の一言だ。ユイラ―もさすがに平伏した。

「あ、ありがとうございます!」

「感謝するのはまだ早い。日ノ本への誠意を見せなければならぬから、次に謁見する場合に正式に任じるのじゃ」

これで例え内実は置くとして、形として「徳川の武威に入貢する異国」を作れると、家康はもくろんだ。

「大事におもてなしせよ。この人達は大事なお客様じゃ」

家康は家臣にそう言付けた。

「そして、でかしたぞ!修理大夫殿。褒めて遣わす」

家康の目線はさらに晴信に向けた。

「はは――!」

晴信の大声は、彼はこの度の渡海が成功したと確信した瞬間だった。

だけど、彼はすぐにでもその後の異常を気付いた。


「いや~肝を据える大した女子じゃ」

四畳半の茶室に、茶釜の湯煙は山霧のように亭主と客の顔を隠し、茶釜の中に松涛に聞こえて、庭の緑から会うとさらに粋が出される。

「それど、大御所様はまさか軽々に相手の要望を何もかもすべて答えたでは?」

茶席の主、本多上野介正純は彼の人品と同じ、几帳面の動きで茶を点てている。唐茄子の茶入から茶を取り、柄杓で茶釜の湯を掬い、それを漏らさずに志野焼の茶碗に注ぎ、茶筅で三回くらい回る。その一連の動きは機械のように簡潔で物事を通じるが、面白さが欠けるとでも言われる動きでもあった。

だが、感情のない動きに対して、その声はあからさまに不満げだった。

「ははは、余は誰だと思うたか?」

相手に手玉を取られまい。家康は言いながら正純を出した茶碗を取り、それを飲んでいた。

「濃茶じゃのう」

「だが湯をさらに注ぐと薄くなり、さらに茶の中に雑物が入ればまずくなりまする」

正純は言った。

「大御所様、引き続き外国と貿易すると、我が国の金銀は流出して、蔵は薄くなるばかりでござる。しかも、あんな疑い奴らを日本へ入れば、我が国はどうなるか分かりません」

これは忠義による諌言でござる!と正純は家康に向かってはっきり言った。

「左様に言うがの、その使者は余計な野心は感じられなんだ。しかも自国の独立性を保障すれば、日ノ本を尽くすと申しおったぞ」

「はぁ、裏で何を思うておるか……」

正純は少し呆れる気味で嘆いたと手を撃ち、その声を指示のように、躙口から一人の男を潜り入れた。

「うぬは?」

「我が家臣である岡本大八にござる。今回この正純と三浦殿の合意で、有馬殿の宿所から、何か面白い情報を持ち帰ってきたとのこと」

岡本大八の笑顔に、「ここは茶室じゃ、我らしかおらん、遠慮なく申せ」と、正純は命じた。

「へぇ。まず、大御所様、今回有馬修理大夫殿が連れて来た使者たちには、唐人がいることを御存知ですか?」

「いえ、知らん。それは何か問題でも?」

「かの者は、口が緩めじゃから。酒を飲めば知ることを何もかも喋りました」

それで、と大八が言った。

「その唐人から、大員には、前の戦で石田方に立った落武者達がおる、さらに有馬修理大夫はその人らから亡き太閤殿下が高山国へ国書を手に入った事と聞き及びましたぞ?」

その言葉を聞いた所に、家康の顔がいきなり曇った。


「ははは、見事也!見事也!」

外装が華麗な太刀数本、木綿、絹数十反、古式の胴丸二領、鉄砲、蒔絵を施す家具、そして米、鮑と鰊の干物の食品類など、駿府から賞賜したものは晴信たちを比べ物にならないほど多く、船一つでも用意する方がいいかと晴信を思っている。

「まさか大御所様へ向かってそこまで直言出来るとは、大したものじゃ」

だが、今日の宴の主役はユイラ―だ。

使節を参上することを成功する祝いですが、駿府城内の謁見の経緯を話した所で、皆敬畏の目で彼女を囲んでいる。

「いえいえ、あの知識はすべて、師匠からの受け売りだよー」

「それならば原田殿を感謝しなきゃ」

「いえ、師匠からの受け売りもあるが、もし修理様はあたしに、素直でいいと言ってなければ、あたしのありのままの望みを大御所様へ言えなくなると思います」

赤面になるユイラ―はそう言いました。

「これもデウス様の導くのおかげだ」

皆歓喜の空気を漂っているが、晴信一人だけで何を浮かばない顔している。

「殿、何かあったでござるか?」

「いえ、そこまで品物を貰えばもちろんいいですが、何かおかしいと思わないのか?」

「おかしいって?」

「貿易の朱印状、や、高山国の王の国書とか、我らは確たる書付を頂戴せなんだのではないか?旧領を貰える口約束さえも」

そう、能と饗応でユイラ―たちを振る舞ったが、下城したところに、家康から、晴信が欲しい物を何も与えなかったと気付いてしまった。実は彼女も、空約束だけ得ただけ。だがあの頃の雰囲気はとても口に出してはいけない気がするので、今思えばあれも家康の策略であろう。

晴信の憂慮により宴の雰囲気がいきなり一転してしまった。

「い、いや、そこまででは……」

「きっと遠からず折を見てくださるでしょう?」

「家臣の其方らは楽観視しても良いが、諸侯の端くれとしてそこまで考えなければならん」

晴信は真面目の声でユイラ―へ言った。

「ユイラ―殿、其方も心の準備をしておけ。もしかして今回の渡海は何もないと心得よう。そうなれば、其方は今の成果を守って、高山国へ逃げるべきじゃ」

為政者として目を覚ましたからが、ユイラ―は固い意志を含む目で「はい」と答えようとしたところに、「うえ……」とと吐き気が彼女を襲った。

「おい、ユイラ―、大丈夫か?」

「いえ、ただ、体の具合は、少し……」

あの日から、ユイラ―は体調が崩れて横にした。初めての土地で体が慣れないか、或いは疲れ果てたと思ったが、それを知るのはまた後の事だ。そして、晴信の危惧も一か月くらい後に現実となった。


「何だと?」

晴信が冷たい顔して睫毛片側を上げり、大八の笑顔へ問った。

「つまり、ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号というポルトガル船が長崎へ来た話は、長崎奉行である長谷川殿から届いて来たのです」

「それは我々と何か関係か?」

「大御所様の命じゃ」

大八が言った。

「有馬殿は天川にノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号のカピタンであるペソア殿と揉めたでしょう?」

名前が言い出したと、大員に出会ったあの生意気な顔を浮かべ上がった。

ああ、あの時ユイラ―を攫った人……と晴信を思っている。

「そのペソア殿が天川での騒動で長崎に来て大御所様へ申し開こうとしたのじゃ。だが、長崎でも貿易の件について長谷川殿にも揉めた模様です」

「それはそれは……随分と嫌われたのじゃのう」

「そこで長谷川殿は、有馬殿はこの機会で、遺恨を晴らすのはどうじゃ?と、大御所様へ許しを求めた」

「遺恨を晴らす?儂らにポルトガル船を攻撃せよと仰せられたのか?」

晴信はすぐ分かる。

「外国貿易と力入りの大御所様の命令とは考えられぬ。これは誠か?」

「ええ、ポルトガル船に積載されていた生糸は、今呂宋にあるイスパニア船で替わる事が出来ると保証した。しかも阿蘭陀の船も引き続き来航すれば……」

ポルトガルを切り捨てでも良いのか?

――徳川は海外の貿易は好かぬ。

晴信は原田孫七郎の言葉を思い出した。確かに今はまだ朱印船を盛んでいるが、この事件をきっかけで、外貿を徐々に減らすという恐れがある。

孫七郎の予言が的中したのか?

(だが、もしこれは御公儀の命ならば……)

晴信は先の事など頭から振り消して決めた。

「分かった。儂がやる」

「それは良かった!大御所様は、事を成す次第に肥前に藤津・杵島・彼杵という有馬殿の旧領三郡を恩賞として賜ると、我が主である本多上野介様がそうおっしゃったとのことでござる」

大八の笑顔は常に何か裏があると思われている。だが、大御所様の名を持ち出したら、信じる他あるまい。

「くれぐれもこの言葉を忘れるな」

晴信のこの言葉を置いたから退席した。今となると、例え噓でも信じるべきかな。だが、事を成しても、ポルトガルと切支丹との関係は悪化し、貿易との利益も減る事になるだろう。

有馬の行く末は闇雲に隠れ始まる。

と思ったところに、角兵衛は音が立てないように膝で滑って来た。

「どうした?」

「その……江戸屋敷から医者にユイラ―殿を見ましたが、あの……」

角兵衛は何か言葉が濁っている。

「何がまずい事おるのか?申せ。」

「それならば、耳を」

角兵衛は口の所へ手で招いた。晴信は身を寄せると、あまりの驚きで危うく転びかけた。

「ま、誠か?!」

「はい、ユイラ―殿は、御懐妊でござる」

まさに青天の霹靂である。


「あ、修理様」

「そのままで良い」

ユイラ―はまだ体が弱く布団に寝ているが、声が生き生きと感じる。

「出使は成功しましたか?あたしはいつ、修理様が前に言った、あの新港が国主ですと示す『朱印状』というものを貰えますか?」

「ユイラ―、我々の旅は終わった」

言いたくないが、そのまま黙って彼女が帰国まで口をしないとしたいが、自分すら何も確実な物を得なかった以上、それは伏せるのは無意味だった、と晴信を思っているから。

ユイラ―は暫く動きが止めったが、次は明るくて笑った。

「はっはっは、あたしたちは騙されたのかな」

健気な振る舞いをしようとしているが、彼女の声は落ち込んだように聞こえてしまう。

「其方のせいではない。儂のせいじゃ、ここは其方らみたいな素直な人たちに来るべき国ではなかった」

晴信は歯を食いしばって、悔しげに言った。

「儂は日ノ本の天下人を甘く見たせいじゃ」

「つまり……あたしたちは失敗したのか?」

「いえ、失敗ではない」

そこだけ晴信は断言できる。

「其方は国から出られ、もっと大きな世間を目の当たりにした。南蛮人に攫われ、日本人と知り合いとなり、人脈を作った其方は高山国の住人たちには至宝になるであろう。儂もいつか高山国へ行き、其方とまた相まみえたいのじゃ」

晴信はユイラ―を見つめながら言った。

「それは本当ですか?」

「ああ、なれどな」

晴信は声が急に暗くなった。

「そう上手く行かないと、儂は思う」

「それはなぜですか?」

「儂は今、大御所様の命によって、其方の仇であるペソアを討伐しに行く」

「それは、いいことじゃないか?」

晴信は首を横に振った。

「これは儂自身の意志ではない。儂は武士である以上、ましては大名なら、天下人の下知に従わなければならん。例えそれが、南蛮諸国と切支丹への繋がりを壊そうとしても、これから有馬の船は七海に行きにくくなっても……」

仇討ちくらいなら一人で仕向ければいい。だが、これはもう個人対個人のものではない、公儀が命じた『公戦 こうせん』なのである。

「ユイラ―、高山国を『自由の国』とする願いを忘れるな。大名は、哀れな者だからじゃ」

この身分がある以上、わが身はもう我が物ではなく、上は公儀を服従しなければならない、下は家中民草に尽くさねばならない。

情で流されてはいけない。例え目の前にあるこの自分の子を宿る女子でも、贔屓より様々なことを考えないといけない。

そう思うと、大名は哀れな者だ。

しかも、ポルトガル船を攻撃するのは必ず『何かの流れ』を変えてしまう。晴信はそういう予感がある。

幸いに、変っていく小さな出来事もう一つある。と晴信はユイラ―を見ながらそう思った。

「その願いを叶うために、其方は、生きなければならん。生きれば、また何度も出向く好機もあろう」

ああ、其方だけではない。と晴信はそう言いながら、慈しむ目付きで、彼女の腹を撫でた。

「儂が其方を残す『未来』も」

それを聞くユイラ―は一瞬驚いたが、その次に目が柔らかくなって、自分の腹を見透けるほどに、その中にいる「何か」を見ている。

「そうか……そうなんだ……」

「これは、日ノ本と高山国――いや、有馬と新港の『絆』じゃ。一度出来たえにしは、きっとどこかに其方を助けるに相違ない!」

「はい、あたしは帰ると師匠と話し合って、きっとこの子を産んで見せますから!」

彼女は涙を目に含むながら、笑顔で元気いっぱいで答えた。

そうじゃ、その振り舞じゃ。ユイラ―のようなめけない心があれば、きっと高山国と有馬は、潰れても立て直すであろう……

「ユイラ―はこの有馬の客人じゃ。我々は責任を持って其方を安全に高山国へ帰らせる。ポルトガル征伐の際に、其方は有馬の船を乗って、高山国へ逃れよ」

「ですが……」

「御公儀の者たちはもう其方には快く思わないらしい。引き続き日ノ本に居続けるのは危ういやもしれぬ。この出使も、御公儀により消え去るであろう。それに」

ユイラ―の心配に対して、晴信は微笑みで答えた。

「外海貿易大名の有馬を見くびるな。ミゲルと角兵衛は此度の渡海でもう航路を覚えておる」

晴信は自分の腰に差す黒漆塗りに蒔絵を施す脇差を解けて、ユイラ―を渡した。

彼女は脇差を抜くと、その鎺には、有馬の家紋である剣唐花の紋が浮き出している。

「これは餞じゃ」

晴信は言った。

「これは子供への守り刀。儂と其方との約束の証じゃ」

ユイラ―はその時、晴信の首を引っ張って、口付けをした。あの抱擁は一瞬な物だが、永遠でも感じるくらい、長い長いと思われた。

「はい、約束します。この刀、修理様や、そのふさわしい人が来るまで、あたしが守りますから」

「ああ、次来る時、高山国とこの日ノ本は、もっと自由に、誰でも商売出来る国になるといいなぁ」


慶長十四年(1609)師走十二日、長崎へ到着した有馬晴信は、長崎奉行長谷川藤広の支援により、兵船三十艘と千二百人の兵を動員して、長崎の港を囲んでいた。

「わ~凄い!それは……凄いです!修理様はそれほど凄いですか!?」

「其方、語彙力が」

だがそれも仕方がない。動員された兵の数でも千二百人、これは大員にいるどこの部族の頭目でも集められない兵力である。しかも兵士たちは皆立派な畳具足を着て、ある人達は袖印、ある人達は剣唐花の幟を旗指物をして、大員にはない馬を乗る、もっと立派な薄鉄で作り、金で飾る仏胴と鍬形の頭形兜を着る侍大将の指揮で整然に進んでいる。その前頭に立つのは、馬印と陣旗を掛けて、華麗な緋羅紗に金線で織った剣唐花をあしらう陣羽織と鳩胸南蛮鎧を着る有馬修理大夫晴信である。

「修理様は偉い人ですねぇ!」

「儂より偉い人はこの国にはいっぱいいるのじゃ」

たかが四万石の小身でそこまで賞賛するのは身が痒くなる。と陣所に床几を座る晴信は心にそう自嘲した。

次はもっと彼女に、様々な大名と会って欲しい……と思ったが、今回は出来ないらしい……それより、晴信は目の前に海に浮かぶ南蛮船を見ていた。

「ペソアの船はあれか?」

「いえ、あたしは攫われた時に彼らはもう陸にいるので、何も……」

「そうか」

その時に、鎧姿の角兵衛が駆けつけて来た。

「申し上げます!使者として派遣された林田殿と鬼ノ池殿は、ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号の発砲により、船が沈没させてこれ以上近づけませぬ!」

当初、天川の件のみに問罪されたため、その責任は船長であるペソアにあり、船員ではないと思い、穏便に解決しようと思った。そのために、日本側は二人の家臣、林田作右衛門と鬼ノ池九郎右衛門に船長を処罰するよう命じ、使者として船長の身柄を確保すべく赴いたが、船が射程圏内に入ったと船長がすぐに発砲し、交渉が難しいになった。

「あの忌々しい有馬め、どこまで儂の邪魔立てすれば気が済むのか!?」

離れているが、何かペソアの怒り声まで聞こえた気がする。と晴信を思った。

「これで手切れと見做せるかの?」

晴信は筒の単眼鏡を手にしつつそう言った。その時の晴信の眼がいきなり鋭くなり、口元には妙に上げていた。

あれは「武将」の顔だ。

「そう思って良いと思いまする」

「よっし、大筒を引いて参れ!そしてユイラ―、其方は戦の混乱で船を乗り、高山国へ帰れ」

その命令に彼女はびっくりした。

「嫌じゃ、せめて戦を終わったからあたしが帰る!」

「ならぬ!御公儀は高山国の使者に厄介と思われている。其方だけではなく、この出使の事すべて消されるやもしれぬ。そうならぬために、其方は皆が気を付けていない折――つまり今こそ、帰国すべきなのじゃ!」

「ミゲル、ユイラ―を船に乗らせよ!」と晴信の一声で、ミゲルが現れて、「行きましょう、ユイラ―殿」と、彼女の手を掴んだ。

「ミゲル、ユイラ―を送ったと其方もすぐ大村の所へ帰れ。そして」

晴信は懐に黒い箱を取り出し、ミゲルへ投げつけた。

「これは、太閤殿下の国書!?」

「これは我々にとって身に余る物じゃ。持ち続いていると御公儀から何か難癖をつける恐れがあるじゃから。帰る道中に捨てるか、或いは誰かに売れても良い」

旅から持って来た思い出なのに……晴信の顔にえも言えない寂しさが出て来た。

「これは総大将の下知ぞ!はよ行け!」

晴信はそう命じたが、この時、晴信、角兵衛、ミゲルも涙目になった。

この半年以上になった渡海と出使は、彼らは友達でもあり、支え合う異国の人たちでもあり、かけがえのない仲間でもあり、愛情を含む恋人でもある。

渡海で築き上げた絆は、それほどまでに濃い代物となったのである。

だが、今その時――別れる時が来てしまった。

「帰国したら、仁左の様子も見て来てくれよ」

「はい!」


海士が船を漕ぎ始め、入り江の波に白い浪花を砕けている。

あれからの景色、ユイラ―は揺れている船に、劇場のように見えていた。

群青色の上と下の間に、砲弾が飛び交し、爆発しまくった。蟻のような小船が動物の死体のような砲弾でボロボロさせる南蛮船を群れって来て、足軽たちが雄叫を上がった。怒声を上げて、剣を抜き、鉄砲を持って戦う人達。すべては近いが遠くようになって行った。

「修理様……」

彼女はそう呟いた。だが、本陣にいる晴信はユイラ―の眼から見ても、もう米粒の大きさしかない、すでに姿が見えなくなっている。

こんな時になっても、ユイラ―はせめて、何を、有馬晴信という、外国から来て、彼女の短い時間と過ごし、だが、彼女の一生へ大きな変化を与える人を送りたい。

そう思う時、ユイラ―は自然に口を開け、歌を歌った。

あれは、現代でも分かりにくい言葉で作った歌である。

青春へ別れを告げ、愛しい人を、これから幸せにしたいという意味の歌である。

あたしを、これから忘れないように、という願いがある歌でもある。

歌声は海と天に響き、風に運び、戦う人たちの耳に入った。

「何だ……この歌は……」

兵士たちは歌の意味が分かりません。ただ数人で、それはどんな歌か分かっている。

「長旅諸々、かたじけないの、ユイラ―」

晴信は、そう言いながら、軍配を振り下ろした。

「かかれ――!」


「本当にそれで良いのか?」

歌を聞いたのは、晴信たちだけではない。

顔思斉は、たわわの袋を持ちながら、後ろめたさを含む声で尋ねた。

「ええ、今回顔殿は大変我々を助かりましたから、これから、御公儀は李殿のような『我々に従う唐人の商人』と貿易を行いたいのです」

大八はいつも笑顔で、長崎奉行所の陣屋門前に言った。

「しかもこれから顔殿らは大員を自分の拠点を取り立てたいのでしょう?その黄金は投げ銀とお思い下され」

大八少し誇張な動き、手を開いて言った。

「是非大員を貴殿らの拠点として、『また別の誰か』か日ノ本へ向かわぬよう取り計らっていただきたい」

それは、後世「閉洋之御法」と呼ばれ、各種鎖国令を幕府が頒布する二十年前ほどの出来事でした。

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