死闘

驢垂 葉榕

第1話

 「はい、はい。私です。古都で革命勢力へと潜入任務を行っていたオブライアンです。急ぎ報告しなければならない事態が発生しました。”X”の標的が判明しました」

 オブライアンはマンションの薄暗いリビングで努めて冷静に報告を続けた。

 「”X”の標的はおもちゃ屋の隣ルビャンカ、決行は16時間後です。ええ、あそこは今や博物館で碌な警備もないソフトターゲットですが押しも押されぬ旧保安委員会の権威の象徴です、PRとしてもテロルの原義的にもこの上ないでしょう。奴ら我々を旧体制と同一視してるんです、自分たちのがはるかにあの頃に近いっていうのに。...それよりもテロへの対処です、外国人観光客に死者なんて出れば最悪内政干渉ですよ」

 苦節三年、組織の全貌すらわからない、徒労に終わる可能性の方がはるかに高い潜入捜査だった。それでも持ち前の能力の高さでやり抜いた。これほど大掛かりな計画だ、綺麗に阻止できれば組織の壊滅まで見える。それはオブライアンが何より望んだものが手に入れることを意味していた。つまり出世と国家の安定、何より民草がテロにおびえる必要がない環境だ。

 「はい、はい。では任務は現時点をもって終了とし本部に帰還。情報交換の後、制圧部隊へ参加します」


 電話を切り、鳴らしていた音楽の音量を元に戻す。ハッキングやビッグデータ由来の網羅的情報収集が神の耳エシュロンの特権でなくなった現代において、信頼性と利便性を最もよく両立する通信手段は皮肉にも昔ながらの固定電話になっていた。潜入任務に終わりが見えたことを自覚したオブライアンは一服すべく胸ポケットに手を伸ばす。

 「残念です、あなたが裏切り者だったなんて。ジュリアちゃんも悲しみますよ」

 任務の終わりが相当にオブライアンの気を緩めたらしい。背後には気づかぬうちにスミスが立っていて拳銃を後頭部に押し当てていた。ゆっくりと手を上げる。

 「スミスか。ああ、彼女には悪いことをした、もうあの料理が食べられないのが残念でならないよ。......で、いつ気付いた?組織で一番優秀な人間の座を奪ったことへの私怨で疑ってたのかい?」

 スミスが答える。

 「元から覚悟以外の部分で一番優秀なんて思ってませんよ。いつ確信したのかという話なら秘匿計画を明かした瞬間の微表情です。驚きや期待ならわかるが侮蔑と怒りは革命戦士としておかしい。いつから疑っていたかという話なら最初からです。共産主義の亡霊と社会不適合者の掃きだめみたいな組織にあなたみたいな能力と良識ある大人なんているはずがない」

 「...なるほど。ああ、クソ、俺もヤキが回ったな。勘付かれるとしたらお前だとは思ってたが本当にバレるとは」

 オブライアンがうなだれる。銃がオブライアンの後頭部からわずかに離れる。

 「これが終わったらおとなしく、内勤に引っ込むことにする―――よッ」

 突如としてオブライアンが回転する。照準を修正するため一瞬遅れたスミスの銃弾は裏拳の要領で逸らされ、左側へかすめて外れた。オブライアンは回転の勢いそのまま振り返りざまのソバットを見舞う。蹴りはスミスの脇腹を強かに打ち、体勢を崩して大きく後退させる。肋骨が折れる音と発砲音が響く。

 一拍おいて態勢を立て直したスミスの目に飛び込んできたのは寝室に身を隠しながら自分を狙うオブライアンの銃口だった。スミスは反射的にソファーの後ろに転がり込む。先ほどまで立っていた場所の後ろの壁に穴が穿たれる。

 「ソバット受けて吹っ飛ばされてる最中でも撃ってくるとか勘弁してくれよ。防弾着てなかったら死んでたし着ててもクソ痛いんだぞ」

 ソファーと壁を盾にして銃弾が飛び交う。オブライアンからの射撃の隙間を縫うようにスミスも撃ち返す。決め手に欠いた銃撃戦では薬莢と時間だけがいたずらに消費される。

 「殺す気で撃ったんだから死んでてくださいよ。出口はこっち側ですし、こんだけ撃ちまくってるんですから皆すぐ来ますよ。諦めたらどうです」

 数発撃ち返す。銃の腕は明確にオブライアンに分があったがスミスは優位を確信していた。最低限突破されない程度に撃ち返して銃撃戦が伸びれば仲間が来る、短期決戦ならソファー裏まで回ってインファイトをする必要があるがインファイトならスミスに分がある、そもそもこのまま状況が動かなくても発砲数が違う以上相手の弾が先に尽きる。どのルートでも勝利は近かった。

 「増援が気になるのはそっちだろ?俺をこの場で殺しても軍警の本隊が来るまでにここを引き払わなきゃお前らの負けだ。それにここがお前らの本拠と言っても半分以上は無関係の一般人、銃撃戦の音を聞いたそいつらの通報でも軍警は動くぞ」

 「...よほど防弾チョッキ越しの射撃が効いたと見えますね。一般人の通報に言及するなんてさっきの報告で増援を呼んでないって白状しているようなものですよ。潜入捜査官の救助要請が出てるならもう最寄りの駐屯地から軍警が出ててそれが最速です。一般人の通報が速度で及ぶはずがない」

 また数発撃ち返す。勝利を確信した者は戦い方を変えない、変える必要がない故に。数拍の静寂。反論も反撃もないことにスミスが違和感を覚えたのと寝室の奥から窓ガラスが割れる派手な音が聞こえてくるのはほとんど同時であった。

 勝利のルートのどれであってもあり得ない大音量、思考は最高速で状況を分析する。異音の正体を探る思案は直後の落下音によって一つに帰着した。

 「窓から!?ここ四階だぞ!?」

 スミスはソファーを飛び出す。寝室のドアの脇に取り付き、寝室を覗く。窓はベランダ側へと砕け散っており、拳銃が窓の手前に落ちていた。

 「誰が逃がすッ」

 大急ぎでベランダへと飛び出す。身を乗り出して無茶な逃走ルートを選んだオブライアンを探す。スミスが真下の地面で発見したのはベランダに収まらなかったいくらかのガラスの欠片とベッド横にある方が自然なサイドテーブル。オブライアンが消えた。

 想像と違う眼下の景色の答えはベッドの影から飛び出し、スミスを完璧に決まった不意打ちでもって引き倒す。オブライアンはそのままマウントへ移行した。スミスも半ば反射で銃を向ける。しかしそれもオブライアンのナイフによって掌ごと刺し留められて弾かれた。スミスが声を漏らす。スミスの拳銃は弾かれた慣性のままベランダから落下した。

 「あのままだと勝てなさそうだったんでな、小技を使わせてもらった。読み切られたら死ぬが、まあ、経験の差ってやつだ」

 オブライアンは室内に置いた自身の拳銃へとゆっくりと、しかしスミスから警戒を外すことなく手を伸ばす。オブライアンの手が銃に届くちょうどその時、部屋の入口で物音が鳴る、人影が見える。オブライアンが反射的に人影に向け発砲する。不安定な姿勢といくらかの負傷にもかかわらず、放たれた弾丸は部屋の入口に立つ人物の眉間へと正確に着弾した。ただ異音を案じて様子を見に来ただけの、無関係な筈のジュリアの眉間へと。

 「ジュリア......なんで......」

 ジュリアを撃ってしまったことの動揺がオブライアンの意識をスミスから引き離す。スミスは右手を静かに持ち上げ、掌のナイフを貫通したままに握りこんだ。スミスは覚悟を決めた。何を犠牲にしてもオブライアンを殺すという覚悟を。

 「ア゙ア゙ア゙ァ゛」

 スミスが雄たけびを上げ、手の甲から突き出たナイフでオブライアンの左目を切りつける。眼球への攻撃を受けたオブライアンが反射で飛び退く。その痛みがオブライアンから呆然を消し去った。鎮痛より、懺悔より、後悔より、清算より、まずは眼前の敵の抹殺。思い直して銃を握る手に力を籠める。スミスはもう体勢を立て直そうとしていた。戦闘が再開される。

 オブライアンは銃を構えるや否や照準もろくに合わせず連射をはじめた。銃弾は右側から一発ごとスミスに迫る。スミスは迫りくる銃弾から逃げるように、先ほど潰した左目の視覚に隠れるように、ベランダに出て回り込みつつ距離を詰める。オブライアンもベランダへ向け銃を構え直した。見えない左目、右側から追い込むような射撃、大量のガラスが散乱し踏ん張りがきかないベランダ、オブライアンの腕ならば万に一つも外さない条件。スミスは即興の、されど十分な完成度の罠に嵌まり、そこで射殺されるはずだった。

 オブライアンの仕掛けた罠には誤算があった。一つだけ、致命的な、情ゆえの誤算。それはジュリアを撃ってしまったこと、撃ってしまったジュリアから目が離せなかったこと。オブライアンの右目は暗順応しきっていた。スミスを見失う。意図せぬ視覚情報の消失に次の行動がとれない。オブライアンが腕が掴まれたことを認識するのと視界が戻り始めるのは同時だった。スミスが潜り込み、変則ボディスラムが始動する。ガラスの散乱したベランダが下方向に過ぎ去り地面が見えた。落下が始まった。

 走馬灯だろうか、落下中のオブライアンの思考は迫る死を前にやけに冴え渡っていた。落下距離は10m、時間にして1.4秒程なはずだがずいぶんとゆっくりしている。生存への行動が開始された。

 オブライアンが下方へと発砲する。銃と手足の反動による空中姿勢の制御、脚部が下になる。建物の方を向き直る。眼下に迫る2階のベランダの縁をあらん限りの力でつかむ。目的は掴まることではなく減速と回転モーメントの完全消去。落下の大エネルギーの前に腕は一瞬で弾かれたが目的は達成した。足をそろえ、五点着地に入る。足裏から腿、腰へとエネルギーを逃がす。完璧な着地が成功しようとしていた。骨の折れる音が聞こえた。スミスの足が真横で折れていた。

 スミスはオブライアンを投げ飛ばすことに成功した直後、自身もまたベランダから飛び降りていた。オブライアンを絶対に殺すために。さっきの小技———サイドテーブルによるバックトラック———は潜入任務に選ばれるほどの軍警のエリートであるオブライアンが空挺降下の訓練を受けており4階から投げ落としても殺せない可能性を示していた、逃走経路と見做せないのならばバックトラックをそもそも思いつくはずがないのだから。実際に飛び降りてみると、オブライアンは巧みに空中で姿勢を制御してみせ、着地に成功しようとしていた。覚悟はさっき決めた。地面に着く。両足の粉砕骨折を代償に落下のエネルギーを最低限制御できる領域に落とし込む。エネルギーを肘に乗せてオブライアンの方へと倒れ込む。オブライアンはちょうど肩を接地したところだった、迫る攻撃をガードすべく完璧な着地を諦め両腕をガードに回す。10m分の落下エネルギーを乗せた頭部へのエルボードロップは攻撃を行った左腕と防御に回された両腕を苦も無く砕き、オブライアンの頭を爆散させた。着地の途中で制御が途切れ、転がった骸はこの戦いの終わりを雄弁に示していた。

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