高校生活の始まりと同時に保健室の先生との同棲生活が始まったんだが？

第1話

「……ふう」

　本日晴れて高校入学を迎えた結城透華（ゆいしろとうか）は、入学式の帰り道でそっとため息を零した。

「お？　透華、お疲れか？」

　疲れが滲む透華に、元気に話しかけてきたこの男子は高柳秀（たかやなぎしゅう）。唯一透華と同じ中学校から進学した生徒だ。

「何でお前はそんなに元気なんだよ……」

「透華も見たろ？　可愛い子めっちゃいたじゃん！」

　透華と秀は小学校の頃からの付き合いで、気心の知れた仲である。しかし、秀の好色さだけは未だに理解できないポイントであった。

　──♪♪♪──♪♪♪──

　突然かばんからメロディが流れ出す。スマホには透華の父、拓水（たくみ）の名前があった。

「わり、秀。電話だ」

「おお、いいよ。んじゃ俺先帰っとくわ」

「ありがとう」

　ひらひらと手を振りながら離れていく秀に手を振り返し、通話ボタンを押す。

「もしもし、父さん？」

『透華、急なんだけど今メールで送った地図のカフェで女性が待ってるから向かってもらえるかな』

「え？　良いけど、なんで？」

『今時間がなくてね。あとで説明するから着いたら掛けなおしてくれるかい？』

「分かった。頑張って」

　拓水は外国で医師として働いている。医学界では有名らしくいつも多忙なので電話を切られることもあったが、今回の要件はまるで意図が掴めなかった。

　メールボックスを確認すると確かに地図が添付されたメールが届いており、その地図によるとそのカフェは今いる場所からそう遠くないところにあるようだった。

　そのまま向かおうとして──透華は足を止めた。

　視界の隅に明らかに体調が悪そうな女性を見つけたからだ。

　その女性は道端でうずくまっているのだが、通行人は見て見ぬふりをするばかりで声を掛けようともしない。

　流石に見過ごせなかった透華はその女性に駆け寄り、声を掛けた。

「大丈夫ですか……？」

　しかし女性からの返答はない。口元を押さえて青白い顔をしており、かなり辛そうだ。

「あの、お水飲みますか？」

　続けて問いかけると、今度は小さく首肯が返ってきた。

　透華はかばんから飲みそこねて未開封の水のペットボトルを取り出し、キャップを開けてから女性に渡した。

　女性は両手で握り込むようにペットボトルを傾け、ゆっくり水を飲む。

　しばらく待っていると女性は少しずつ話し始めた。

「……ありがとうございます。本当に助かりました……」

　そう話した女性の顔は、わずかに血色が戻っていた。

「よかったです、安心しました」

　透華はほっとして胸を撫で下ろす。

「……あれ？」

　しかし同時に、かすかな違和感を覚えた。

（この人、どこかで見たような──）

「あっ、桜城（おうじょう）高校の入学式にいましたよね？」

　入学式の教員席に座っていたことを思い出した。そこをきっかけに記憶を手繰り寄せていく。

「紅葉（もみじ）、先生？」

　教員紹介の自己紹介を全部覚えているわけではないが、彼女はかなりの美人な上に非常に丁寧な立ち居振る舞いをしており、強く印象に残っていた。

　秀ではないが可愛い、と思ってしまったほどだった。

「はい、養護教諭の紅葉結衣（ゆい）です。新入生さんですか？　よろしくお願いしますね」

　そう言って結衣はにこっと微笑んだ。顔色が万全でないことを除けば完璧な笑顔だ。

（破壊力やばいな……）

　普段女性との関わりが少ない透華は大きなダメージを受ける。

「あの……？」

　返答がないことを不審に思ったのか、結衣が透華の顔を覗き込んできた。

「わっ、あ、大丈夫です。じゃあ僕は今から駅前のカフェに行くので失礼しますっ」

　焦ってかなり挙動不審になってしまった。透華は居たたまれなくなって逃げるように去ろうとした、のだが。

「あ、待ってください。私も駅前のカフェで人と待ち合わせしてるんです。一緒に行きませんか？」

　どうせ同じところに向かうんですし、と結衣は続けた。

「え、ええ、紅葉先生が良ければ……」

　依然挙動不審が抜けないが、同じ場所に行くのであれば一緒に行った方が気まずくないと思っているので、透華も同行には賛成だった。

「じゃあ一緒に行きましょうか」

「はい」

　◇◆◇

　生徒と教師が一緒にカフェに向かうというのも如何なものかと思ったが、プライベートだし問題ないだろう、と考えるのをやめた。

　駅前の大通りから外れ、閑散とした住宅街の一角にそのカフェはあった。ひらがなで「とまりぎ」と書かれた看板が掲げられている。

「着きましたね」

「僕は電話してから入るので、紅葉先生は先にどうぞ」

「はい、ではまた」

　結衣はそう言いながらゆるゆると手を振り、店に入っていった。

「さてと……」

　ポケットからスマホを取り出し、拓水に電話をかける。いつもは多忙故に出ないことも多いが、今回は数コールで出た。

『着いたようだね。カフェの中に紅葉さんという女性がいるはずだから、相席させてもらってくれるかい。そのまま用件も伝えるから繋いだままにしておいてね』

「わかった」

　窓から見える店内がガラガラだったのでもしやとは思っていたが、本当に相手は結衣だったようだ。

（紅葉先生も待ち合わせ相手の事を知らないまま来たのかな……）

　透華が名乗り忘れていたこともあったが一緒にカフェまで来ても気づかなかったということは、少なくとも顔までは知らなかったのだろう。

　店に入るとドアに着いたチャイムが音色を奏でた。

「お好きな席へどうぞ」

　店員がそう告げたので、透華は結衣を探して席に近づく。

「紅葉先生の待ち合わせの相手、僕だったみたいです。相席いいですか？」

「えっ……どうぞ……？」

　結衣はかなり戸惑っていた。

「もしもし、父さん？」

『紅葉さんとは会えたかな？』

「ああ」

　拓水に、言われたとおりに結衣と相席したことを伝えると、スマホをスピーカーにしてテーブルに置くように言われた。

『こんにちは、紅葉さん。聞こえているかな？』

「聞こえてますけど……え、拓水さん？」

　どうやら拓水と結衣の間には面識があるようだった。

『早速だけど本題に入ろうか。透華、突然だけど明日から紅葉さんと一緒に暮らしてもらうね』

「は？」

「え？」

　透華と結衣の声が重なる。

「一緒に暮らすってどういうことだよ⁉」

『そのままの意味だよ』

　驚きのあまり問い返すも、拓水の回答はあまりに要領を得ない。

『少し事情があって、紅葉さんには透華と一緒に暮らしてもらうことになったんだよ。本当はもっと早く言おうと思っていたんだけど、手術のスケジュールが立て込んでしまってね……申し訳ない』

　あまりの突拍子のなさに頭が追い付いていない。

「え、え？　透華ちゃんって、女の子じゃ……？」

『ああ、透華は息子なんですよ。言ってませんでしたっけ？』

「ええっ⁉」

　結衣は結衣でまだ状況を把握しきれていない様子だ。

　電話口からは拓水でない誰かの声がかすかに聞こえる。きっと病院内からかけているのだろう。

『──ん？　ああ、わかった』

　透華は嫌な気配を感じ取る。こういうときは大抵──。

『すまない、二人とも、急用が入ってしまった』

　こうなるのだ。

『透華、あとの詳しいことは紅葉さんに聞いてくれるかい』

「え、ちょっと待って──」

　そう言ったものの既に通話は切れており、あえなく虚空に響くのみだった。

「「……………………」」

　透華と結衣の間に、長い沈黙が流れる。

　透華は完全に思考が停止してしまっていた。

「……あの、今わかっていることを共有しませんか？」

　先に口を開いたのは、結衣の方だった。

「ええ、是非お願いします。僕は何も知らないんで……」

「じゃあとりあえず、私の知っていることから話しますね──」

　そうして結衣は順を追ってわかっていることを話し始めた。

　◇◆◇

「──という訳で今に至る、という感じです」

「なるほど……」

　結衣の話によると、二カ月ほど前からストーキング被害に遭っていた結衣が母に相談したところ、拓水に相談することを勧められたそうだ。

　そこで拓水に相談したところ「透華が近くに住んでいるから一緒に住むといい」と言われ、今に至るらしい。

「……母と拓水さんは面識があったみたいで……。それで相談するように勧めてきたみたいです」

「なるほど」

「一緒に住むことを勧められたのでてっきり女の子なのだとばかり……」

「ああ……よく勘違いされます」

　透華という名前はどうも女性名に見えるらしく、名前だけ見た人に勘違いされることは少なくなかった。

「というか悪いのは父さんですよね。碌に説明もしないで……。本当に申し訳ないです。昔からあんな感じなんです……」

　もちろん透華自身も困惑していたが、他の人にまで迷惑をかけていたとなれば申し訳なさが勝つ。

　拓水は医師として海外で活躍しているだけあって賢いは賢いのだが、如何せん常識からずれている。

　息子を女性と二人で同居させるなど、到底普通の考えではない。

「いえ、私が困ってるのでどうにかしようと考えてくれたんだと思うんですけど……」

「いや、だとしてもよく知らない男と同居とか嫌だと思いますし、そもそも教師と生徒だし、流石に、ですよね？」

　言葉がまとまらないが、言いたいことは伝わるだろう。透華と結衣の同居はどの面から切り取ったとしても常軌を逸している。

　流石に同居はなかったことになるだろう、と透華は思った。思ったのだが──。

「…………私、部屋の賃貸契約解除しちゃったので明後日から家ないです……。明日引っ越そうと思ってました……。どこか別な場所を借りるのも時間がかかるし、結城さんなら安全そうだし……」

　ここに来て同じ被害者だと思ってきた結衣に外堀を埋められる展開が到来してしまった。

「ホテルに泊まるとか……」

「私、新任なのでお金ないです……」

「……本当に言ってます？」

「はい、このままだと住むところなくなるので。なにとぞ、お願いしますっ」

　そう言って結衣は深く頭を下げた。

　教師と生徒という関係性や男女という懸念点と、住む場所を失う女性を放り出す良心の呵責が透華の中でせめぎ合う。

「えぇ……？　わ、わかりましたっ。明日から……お願いします」

　しかし原因が自身の父親にあることもあり、最終的には結衣の希望を呑むことにした。

「はい、よろしくお願いしますっ！」

　こうして、二人の不思議な関係が始まったのだった。