第三章 月にかかる橋

(1)

 事務所の自分のデスクで、私は目元を拭った。そっと閉じたのは、一冊の台本。アルモニカが初の映画主題歌を担当することになり、私もその台本をもらったのだ。たった今読み終えたところで、胸がいっぱいになってふうとため息をついた。


「音緒ちゃんもそれ読んだの? いいよねえ」


 津麦社長が部屋に入ってきて言った。私は余韻に浸ったまま、深く頷く。

「特に生き別れた姉妹が、ようやくお互いに気づくシーンが……。あと、何度も大人に裏切られて生きてきたのにすごく健気な男の子がいるじゃないですか。この天使みたいな役、ルカくん以外に考えられないですよ」


 ルカくんとは、御年十歳、歌声も笑顔も性格も天使と話題の超人気子役である。彼がテレビに出始めたのは二、三年前だが、そのころから何度も、私は彼の演技に泣かされてきた。


「――だってさ、良かったねえ、ルカ君」

 社長は後ろを振り返り、目線を下げて声をかけた。そこに立っていたのは、今まさに私が名前を出した、ルカくんその人だった。見間違いではないかと思わず目をこすったが、彼はいなくならなかった。


「ふふっ、ありがとうございます」

 ルカくんは無邪気な笑顔で私に言った。テレビでしか見たことのない天使の笑顔がそこにある。混乱しながら、私はよろよろと立ち上がった。


「津麦社長、どうしてルカくんがこちらに? 所属事務所は違うはずですよね」

 その疑問に答えてくれたのは、ルカくん自身だった。

「初めまして、高山たかやまルカです。兄がいつも、お世話になっております」

 高山、そして兄。その二つを聞けば思い当たることは一つだが、私は信じられずに問い返した。


「もしかして、イカルさんの弟が、ルカくん……?」

「はい、そうです! マネージャーの野分音緒さん、これからも兄をよろしくお願いします」


 礼儀正しくお辞儀をするルカくんに倣い、私もかしこまって挨拶をした。しかし内心では、感動と下心がハリケーンのように暴れ狂っていた。なんてできた弟だろう、天使は本当に天使だった、ああ可愛い挨拶に握手くらいしても良いだろうか、等々。


「ルカ君は時々、こうして遊びに来てくれるんだ。今日は君にも一言挨拶しておきたいと言ってくれてね」

 津麦社長は私に説明すると、時計を見てルカくんを促した。次の撮影が入っていて、事務所の前に車を待たせているらしい。そんなに忙しいのに時間を割いてくれるなんて、と私は再び感動した。




「でも、イカルさんとルカくんって、あんまり似てないですよね。性格はもちろん、見た目も」

 年齢差も一回り以上あるし、並んでいる二人を見て兄弟だと思う人はいないだろう。ルカくんを送って戻ってきた津麦社長に聞くと、そこは複雑な事情があるとのことだった。


「なんでも、二人は腹違いの兄弟みたいなんだ。彼らの父親は少し前に病気で亡くなっているんだけど、ルカ君は不倫相手の子供だったようでね。しかもその不倫相手、つまりルカ君の母親に当たる人も事故で亡くなったとかで、彼は天涯孤独になってしまったんだよ。それで、兄のイカル君を頼ったということみたいだね」

「まだ小さいのに、そんな壮絶な人生を……。それなのにあんなに無邪気に笑えるなんて!」

 さっき緩んだ涙腺が、また崩壊しそうになる。


「あ、そうだ、それでそのルカくんも出てる映画の件なんだけどね。監督が、撮影見学に来ないかって言ってくださっているんだ。やっぱり実際のシーンを見た方がより曲が作りやすいと思うし、僕としては見学したらどうかと考えているんだけど」

「それは、メンバー全員、ということですか?」

 もちろんと社長は頷いた。


「場所は那須高原だよ。見学ついでに、高原の爽やかな風でリフレッシュしてきたらいいんじゃないかな。このところ、みんなスタジオにこもりきりだから」

 なるほど、それは良い気分転換になりそうだ。話はすぐにまとまり、来週の半ばに見学に行くことになった。

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