(2)

 小さく開けたバスの窓から、ひんやりとした風と土の匂いが入ってくる。今日はちょうど梅雨の晴れ間で、緑の葉に光る雫がキラキラと輝いていた。


「いいねえ、高原、ってかんじ!」

 私の隣に座っていた明日香さんが、はしゃいだ声を上げる。

「初めて来ましたけど、やっぱり東京とは全然空気が違うんですね」

 気温もそうだが、風に清々しい成分が混じっている気がする。


 後ろの席を見ると、イカルさんは口を開けて寝ていて、窓側の聖良さんはサングラス越しに外の風景を見ているようだった。直射日光が苦手だからと言っていたが、様になりすぎて逆に笑いがこみ上げてくるレベルだ。明日香さんが、隠そうとして却って目立っている芸能人、と喩えていて、大いに納得した。


 早朝に出発したので、昼前には撮影現場に着くことができた。撮影クルーらしき人たちが、忙しなく動いている。立派なカメラやレフ板を見ると、ああ本物だとテンションが上がった。マネージャーとしてミーハー心は抑えなければと思うけれど、わくわくするのは止めようがない。


 駐車スペースにバスが停まると、メールと電話で連絡を取り合っていたあちらのスタッフが出迎えてくれた。私たちは普段企業の保養所として利用されているという建物に通され、そこの一室で待つように言われた。


「実際に撮影してるところも見れるんだよね。早く見たいなあ」

 明日香さんも私と同じで、うずうずしているようだ。イカルさんはと見ると、眠気はもうなさそうだが、バグを起こしたかのように目を白黒させていた。ブツブツ何かを言っているので、耳を近づけてみる。


「監督さんに曲を突き返されたらどうしよう。そしたら、すぐ作り直さないと。でも来月はツアーもあるし、作り直していたら練習ができなくなって、ライブで失敗して……」

私が目を点にしていると、聖良さんが解説してくれた。

「イカルは心配事が一つあると、そこから最悪の事態を想定して、さらにまた悪いことが連鎖していくのを想像する癖があるんだ。名付けてネガティブスパイラル」


「名付けてどうするんですか」

そんな中二っぽい名前を考える暇があるなら、対策の一つも考えてほしい。


「まあ、こういう時こそマネージャーさんの腕の見せどころじゃないの?」

「それはもちろん、先方には失礼のないように気をつけますけど」

「音緒ちゃんカッコいい! よっ、敏腕マネージャー!」

 着いて早々疲労を感じて、私はため息をついた。イカルさんだけでなく、聖良さんも明日香さんも自由過ぎる。辞めてしまった前のマネージャーさんも大変だったのだろうな、と同情した。


くだらない会話をだらだらと続けているうちに、連絡係のスタッフさんが戻ってきた。彼と一緒に現れたのは、二人の男性だった。私はフリーズしているイカルさんを引っ張り上げつつ、立ち上がる。

「本日はお招きいただき、ありがとうございます」

 私は自分が名乗ってから、アルモニカのメンバーを紹介していった。二人のうち若い方の男性が前に出て言った。


「監督の深山みやま碧人あおとです。遠かったでしょう。こちらこそ、わざわざ来てくださってありがとうございます」

 まだ三十代のはずだが、堂々として、貫禄のある人だった。海外の映画コンクールでも受賞している、新進気鋭の若手監督だ。一見穏やかそうだけれど、丸眼鏡の奥の目は、深い海の底のようだった。揺らがず温度のない、観察者の目だ。声も落ち着いた藍色や深緑色だが、少し温度の低さを感じる。おそらくただ穏やかなだけの人ではないだろう。


「それから、こちらは音楽を担当してもらう、武尾たけおさとる先生。最近だと――」

 深山監督は、彼が音楽を手掛けたドラマや映画をいくつか挙げてくれた。どれもヒットした作品で、見たことはなくとも作品名に聞き覚えがあるものばかりだ。つまりは超大物。絶対に失礼のあってはならない相手だ。数秒間でチーンと結論を弾き出した私は、緊張しながら成り行きを見守った。


「いやあ、私は呼ばれたわけじゃなかったんだけどね、あのアルモニカに会えると聞いて来ちゃったんだよ。最新アルバムも素晴らしかった!」

「……こ、光栄です。ありがとうございます」


 握手を求められたイカルさんは、どもりながらもしっかり答えていた。普段を考えれば、満点の対応だ。武尾先生は聖良さんや明日香さんに対しても、彼らの担当楽器を把握した上で話をしていて、どうやらかなり出来た人のようだぞ、と頭にメモした。おそらく五十代で、見た目は爽やかかつダンディ、さらに陽気な話ぶりと、これは若い頃から相当モテていたのではないかと思った。声も見た目通りの太陽のようなオレンジ色で、見た目通り明るい人のようだ。


「さて、では早速撮影しているところをお見せしましょうか。ちょっと歩くんですが、滝があって良い画が撮れそうなんです」

 深山監督が先頭に立ち、その撮影場所まで案内してくれた。木立の中に入ると陽が遮られ、途端に涼しくなる。もともとハイキングコースらしい道は、土がむき出しではあるが均されているので歩きやすい。私は清涼な風に目を細め、森の匂いを感じながら歩いた。就活中はビルに挟まれた風景ばかりだったので、本当に生き返ったような気分だ。


 五分ほど歩くと、小川が現れた。さらさらと、軽やかな音で流れていく。小川は先でカーブしていて、私たちはその上を吊り橋で渡るようだ。

「そういえば、イカルさんっていかにも高所恐怖症っぽいですけど――」


 振り返った私は、言葉を失った。

 イカルさんの顔面は蒼白で、生まれたての小鹿のような歩き方をしている。期待を裏切らない人だ。


「みんな、僕のことは構わず先に行って! 必ず追いつくから……」

「そんな終盤で活躍して死ぬ仲間みたいなこと言って……」

 口ではああ言っているが、追いつくつもりはないに決まっている。しかし、映画主題歌の作詞作曲を担当するイカルさんを置いていくわけにはいかない。


 すると、一番後ろをゆっくり歩いていた聖良さんが言った。

「高所恐怖症を克服する最も良い方法って知ってる?」

「もしかして、何か良い方法をご存知なんですか?」

 彼は頷くと、さも画期的な名案かのように言った。


「高所に慣れることだよ」


「ん? それって結局……」

 一周回って哲学的な気もするが、冷静に考えたら浅い。つまるところ、つい最近見かけた光景を再現しただけだった。


「高い! 怖い! 無理いいぃぃぃ!」

 聖良さんと明日香さんに橋の上を引きずられていくイカルさん。それを見て、武尾先生がのほほんと、仲が良いねえと笑っていた。

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