(13)

私の隣に立った聖良さんが、無言で自分のスマホを奏太さんに差し出す。聖良さんに促され、彼は困惑しつつスマホを耳に当てた。


 もしもし、と奏太さんが呼びかけてすぐ、彼は直立不動の姿勢になった。

「ほ、本物ですか?」

 聖良さんは私にこっそり、イカルさんに事情を説明して、電話に出てもらったのだと教えてくれた。


 彼は奏太さんに、なんと言ったのだろう。わからないけれど、奏太さんの目にはみるみる涙が湧き出て、何度も頷いていた。電話を切った奏太さんは、ぐしゃぐしゃの顔で、でもすっきりした様子だった。


「僕、逃げていたんだと思います」

 ぽつりぽつりと、奏太さんは言った。

「自分の弱い部分に目を向けるのが怖くて、キレイで当たり障りのないものばかり作ろうとしてた。その方が、批判されてもどうせ作り物だからって思えるし、僕自身が否定されることはないから。でも、そんな上辺だけでやっていけるほど、プロは甘くなかった。理想を作り上げるのも、自分をさらけ出すのも、同じくらい覚悟を決めなきゃいけなかったんです」


 それでも、と絞り出すように言った奏太さんの目に、再び涙が浮かぶ。

「どんな形でも、音楽は僕の宝物で、手放したくない……です」

「じゃあ……!」

 奈波さんに向かって、奏太さんは照れ臭そうに言った。


「さっきはああ言ったけど、もう少しだけ頑張ってみます。イカルさんも、音楽は自由なもので、正解なんてないって、言ってくれました。ちゃんと向き合って、僕なりの答えを見つけたいと思います」




 奏太さんたちと会ってから一週間後、私と明日香さんは、都内のラーメン屋さんにいた。博多で食べたとんこつラーメンですっかり虜になってしまい、禁断症状のように体がとんこつスープを求めている。


「聖良も誘ったんだけど、あいつニンニクとか匂いの強いもの苦手なんだよね」

「そうなんですか? この美味しさがわからないなんて、人生の半分損してますよ」

 だよね、と明日香さんが楽しそうに笑った。


「聖良と言えば、この前の盗作騒ぎの火消しはさすがだったよね。音緒ちゃんも頑張ってくれたおかげだけど、ホント仕事が早いわ」

「私は一緒に歩き回っただけですよ。公式のコメントとかは、ほぼ聖良さんが考えていましたから」


 事実が判明した翌日の午後には、アルモニカの公式サイトに、アルモニカと奏太さんの連名でコメントが載った。「ささやきの回廊」の原理まで解説したその内容は、ネット上でそれなりに話題になり、神対応と称賛する声もあった。盗作と決めつけずきちんと調査したことも、好印象だったのだろう。あの「ラットラン」も、興味を持った人たちが連日訪れ、プチ観光スポット化しているようだ。


 私はレンゲでどんぶりのスープをかき混ぜて、ぐるぐる回る油を眺める。

「何か考えごと?」

 私は明日香さんの優しい夕焼け色の声に甘えて、口を開いた。


「奏太さんが、理想の姿を演じることに迷いを感じたっていう話、ちょっと前の私にも当てはまる気がするんです」

「ちょっと前って、就活してた頃?」

「そうです。自己PRとか、自分に自信があるように振る舞うのとか、私は苦手で。そんな虚勢を張るなんて、バカバカしいと思っていました。でもいざ面接を受けると、私も明るくて何でもできますって顔をしちゃうんです。そのくせ、本当の自分は違うのにって、後で嫌になる。私も奏太さんと同じで、演じ切るかさらけ出すか、覚悟がない中途半端なところがダメだったんでしょうね」


 段々、長々と自分語りをしているのが恥ずかしくなって、私は乾いた笑い声で締めくくった。でも、明日香さんはつられて笑わなかった。


「結局さ、音緒ちゃんにとってそこまで大事なことじゃなかったんだよ。『奏太』は演じたり、弱い部分をさらけ出したりしてでも、音楽にしがみつこうとした。それは、彼にとって音楽はかけがえのないものだったからだよね。音緒ちゃんが私たちのマネージャーとして頑張ってくれてるのも、それと似た“ニオイ”がするんだ」

 明日香さんは私の顔を覗き込むようにして、そうでしょ、と歯を見せて笑った。


「……そうですね。私、理想の姿とか、本当の自分とか、そんなことどうでもよくなるくらい、『アルモニカ』が大事です。気づいたら、マネージャーになって走り回ってました。そういうことですね」


 私が「アルモニカ」を大事に思っていることを、明日香さんはちゃんと知ってくれていた。伝わっていたことが、嬉しかった。

 私がじんわり喜びを噛みしめていると、向かいに座った明日香さんの手が伸びてきた。


「唇に紅ショウガついてるよ」

「いや、つきません」

 私がさっと避けると、明日香さんは残念そうに手を引っ込める。最近はあまり口説かれなくなったが、なんだかんだと触られそうになるので油断ならない。


「もう、じゃあ音緒ちゃんの写真撮っちゃお」

 何がじゃあなのかわからないが、明日香さんの自由さは好きだ。

「あれ、なんか連絡来てる」

 スマートフォンを取り出した明日香さんが、画面を見て言った。そして、うぇっ、という奇妙な声を上げた。

「どうしたんですか?」

 画面を覗き込んだ私も、変な声が出そうになって慌てて抑える。


 それは、奏太さんからのメッセージだった。二分くらいの短い動画に、「イメチェンしました!」という言葉が添えられている。


「だいぶ、イメチェンしましたねえ……」

 私はどうにか、それだけ言った。


 動画の中では、茶髪の爽やかイケメンではなく、黒髪ストレートのウィッグで一見性別のわからない奏太さんが、気持ち良さそうに歌っている。


「まあこれはこれで、いいんじゃない? パンチがあるし、妙に訴えかけてくるっていうか」

 明日香さんが言った通り、数ヶ月後、奏太さんは性別に囚われない新しいラブソングの名手として、ちょっとしたブームを巻き起こすことになる。


「あれ、でもこの格好、どこかで……」

 記憶をひっくり返していた私は、あっと声を上げた。

「あの喫茶店の奥にいた、店員……」

 接客もせず、ひたすらグラスを磨いていた彼女。あれが奏太さんだったのだ。捻挫をしていたから、動けなかったのだろう。


 たぶん、いや確実に、聖良さんは気づいていた。あの場に彼がいるとわかっていたから、話が奏太さんに伝わると確信していた。

「まだまだだなあ」

 テーブルに突っ伏した私の頭を、明日香さんがぽんぽんと慰める。


「音緒ちゃんはよくやってるって。でも、聖良に張り合うのは勝ち目ないからやめた方がいいよ」


 そうだとしても、私はあの人に勝たなきゃいけないのだ。彼の予想を覆すくらいの、圧倒的な音楽で。


 不意に、彼の横顔が頭に浮かんだ。ずっと昔、父の傍らにいた時の。

父の演奏を聴く彼は、瞬きを忘れたように、鍵盤の上を軽やかに踊る指先を見つめていた。瞳がきらきらと、揺れていた。それが黒い真珠みたいに綺麗だと、横で見ていた私は思ったのだった。

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