(12)

「聖良さん、これ、本当にイカルさんの声……?」

 私は二人に聞こえないようにこっそり、聖良さんに聞いた。私の耳にも、ここにいないはずのイカルさんの歌が聞こえていた。


「そうだよ、ほら」

 聖良さんは私にスマホの画面を見せた。そこには明日香さんの名前が表示されていて、彼女がイカルさんの近くで歌声を拾っているようだ。


「では、そろそろ説明しましょうか」

 聖良さんが言い、奏太さんと奈波さんは各々疑問符を頭に浮かべて彼を見た。


「お二人は、『ささやきの回廊』と呼ばれる場所があることをご存知ですか?」

 二人は顔を見合わせ、わからないと答えた。


「特徴的な造りの建造物では、音も特殊な反響をすることがあります。ささやきの回廊もその一つで、有名なのはロンドンのセントポール大聖堂です。そこは円形のドーム状の構造なんですが、回廊がぐるりとドーム内部を巡っています。そしてその回廊では不思議なことに、囁き声が遠く離れた反対側にも聞こえるんです。そんな風に聞こえる理由は、建物が綺麗な円形をしていて、音が反射しやすい壁で作られているからだといわれています」


 私がネットで調べた解説にも、同じようなことが書かれていた。

「音が曲面の壁に沿って繰り返し反射し、遠くの音でもまるで近くで囁かれているように聞こえる――。見えない場所にいる人の声が聞こえる可能性も、十分ありそうですね」


「……じゃあ、この場所もその、『ささやきの回廊』になったということですか?」

 奈波さんに、聖良さんは頷きかけた。

「今、この声を発している人物は、もう一方の出入り口の方にいます」

 聖良さんは電話に向かって何か言い、私たちにディスプレイを見せた。ビデオ通話に切り替えたらしく、映像が映っている。


「これ、確かに向こう側の入り口です! 同じ声が、電話からも聞こえてる!」

奏太さんが叫ぶようにして言った。二人が納得したのを見て、聖良さんは言った。


「奏太さんが少し前に聞いたのは、イカルがあの場所で練習している声だったんです。こちらから向こう側へは工事中で通り抜けられなかったはずですから、あなたが積極的に彼に近づいて聞きに行ったとも考えられない。つまり、あなたの“無実”は、証明されたわけです」


 疑いが晴れたはずの奏太さんは、喜ぶよりも呆然としていた。その手を取って、奈波さんが言う。

「良かったじゃない、まだ音楽続けられるよ。諦めなくたっていいんだよ!」

 涙ながらに言う奈波さんに、私もぐっと胸が熱くなった。でも、奏太さんは複雑そうな顔をしていて、ぽつりと零すように言った。


「盗作じゃないって信じてもらえるのは嬉しいですけど、音楽はもう、辞めようかと思ってるんです」

「そんな……どうして?」


 奈波さんの手をそっと放して、奏太さんは言った。


「僕、才能がないみたいなので。今回だって、曲はあのアルモニカが作ったものだったのに、歌詞がありきたりとか陳腐とか言われて、大して評価されなかった。だから、今回の炎上は良い機会かもしれないと思ったんです。もうこれ以上頑張っても、僕は……」

「奏太くん……」

 奈波さんは寂しそうに、彼の名前を呼んだ。しかし、力なく頭を下げて帰ろうとする奏太さんを、聖良さんが呼び止めた。


「確かに、あなたの歌詞はヒット曲のつぎはぎという感じで、空芯菜の方がまだマシなくらいスッカスカですけど――」

「ちょっと! 呼び止めて追い打ちかけてどうするんですか!」

 私は思わずツッコミを入れたが、彼は綺麗に無視して続けた。


「辞めたい理由は、才能以外のところにあるんじゃないですか?」

 奏太さんはしばらくの間、無言だった。奈波さんが耐え切れずに声をかけようとしたところで、彼は小さく首を振って、拒絶した。


「そうです。自分の才能は大したことないって、初めからわかってました。それでも歌が好きだから、応援してくれる人がいるから、プロを目指して頑張っていたんです。『奏太』という僕の理想の姿を、必死で演じてきたんです。でも、本当にそれでいいのか、段々わからなくなってきて……。『奏太』は、偽物なんです。本当の僕は暗くて気弱で、彼とは正反対だ。時々、自分が嫌になって、女性のふりをして呟いたり女装したりして……。そうやって別人になると、少しだけ楽になれたんです」


 カナという名前の、アカウント。あれは愚痴用に作られた裏アカではなかったのだ。追い詰められた奏太さんが見つけた、逃げ道だった。


「でも、アイドルだって俳優だって、素の姿を全て見せている人なんていない。奏太くんだって、今まで通り、なりたい自分を演出すればいいのよ」

「それはわかるけど、でも、僕には無理だった。中身のない詩しか書けないのも、そのせいだ」


 奈波さんの言うこともわかるし、イカルさんを見ていれば、演じることの大変さもわかる。ステージ上で「アルモニカのボーカル」として振る舞うには、物凄く体力と気力がいる。でもそれが、見せたいアルモニカの姿なのだ。だから、イカルさんも頑張っている。


 私は奈波さんと奏太さんの間に割り込むようにして、言った。

「奏太さん、あなたにはまだ、歌いたいという想いがありますか?」

「それは……だって、『奏太』じゃない僕には何も……」


 私の目には、奏太さんの声に渦巻く様々な感情が見えた。迷い、悲しみ、諦め。一生懸命目を凝らすと、何もないという言葉とは裏腹の、嘘の紫色が見つかる。

 私と目が合った聖良さんは、そのまま進めというように、頷いた。


「『奏太』ではない姿で歌いたいことがあるなら、音楽を辞めるのはその後でいいと思います。ずっと大切にしてきた宝物があるのに、それらしい理由でごまかして捨てるなんて、音楽宝物がかわいそうですよ」


「宝物……」

 私の言葉が届いたのかはわからないけれど、奏太さんは小さく呟いた。

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