(9)
「聖良さんですか? 到着しましたけど」
私は自分のスマホを耳に当て、言った。
聖良さんは「エコー」に戻ったが、私はなぜか「ラットラン」の入り口にいた。それも、先ほどとは反対側の入り口だ。工事中で中を通り抜けられないので、わざわざ幹線道路を渡った。
「じゃあ、そこで歌ってみて。できるだけ大きな声で」
「……正気ですか?」
何が嬉しくて、こんな場所で一人歌わなければならないのか。人通りがあまりないとはいえ近くにコンビニや運送会社の配送センターもあるし、そもそも意味が分からない。
しばらく攻防を繰り返して、聖良さんが仕方ないなあとため息をついた。私が悪いような口ぶりだけど、おかしなことを言っているのはあなたですよ、と思う。
「通話を一旦切って、曲を流してくれればいいよ。選曲は任せる」
今度の指令はかなりハードルが下がったので、私はその通りにした。「アルモニカ」で一番好きな、スクランブル交差点で聞いたあの曲を流す。
ワンコーラスが終わったところで、私は聖良さんに電話をかけた。
「これでよろしゅうございましたか?」
「ええ、よくできました。音緒お嬢様はとてもお利口ですねえ」
精々嫌味を込めて尋ねると、聖良さんは昔の口調で反撃してきた。うっかり懐かしくなってしまって、いかんいかんと首を振る。そんな私が見えているかのように、電話の向こうからくつくつと聖良さんの笑い声が聞こえた。
「じゃあ、『エコー』に合流で。……ランチはオムライスにされますか?」
「しません!」
私は怒鳴って電話を切った。いろいろ迂闊だったと後悔する。
「私がオムライス好きだったの、覚えてるのか……」
名前のわからない感情をかき消すように、私は早足で歩き出した。
「ラットラン」に到着したのはお昼時だったが、先ほどと変わらず閑散としていた。入り口から少し入った壁にもたれていた聖良さんは、私に気づいてお疲れ様と微笑む。確かに、さすがに歩き疲れた。
「それで、さっきの『実験』はなんだったんですか?」
「音緒さんは、『ささやきの回廊』って聞いたことある?」
どこかで聞いた覚えのある言葉だった。大学の講義だろうか。いや、同じ学科の旅行好きの先輩が――。
「ヨーロッパに、そんな場所があるって言っていたような……」
記憶を引っ張り出すかネットに頼るか考えていると、近くでレトロなベルがカラコロと鳴った。「エコー」の一軒手前にある、喫茶店のドアが開いた音だった。顔を出したのは店員の制服を着た女性で、私たちに向かって、あの、と意を決したように口を開いた。
「先ほども『エコー』の前にいらっしゃいましたよね。その店に何かご用ですか?」
「ええ、ちょっと事情があって、店長さんとお会いしたいんです」
「それは、曲の盗作騒ぎの件で?」
私はぼかして答えたが、女性は奏太さんの事情も知っているようだった。だから気になって、声をかけてきたのかもしれない。
「奏太さんについて、何かご存知ですか? 私はこういう者で――」
私は名刺を彼女に渡し、アルモニカのマネージャーとして事実関係を調べていると話した。
「私はこの店で店長代理をしている、
聖良さんを見ると、構わないというように頷いた。お腹もすいてきたところなので、ちょうど良い。それに。
――この人、何かを隠している。
声の色が、私にそう告げていた。
私たちはクラブハウスサンドを食べながら、奈波さんに今の状況を説明した。店内には他に客の姿はなく、店員がもう一人、カウンターの隅にいるだけだった。黒髪でやたらと濃いアイメイクをしているが、マスクで顔の下半分が隠れている。彼女は接客もせずにひたすらグラスを磨く作業をしているようだが、なんだか気になった。
「じゃあ、警察に突き出すとか、すぐに捕まったりすることはないんですね」
奈波さんはほっとしたように言った。
「まだ調べている段階ですから。こちらも、事を荒立てたいわけではないですし」
「でも、奏太くんが盗作したという前提で調べているんですよね? 最終的には、訴えるつもりなんですか?」
ストレートに問われて、私は言葉に詰まった。正直、証拠はないが疑ってはいる。イカルさんが盗用していないなら、彼を疑うしかない。
気まずい沈黙を破ったのは、聖良さんだった。
「もし彼が盗作だと自覚していたとしても、訴えるかは別問題です。はっきり言って、一曲がセミプロの歌手に盗まれたくらいで、こちらにはほとんど損害はありません。象が蟻に噛まれたようなものです」
私と奈波さんは、ぽかんと口を開けた。間違ってはいないが、ずいぶん歯に衣着せない物言いをする。彼は気にした様子もなく続けた。
「こちらとしては、このまま放置してもいい。でも、奏太さんはそうはいかないでしょう。今ここで彼が弁明せずに隠れるということは、盗作を認めることと同じです。そうすれば彼はネットという活動の場を失って、プロへの道も完全に断たれるでしょうね」
聖良さんの言葉を聞いて、奈波さんは自分のことのように悲しそうな顔をした。
「でも、仮に彼が正直に説明したとして、それを信じてもらえるでしょうか。嘘つきとか、泥棒とか、今以上に罵られるだけじゃないですか?」
「本人のアカウントで発信すれば、そうなるかもしれません。ですから、『アルモニカ』と連名でコメントを出すことを考えています。もし彼に弁明すべきことがあるのなら、ですが」
なるほど、それならコメントにも信憑性が出る。そこまで考えていなかった私は、聖良さんの案に感心した。
「では、あなたに一つ質問をしてもよろしいですか?」
「な、なんでしょう」
奈波さんは緊張したように、身を固くする。
「あなたは、彼の居場所をご存知ですか?」
「いえ、知りません。連絡先はわかりますが、返事もありませんし」
「……そうですか。それは残念です」
聖良さんは奈波さんの返事を待つように、数秒間、じっと彼女を見つめていた。しかし息が詰まるような沈黙が落ちただけで、彼女が口を開くことはなかった。
奈波さんが私たちのテーブルから離れようとしたところで、聖良さんが言った。
「おそらく、奏太さんには人の曲を盗んだという自覚が全くなかったのだと思います」
はっと目を見開いた奈波さんは、どういうことかと聖良さんに詰め寄った。あまりの必死さに、近くで見ていた私は気圧される。
「奏太さんに、こう伝えてください。『もし真実を知りたければ、今日の深夜零時、“メロディが降ってきた場所”で、お会いしましょう』、と」
「ですから、彼の居場所なんて知らないと――」
「“彼女”でも構いませんよ」
聖良さんの言葉に、奈波さんはひゅっと息を呑んだ。店の奥で、ガラスの割れた音が響く。カウンターの奥にいた女性が、慌てて屈むのが見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます