(4)
ホテルの地下は披露宴会場として使われるホールがいくつかあり、その脇に控室がくっついていた。私たちが貸してもらったのは、その控室だ。今日は披露宴もなく、地下はしんとしていた。
「失礼しまーす」
聞こえないだろうとは思いつつ、ノックと声かけをしてからドアを開けた。 アンプを通していない、ベンベンと弦を弾く音が聞こえる。イカルさんはヘッドホンをして、ベースを抱え込むようにして弾いていた。
私は聖良さんの助言通り、イカルさんの正面に回った。ちょうど天井からの灯りを遮る形になり、それに気づいたイカルさんが顔を上げた。
「夕食の時間なので、適当に持ってきました。食べられそうですか?」
私がパックの蓋を開けて見せると、イカルさんの目が輝いた気がした。
「ハンバーグと唐揚げがある……!」
「はい、明日香さんからお好きだと伺ったんです。今後のこともありますし、好き嫌いがあれば教えてくださいね」
イカルさんはカレーも好きだと言った。
「でも、野菜はあんまり――」
「知ってます。でもそこにあるぶんは、食べましょうね」
にこやかに言うと、イカルさんは大人しく食べ始めた。明日香さんが見ていたら、またお母さんみたい、と言ったかもしれない。
食べているところを見られるのも落ち着かないだろうと思い、私は部屋を出ようとした。
「あ、あの、音緒さん」
ドアノブに手をかけたところでイカルさんに呼び止められ、振り返る。彼は口をモゴモゴさせながら、私に言った。
「僕らのマネージャーになってくれて、ありがとうございます。その……ちゃんと、挨拶をしていなかったので」
言われてみれば、そうだった。ポルターガイスト騒ぎで、うやむやになってしまったのだ。私はイカルさんに向き直って言った。
「こちらこそ、こんな新米を認めてくださって、ありがとうございます。至らないところは多いと思いますけど、精一杯頑張りますね」
イカルさんは私の言葉に、ふっと表情を緩めた。
「音緒さんは、十分優秀だと思います。僕なんて、もうそろそろ三十なのに、ぼんやりしているし、身の回りのことは聖良に頼っているし……」
「イカルさんは、聖良さんをとても信頼されているんですね」
私が言うと、イカルさんは嬉しそうに頷いた。
「聖良は、僕の音楽を二番目に褒めてくれた人だから」
「二番目……」
それなら、一番目は誰なのだろう。疑問に思ったが、珍しく饒舌になったイカルさんが話し始めたのは、聖良さんのことだった。
「聖良と初めて会ったのは、僕が路上で演奏をしている時だったんだ。僕はそのころ、父が亡くなったり、友達だと思っていた人に裏切られたり、つらいことが立て続けに起きて押し潰されそうだった。唯一の逃げ道が、自分で曲を作って、それを歌うことだった」
イカルさんは当時のことを思い出しているのか、遠い目で続けた。
「普通のストリートミュージシャンとは違って、僕は人に聞かせるつもりで歌っていたわけじゃなかった。アパートで歌ったら怒られるかもしれないから、外で、思いっきり歌っても気にされない場所を探したんだ。だから、僕がいた場所はすごく寂しい、人通りの少ない十字路だった」
その先は工業団地しかなく、トラックは通るが歩行者なんてほとんど来なかったという。
「でも不思議なもので、歌っているうちに、もっとうまく歌いたい、楽器もうまくなりたいって欲が出てきた。自己流だったけど、僕は練習するようになった。曲の作り方も、本を買ったりして勉強を始めた」
生来真面目な人なのだろう。メディアでイカルさんは天才シンガーソングライターと評されているが、地道に努力した過去があるからこそ、今があるのだ。
「僕は自分が作った曲を、ギター一本で歌い続けた。適当だった歌詞は、自分の本音をさらけ出したものに変わっていった。歌にすれば面白いように言葉が出てきて、自然と口に出すことができた。誰か、同じように苦しんでいる人たちに向かって歌えたら、と思う時もあった。それでもまだ、人前に出る覚悟はなかった」
「それは、どうしてですか?」
「思った通りの演奏が、できなかったんだ。恥ずかしいけど、自分で作ったのに譜面通りに弾けなかった。ちゃんと弾けたらもっと良い曲になるのにって、歯がゆい気持ちだったよ。――そんな時に、聖良が現れたんだ」
いつもの十字路。人通りのほとんどない、真夜中。そこに、聖良さんがやって来た。
「彼は僕の歌を褒めてくれた。それから言ったんだ。ギターを、自分に弾かせてくれないかって。……驚いた」
イカルさんの淡々とした口調が、徐々に熱を帯びていった。
「僕の頭の中で鳴っていた音が、目の前で奏でられているんだ。完璧だった。人生で、あんなに興奮したことはないよ。僕は彼に、一緒に音楽をやろうと言った。誘うというよりは、懇願だったかもしれない。とにかく、彼を捕まえておかなくちゃって、僕の本能が言っていた」
それが、アルモニカの原点、彼らの始まりだったのだ。
「イカルさんは聖良さんと……契約したんですか?」
父のことを思い出しながら、もしかしたらと私は尋ねた。しかしイカルさんはきょとんとした顔になって、首を傾げた。
「契約? いや、そんなちゃんとしたものはないよ。事務所との契約はもちろんあるけど、バンドメンバーがずっと辞めないでいてくれる保証はないんだ」
でも、とイカルさんは訴えるように続けた。
「僕が歌手でいられるのは、彼がいるからなんだ。たぶん、世界のどこを探しても、彼しかいない。もちろん、明日香もいてくれないとダメだけど、僕が踏み出すきっかけをくれたのは、聖良だったんだ」
喋り終えた途端、イカルさんは恥じらうように俯いた。語り過ぎたと思ったのかもしれない。私は彼に、自分の正直な気持ちを伝えた。
「……うらやましいです」
「え?」
「そんなステキな出会いがあって、頼りになる仲間がいて、イカルさんがうらやましいなって思います。私には、そこまで夢中になれることも、人生を変えてくれるような人との出会いもなかったので」
イカルさんは私の言葉に、静かに耳を傾けていた。それからゆっくりと、顔を上げた。前髪に透けて見える目が、私をまっすぐに捉えていた。
「音緒さん」
「は、はい」
改まって名前を呼ばれて、私は思わず姿勢を正して返事をした。
「僕たちと一緒に、同じ夢を見てくれませんか? 僕たちは、今よりもっとたくさんの人に、歌を届けたいんです」
まるで、プロポーズみたいだと思った。きっと、イカルさんの中ではそのくらい重くて大事な言葉を、くれたのだとわかった。目の奥が、じんと熱くなる。視界がぼやけそうになって、私は慌てて瞬きした。
「私も、一緒で良いんですか?」
「はい。一緒“が”、良いんです」
胸が詰まって言葉が見つからなかった私は、ありがとうございますと答えるのが精一杯だった。
「全国ツアー、絶対成功させましょうね」
イカルさんは笑顔で頷いた。私との会話で見せてくれた、初めての笑顔だった。
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