(5)
翌朝からは、ライブ本番まであっという間に時間が過ぎていった。私は初めてのことなので、邪魔にならないよう隅で作業の様子を眺めていた。
「いよいよだねえ」
ライブ前の空気を吸うためか、明日香さんは作業開始から会場にいた。
「こんなにたくさんの人が、関わっているんですね」
私は会場を忙しく動いているスタッフさんたちを見ながら、感嘆のため息をついた。
「そう、数時間の本番のために、大人数で何倍もの時間をかけて準備をしてくれるんだ。でも、これでもまだ少ない方だと思うよ。ここはライブ用の設備が揃っているから、照明や音響機材もほとんど持ち込む必要がないし」
会場によっては、機材も照明も一式持ち込まないといけないこともあると、明日香さんは言った。クラシックや演劇に適した造りのホールだったとしても、ロックのライブには不向きだったりするそうだ。
「そういえば、ベストな残響時間がジャンルによって違ったりしますよね」
「あ、それ前に聖良が言ってた!」
音が部屋の中でどう反響するかによって、残響も変わる。全く残響がないと味気ないけれど、響きすぎても音が混ざり合って気持ち悪い。残響は、音が心地よく感じられるかを左右する重要な要素だ。その指標となるのが残響時間で、音源が振動を止めてから六〇デシベル減衰するまでの時間のことをいう。音量でいうと、六十四分の一。広い会場なら、聞こえなくなるまでの時間とほぼ等しい。
「たしか、教会音楽とかクラシックとくらべると、ロックは短めの方が良いんですよね」
「そうそう。でも、観客が入らない状態であんまり響かないように調整すると、本番は観客の服に吸音されて、さらに残響時間が短くなるんだって。冬は厚着になるからより吸音されるし、予測が大変だってPAさんが嘆いてたよ」
PAは音響に関すること全般を担当していて、この間飛行機で隣の席だった青海さんもその一人だ。音響機材の搬入やセッティングに始まり、本番中のオペレートもする。客席に届ける音を作る人、といってもいいかもしれない。バンドのそれぞれのパートをスピーカーから客席に伝える、とても大事な仕事だ。
今まで観客の一人としてただ楽しんでいただけだったけれど、PAさんや照明さんたちの緻密な計算の上でステージが作られていたのだと思うと、ものすごく価値があるものに思えた。
ゲネプロの時間には津麦社長も現れて、一緒に見学した。開始の十分前にやって来たイカルさんはいつもの猫背でおどおどとした彼とは別人で、率直に言ってとても格好良かった。マイクの前にまっすぐに立ち、声を出す。張り上げているわけでもないのに、第一声で心を掴まれてしまった。
「音緒ちゃんは、アルモニカのライブ見るのは初めてだっけ?」
「はい、スタジオで合わせてるのは聞いたことありますけど、こうしてステージを見るのは初めてです。なんていうか……圧倒されますね」
ゲネプロの様子を見ているだけでも、鳥肌ものだった。
「……本番はね、もっとすごいよ」
津麦社長はステージの三人を見ながら、自信ありげにニヤリとした。
「よーし、やりますか!」
明日香さんが舞台袖で大きく伸びをして、ぐるぐると腕を回した。満員の観客席は、既に熱気に包まれている。その熱気に当てられてか、私は緊張で少し震えていた。
落ち着かずに視線をさ迷わせていると、突然頭上に衝撃を感じた。私はうひゃあ、と情けない声を上げる。
見上げると、聖良さんがからかうように私の頭をぐりぐりしていた。
「自分が出るわけでもないのに」
「それは、そうなんですけど……」
聖良さんは私の頭を別の方向に向けさせて、指さした。
「見てごらん」
その方向には、イカルさんがいた。
「ほよよよよ……」
何やら奇声を発し、カクカク歩き回っている。自分よりひどい状態の人を見て、私の緊張はすっと消えた。
「大丈夫なんですか? 動作不良のアラレちゃんみたいになってますけど」
「本番直前はいつもあんな感じ。ステージに出れば戻るよ」
聖良さんは明日香さんに目配せし、イカルさんのところに向かった。円陣でも組むのだろうか。そういうのは大好物だ。私はワクワクしながら見守ったが、期待は見事に裏切られた。
「ああ、今日は本当にダメかもしれない。緊張するよう……」
「そうだね、気持ちはわかるよ」
イカルさんの嘆きを聞き流し、二人はそれぞれ彼の右腕と左腕を掴んだ。
「じゃ、行ってきまーす!」
明日香さんが手を振り、津麦社長が行ってらっしゃいと振り返す。
「待って待って、やっぱり無理いいぃぃぃ!」
イカルさんが二人にずるずると引きずられていく。イカルさんの声が物悲し気にフェードアウトしていくのを、私は何とも言えない気持ちで聞いていた。
「……毎回こうなんですか?」
津麦社長に聞くと、彼はにこにこしながら頷いた。
ステージ上はまだ暗く、こちらからは見えない。イカルさんはきちんとマイクの前に立っただろうか。
やがて、会場に小さく流れていた音楽が鳴り止んだ。期待に満ちた拍手が、観客席から聞こえる。照明が切り替わって三人の姿が浮かび上がると、爆発のような歓声が響き渡った。
そして私は、先ほどの心配が杞憂だったことを知る。イカルさんはぴんと背筋を伸ばし、自信に満ちた空気をまとっていた。
「あれ、音緒ちゃんどこ行くの?」
「客席から見たいので、二階席に行ってきます!」
ずっと、一人の観客として彼らを見てみたかった。私は小走りでスタッフ用のスペースから出ると、階段を上がった。スタッフのパスを見せて、体を滑り込ませるようにして会場に入る。
ズシンと体に響くドラム。軽やかにステップを踏むようなギター。そして、全てを温かく包む声。静かな聴衆は、瞬きを忘れたようにステージに見入っていた。
私も今だけは、観客の一人でいることを許してほしい。
私は目を閉じて、終わりが見えずにもがいていた、苦しい日々を振り返った。そしてそんな日々に負けそうになっていた私を救ってくれた、アルモニカの歌を想った。滲んだ涙が溢れ、頬をつたう。
つらかったことも、悔しかったことも、なかったことにはならないけれど、いつか私の中で溶け合って、意味をもつのだろう。どんなことだって、きっと無駄にはならない。イカルさんが、歌を通して私にそう語りかけてくれていた。
だから、彼らを信じて、前だけを見て進んでいこう。私は涙を拭って、泣くのはこれきりにしようと決めた。苦しいだけの日々は、もう終わったのだ。
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