(9)
「私、大丈夫でしょうか……」
スタジオを出た私は、津麦社長に恐る恐る尋ねた。しかし彼の方は何のことか、というようにきょとんとしている。
「何か問題があったかな?」
「いえ、明日香さんはフォローしてくださいましたし、特に心配はしていないんですけど……」
問題は、イカルさんと聖良さんだ。
「イカル君は神経質なところがあって、基本今日みたいにおどおどしてるけど、音緒ちゃんは普通にしていればいいよ。それに、君が颯爽と推理を始めた時、尊敬の眼差しで見てたじゃない」
「恥ずかしいので推理とか言うのはやめてください……」
両手で顔を覆う私を見て、津麦社長は楽しそうに笑った。
「聖良君もけっこう君のこと気に入っていた気がするけどねえ」
「いやいやいや。笑われただけじゃないですか?」
私がしばらく考えてたどり着いた答えに、彼は一瞬で気づいてしまった。ドヤ顔でそれを披露していた私のことを、内心馬鹿にしていただろう。
「それにしても、音緒ちゃんは物知りだね。低周波、だっけ? すぐそんなこと思いつくなんて」
「一応、大学で音響学をやっていたので。でも、皆さんみたいに音楽を仕事にしている方からするとまだまだってレベルだと思います」
「まあ、そう謙遜なさらずに。聖良君は理詰めで考えるタイプだから、君とも相性は良いと思うんだよね」
「そう、でしょうか……」
そうそう、と津麦社長は上機嫌に頷く。
「……あ、ごめん、電話だ」
津麦社長は立ち止まって、胸ポケットから携帯電話を出した。どうも、と陽気な声で話し始めるのをなんとなく聞いていた私は、違和感を覚えて耳を澄ませた。
気になったのは津麦社長の声ではなく、電話の向こうの人物の声だ。焦りの色。赤と黒がぐるぐると渦を巻くような声をしている。
「――ええ、もちろん出資させていただく方向で……ええ、こちらこそよろしくお願いします」
電話を終えた津麦社長に、私はたまらず尋ねた。
「あの、今の方とはお仕事の話をされていたんですか?」
「うん、そうだよ。事務所の垣根を越えて大規模なオーディションを開催しようって話になっていてね、電話をくれた
「その人って、本当に信用できる人ですか?」
「怪しい人じゃないかって? いやいや、大丈夫だよ。彼は大手の事務所にも顔が利くし、少し前はテレビのオーディション番組にも関わってたんだ」
津麦社長が口にした番組は、私も知っていた。大きい仕事に携わっていたのは本当なのだろう。でも、だからといって絶対に人を騙さないとは言い切れない。
「あの、でも、今の声はちょっと性急な感じがしたというか……。うまく言えないんですけど、嫌な予感みたいなものが……」
津麦社長は怪訝そうに、私を見ていた。当然の反応だ。何か良い言い方はないかと言葉を探したけれど、焦るばかりで何も思いつかない。
もう、気のせいだったとごまかしてしまおうか。諦めて口を開こうとした時だった。
「――それは、僕も同意見です」
驚いて声の方を振り向くと、聖良さんが立っていた。同じく驚いた様子の津麦社長が、どういう意味かと尋ねる。聖良さんは津麦社長に、A4判の封筒を見せた。
「室町さんが経営している会社の、信用調査の結果です。個人的に気になったので、調べてもらっていました」
「ああ、
封筒には「栗栖調査事務所」と書かれており、津麦社長も知っている興信所のようだった。
「音楽配信サービスの事業で失敗して、今期はかなり赤字のようですね。新しいプロジェクトを立ち上げたのも、集めた資金で赤字を補填するつもりではないかと……」
聖良さんは手短に、調査結果を話した。それはもしかしなくても、詐欺というヤツではないだろうか。もしその会社が倒産したら、お金は返ってこないかもしれない。
津麦社長は落胆したようにため息をついたが、切り替えるようにぱっと顔を上げた。
「ありがとう、聖良くん。とりあえず、緊急会議だな。他の出資者にも連絡を取らないと。……音緒ちゃん、また改めて連絡するから、悪いけど今日のところは……」
「はい、今日はありがとうございました。これからよろしくお願いします」
頭を下げた私にひらりと手を振って、津麦社長は早足で去っていった。
「じゃあ、私もこれで――」
「ちょっと待った」
さり気なく帰ろうとした私だったが、聖良さんに呼び止められてしまった。びくびくしながら振り向くと、聖良さんは私をじっと見つめていた。
逃げられないと悟った私は、せめてこっちから仕掛けようと覚悟を決める。
「私たち、はじめましてじゃないですよね。……あなたは、ピアニストになった父の隣にいた」
父の話をした時、津麦社長に一つ言わなかったことがある。それは、ピアニストになった父の身の回りの世話をしていた、青年のことだ。若く、子供心にも美しい顔の人だと感じた記憶がある。父と共にいた私と母も、海外での半年間、彼の近くで過ごした。
なぜだか、霞がかかったみたいに顔は思い出せない。でも、あの「声」は、忘れられない。
「やっぱり、見えない……」
私は小さく呟いた。どれだけ目を凝らして、耳を澄ましても、聖良さんの声から感情は読み取れなかった。
――彼の声には、色がない。
確信を得た私を見て、聖良さんは口の端を吊り上げて笑みを浮かべた。
「またお会いしましたね、音緒お嬢様?」
そうだ、彼は私のことをそんな風に呼んだ。お嬢様なんて言われたことがなかったから、ちょっと、いや、かなり舞い上がったことを覚えている。
青年は父の前に突然現れ、一緒に世界を巡り、また突然姿を消した。まるで、父の夢を叶え、夢の終わりと共に父を連れ去ったかのように。
彼こそが、津麦社長の恐れる存在ではないか。
「あれからもう十年以上経っているのに、あなたは若いままなんですね」
「老けにくいたちみたいでね」
私をからかうように、聖良さんは言った。
声の色がない人に、近づいてはいけない。父のことがあってから、私は肝に銘じていた。街角で、大学の構内で、時々そんな人を見かけたけれど、意識的に避けていた。
「一つ、聞いてもいいですか?」
「どうぞ。答えるかはわからないけど」
軽く首を傾げ、彼は言った。
「あなたは、イカルさんを連れて行くつもりですか?」
「そうだね、次のライブは福岡だから――」
「違います」
遮って、私は聖良さんを睨んだ。
「もっと、恐ろしいところのことです。私の父がいる場所」
聖良さんは微笑んだまま、私に尋ねた。
「そうだとしたら、どうする? 彼のボディーガードにでもなるつもり?」
私は首を振った。彼が本当に私の考えている通りの存在だとしたら、そんなことをしても意味はない。
唯一、方法があるとすれば――。
「アルモニカを、聖良さんが壊すのが惜しくなるくらい、最高のバンドにします。私はマネージャーとして全力で、アルモニカのために働きます」
たぶんそれが、私にできる最大限のことだ。
「……君も、同じことを言うんだね」
「え?」
聖良さんはまた不敵な笑みを浮かべ、面白い、と呟いた。
「期待してるよ、マネージャーさん」
聖良さんはそれだけ言うと、さっさとスタジオへと戻ってしまった。
ドアが閉じて、私は自分が小さく震えていることに気づいた。膝も笑っていて、気を抜いたらへたり込んでしまいそうだ。
「こ、怖かった……!」
父を奪った人に、宣戦布告するなんて。もしかすると、これは近々、私も連れていかれてしまうかもしれない。
でも、後悔はしていない。私を救ってくれた歌と、その歌を紡ぐ彼を、絶対に守る。今度こそ、大切な人を失うことのないように。
こうして私の目まぐるしい日々は、唐突に幕を開けたのだった。
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