(2)

「危ないところだった……」


 私は送りかけたメッセージを消去して、ふうと息をつく。悪魔に魂を売り渡す瞬間というのは、あんな感じだろうか。なんとか踏みとどまったけれど、あの声を聞かなければどうなっていたかわからない。


 そう、“声”だ。私にとって一番大事で、同時に一番恐ろしいもの。


――私は、人の声から感情を読み取ることができる。


 物心ついた時には、それは当たり前のことだった。声が色として感じられ、その色が感情を示すのだ。


 母が私を怒る声は、鮮やかな赤。イライラしている時は黄色と黒がちらつくから、あまり近づかないように。緑色の優しい声の先生には懐いたけれど、灰色のけだるそうな声の先生は好きなれなかった。


 その能力は、人の顔色を窺うには大いに役立った。しかし、わかるというのは必ずしも良いことではない。優しくにこやかに喋っているようでも、悪意や蔑みの色が見えることもある。就職活動をしていると、そんな人ばかりだった。


 例えば、説明会に来た社員が仕事のやりがいを語る時。嘘の紫色の中に、赤黒い嘲りの色が見えて、とても聞いていられなかった。就活生の質問に答える人事の人だって平気な顔で嘘をつくし、面接官は熱心に話を聞いているように見せかけて、実は全く興味を持っていなかったりする。


 私がこの能力を活かせるくらい器用で野心家だったら、状況は違ったかもしれない。でも、就活にそこまでする意味があるのか、という思いの方が強かった。うまくいかないのも、そんな風にいまいち波に乗り切れないからかもしれない。


 それはともかく、今はあの歌だ。彼の歌声に、紫色は一ミリもなかった。ただ純粋に、言葉の意味以上の感情が声に乗っていた。あんなに透き通った色の声は、初めて聴いた。


 私はくるりと踵を返して、早足でCDショップに向かった。たしか、有名な大型店があったはずだ。

 店に入ってすぐのところに、私が求めているものが積まれていた。

 その中の一つを手に取って、じっくりと眺める。ジャケットは、微かに光が射す海の写真だった。ほとんど真っ暗で、目を凝らすと波打つ水面が見える。低く昇った月が、柔らかな光を投げかけていた。


「それ、良いですよ。おススメです」


 横から声をかけられて、私は声の方を振り返る。その人は見覚えのあるエプロンをつけていて、店員なのだとわかった。すらりと背が高く、中性的な顔立ちがふんわりした栗色のショートカットによく似合っている。


「さっき街頭ビジョンで、MVを見たんです。それでCDが欲しくなって」

 私が言うと、店員さんは嬉しそうにうんうんと頷いた。

「最近はネットで曲を買ったりストリーミングで聞いたりする人が多いけど、やっぱりCDだと『手に入れた!』って感じがしますよね。お買い上げいただいたら、今手にしているCDは永遠にあなただけのものですよ」


「……それ、普通じゃないですか?」

 永遠などと言うといかにも素晴らしくてお得なように聞こえたが、お金を出せば商品が手に入るのは当然だ。


「あはは、バレたか!」

 店員さんは陽気に口を開けて笑った。つられて私も笑い、買いますと宣言した。レジに向かう私のエスコートがスマートで、顔だけでなく立ち居振る舞いもイケメンだった。


 会計を終えてCDを受け取ると、店員さんの言葉の意味がわかった気がした。わくわくして、満たされる感覚。このCDはきっと、私にとって宝物になる。たった一曲をワンコーラス聞いただけなのに、そんな確信があった。



 家に帰ると、スーツから着替えるのももどかしく、私はパソコンを立ち上げた。ウチにコンポはないので、CDはパソコンで聞くしかないのだ。

 渋谷で流れていた曲は六曲目だったが、一曲目から再生した。ボタンを押し、曲が始まるまでのほんの数秒間。それをもどかしく感じたのは、久しぶりだった。


 かすかに震えるブレスから、曲は始まった。語りかけるような歌声は、私の心にじわじわと染みわたっていく。ギターとベース、ドラムがそっと加わって、徐々に光が増していく光景が目に浮かんだ。そう、海に昇った月から、明かりがゆっくりと延びていくあのジャケットの風景だ。


 ぺたりと座り込んでいた膝に、雫が一つ落ちた。それを見てようやく、私は自分が泣いていることを知った。涙は静かに、ぽとりぽとりと落ちていく。自分のことなのに、ここまで傷ついていたことに気づいていなかった。大丈夫だと思っていたけど、大丈夫じゃなかった。


 私なんて誰からも必要とされていないんだ。立ち止まってしまえばその事実を直視しなければいけないから、ずっと走り続けてきた。でももう、無理だった。

 私はしゃくりあげながら、アルバムのすべての曲を聞き終えた。それからすぐ、再生ボタンを押して、もう一度初めから聞き直した。今度は、歌詞をブックレットで辿りながら聞いた。


 歌に登場するのはすべて、「僕」だった。具体的な情報はないけれど、平凡を嘆きながら生きている、世の中が理不尽であると気づき始めた一人の青年。天才であったならと夢見つつも、自分にはそんな才能はないとわかっている。だからといって何もかも諦めているわけではなくて、自分の足で立って、居場所を作ろうともがいている。


「『選ばれなくても、僕は選ぶ。それだけで、世界は僕のもの。夜が明けるよ』……」


 歌詞カードに書かれた言葉を、私は呟いた。


 「僕」と、選ばれなかった私が重なった。でも彼は、希望を感じている。誰からも選ばれなくても、自分で未来を選ぶことができれば、世界に光が射す。それに気づいたから、彼は歩き出すのだ。何が飛び出すかわからない真っ暗な道でも、自分で選んだ道だから。


 私はその場で横になって、ゆっくり息を吐いた。状況は何も変わっていない。でも少し、気持ちが落ち着いた。

 私も、人に流されていたらダメだ。何もかも諦めて投げ出すのは、もう少し頑張った後にしよう。でも今はちょっと、休憩させてほしい。包み込むような音楽を子守歌に、私は目を閉じた。

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