第一章 覆面バンド「アルモニカ」
(1)
メールの画面を閉じると、私は深く息をついた。
「イケると思ったんだけどなあ……」
就職活動を続けてそろそろ一年。たった今、選考が進んでいた最後の一社からのお断りのメールを受け取ったところだった。
連敗記録を絶賛更新中の、がけっぷち大学院生。この三月に卒業するのに、もうその三月である。このままではニートまっしぐらだ。
「またお祈りメールを集めてしまった……」
同期からお祈りメールコレクターと名付けられて笑い転げていたが、そろそろ本当にヤバいかもしれない。今日も渋谷駅近くの企業で一次面接を受けてきたが、まったく手ごたえがなかった。
早く、次を探さなければ。わかってはいるけれど、正直に言ってもう疲れてしまった。なんだか何もかもどうでもいい。
その時、バッグにしまおうとしたスマホが手の中で震えた。私は息をのんで、ディスプレイを見る。表示されていたのはラインのメッセージで、隣の研究室に所属する同期からだった。どこかの企業からの電話ではないか、という淡い期待はすぐに消えた。
「あの話、考えてくれた?」
彼女からのメッセージを読んで、私はもう一つだけ、就職先の当てがあったことを思い出した。
でも、正直あまり気乗りはしない。すぐに返事をする気になれず、特に目的もなく渋谷のセンター街の方へと足を向けた。
彼女が私を誘っているのは、健康器具や健康食品を販売するメーカーの営業職だった。彼女自身もそこに就職を決めている。そして私の就活が難航しているという話をどこかから聞きつけて、ありがたくも仕事を紹介してくれようとしているのだ。
気持ちはとてもありがたい。でも、問題は販売している製品にあった。
はっきり言って、どれも詐欺すれすれの、効果なんて見込めないものばかりだ。お金をばらまいて、有名人に宣伝してもらっているだけ。たぶん、私と同じく理系の彼女もわかっているはずだ。
画面を見ると、さらにメッセージが来ていた。
「すぐ埋まっちゃうから、絶対早く決めた方が良いよ! これからどんどん成長する会社だって聞いたし、基本給もいいし。しかも、営業成績が良ければさらにボーナス上乗せだって!」
「うん、それは魅力的だよねえ」
メッセージを見ながら、ひとりごとを呟く。
坂道を上りながら、昔この近くのライブハウスに来たことがあったと思い出した。一時期は、アルバイトで稼いだお金の半分以上が、チケット代に消えていたはずだ。あの頃は退屈な講義も残業の多いアルバイトも、終わればライブがあると思えばそこまで苦にならなかった。
様子を見に行ってみると、改装したのか、そのライブハウスは外観が記憶と違っていた。近くにポスターが貼られていて、それを見るに、対バンで二つのロックバンドがライブをやるらしい。昔はポスターを見るだけでワクワクしたのに、今は心が動かなかった。思い出の場所が姿を変えていて、むしろ取り残されたような気分になった。
手の中のスマホが、また震えた。
「とりあえず正社員になってお金が稼げるんだから、このままニートよりは百倍良いでしょ?」
その通り。そこを突かれると痛い。
でも、できることなら、嘘をつく必要のない、まっとうな会社で働きたい。自分が良いと思えるものを作ったり売ったりしたい。私の中でそれは普通のことだと思っていたけれど、世間一般ではきれいごとなのだろうか。社会を知らない子供の甘えなのだろうか。
憂鬱になってきた私は、とぼとぼと坂を下り、駅の方へと戻る。せっかくだから、デパ地下で美味しそうなスイーツでも買って帰ろう。
ゆっくりと動く人波に流されながら、もし彼女の誘いに乗ったらと想像した。そうすれば、今の地獄からは抜け出せる。それはとても、甘美な誘惑だった。
もういい加減、就職活動から足を洗いたかった。何十社も履歴書とエントリーシートを送って、ようやく面接までたどり着いても、さっさと落とされる。お前はいらないと否定され続けた私の精神は、とっくに限界だった。
別にどうしても入りたかった企業があったわけじゃないし、確かに稼げればいいという気持ちはある。
スクランブル交差点に差し掛かって、私は人ごみの中にいる一人一人を見た。派手な服装で騒いでいるグループ、生気のない目でスマホに目を落とす中年男性、制服を着崩した高校生。溢れんばかりの、人、人、人。私が騙すとしても、この中のほんの一握りでしかない。
大したことじゃない、別にいいじゃないかと思った。私だって、生活のために稼がなきゃいけないのだ。
「説明会、参加してみようかな――」
私がメッセージを送ろうとした時だった。
声が、私を貫いた。
信号待ちの人垣がざわめき、一斉に頭上を見上げる。
街頭ビジョンに映し出される、ミュージックビデオ。突如流れ始めた歌は、私の世界から他の音を奪ってしまった。
掠れた声によって紡がれる、優しい言葉たち。大丈夫、あなたの苦しみはわかっているよと、私だけに語りかけられているようだった。
「アルモニカ」という、そのバンドの名前くらいは知っていた。男性ボーカルで、どこかノスタルジックな、哀愁漂う声。その歌詞も歌声に寄り添うように切なくて、でも聴き終えた後には爽やかに前を向きたくなる。そんな、キャッチコピーは聞いたことがあった。けれど、それは単に、情報として知っていただけだった。
どうして今まで、彼らの歌を聞き流すことができていたのだろう。
私はすっかり魅了されて、信号が青に変わってもその場に立ち尽くしていた。
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