旋律の悪魔にアンコールを
小松雅
プロローグ 旋律の悪魔
白い壁に囲まれた部屋に、白いベッド。テーブルに置かれた携帯電話から、ギターを弾き語る声が聞こえていた。五分ほどの曲が弦の余韻を残して終わると、ベッドの上の女性が傍らに立つ青年を見た。青年は女性に問いかける。
「これが、あなたの用意した対価ですか?」
残念ですが、と感情のこもらない声で彼は言った。
「これでは契約はできません」
「……そう。ただ音楽を届けるだけじゃ、あなたは認めてはくれないのね」
拒否されたにもかかわらず、女性は余裕のある笑みを浮かべた。
「でも、ご覧の通り私が生きられるのもあとわずか。対価として、私の寿命をあなたの“お仲間”に差し出そうとしたけれど、ほとんど価値はないと断られたわ」
「ええ、その通り。我々にとってはあなたの魂の価値はほぼ絞りカスです」
「必死にあなたを呼び出した人間に向かって、カス?」
「怒りました? じゃあ、契約は合意に至らずということで」
くるりと背を向けた青年を、女性は慌てて呼び止めた。
「カスでもウスでもなんでもいいわ。とにかく私は、藁をもすがる思いであなたを探したの。寿命以外の対価でも取引に応じてくれるという、あなたを」
青年は黙って、女性に向き直った。彼女は少し苦しげに呼吸を整え、口を開く。
「さっきの曲は、私の願いを話す前奏みたいなものよ。あなたはあの曲を聞いて、どう思った? 古今東西、あらゆる音楽を知るあなたに、感想を聞きたいの」
答えなければ話が進まない気配を察して、青年は渋々口を開いた。
「荒削りですが、人を惹きつける声だと思います。曲も悪くないですね。懐かしさと新しさが混在する、不思議な魅力がある。でも――」
「でも?」
「彼はこの演奏に、満足していない。彼の理想は、もっと高いところにある。奏者が満足していない音楽を、認めるわけにはいきません」
女性はその答えを聞いて、にやりとした。
「そうよ。彼が求めているのは、歌うように軽やかな、ギターの音色。もし理想の音を奏でるギタリストがいたら、奇跡のような音楽になるわ」
女性は腕を伸ばし、折り畳まれたメモ用紙を青年に差し出した。
「これは?」
「招待状よ。何万人もの観客の前で、スポットライトを浴びるステージへの」
そして、彼女は挑むように青年に宣言した。
「私が用意する対価は、『未来の彼が紡ぐ音楽』。彼は絶対に、あなたが求める音楽に辿り着く」
青年は言葉の意味を咀嚼するために、何度か瞬いた。
「そんな不確実なものを担保に契約を迫ってきたのは、あなたがはじめてです」
「でしょうね。思いついた時、私って天才だと思ったもの」
誇らしげに言う彼女に呆れながらも、青年は少しずつ、興味を持ち始めていた。
そもそも、と彼女は調子に乗って続ける。
「私はあなたに願った結果を、見ることができないの。あなたがちゃんと仕事をしてくれるか確認しようもないのに、あなただけ確実な対価を要求するなんて、不公平だと思わない?」
無茶苦茶な理論だ。しかし不思議と、愉快な気分だった。時折こうやって楽しませてくれる人間もいるから、絞りカスも侮れない。
やがて、彼は言った。
「良いでしょう、あなたの残りの寿命と、彼の音楽。それらを合わせて対価とし、あなたの願いを一つ叶えます」
「あら、相場は三つじゃないの?」
文句を言う彼女に、青年は一つため息をついて答えた。
「本来なら一個分にも満たないですが、死の淵にありながら僕を呼び出した執念に敬意を評して、というところです」
「はいはい、ありがたくて涙が出るわ」
おどけて目元を拭う仕草をしてから、彼女は一つ、深呼吸をした。笑みを消し、まっすぐに青年を見つめる。
「じゃあ、言うわよ。私の願いは――」
聞き終えた青年は、知らず口の端を吊り上げていた。
ああ、本当に愉快だ。
「あなたに、信用できる人間はいないのですか?」
「残念ながら、ね。人は簡単に、欲望に飲まれて別人になってしまうから」
青年は全面的に同意した。そうやって壊れていく人間を、数えきれないほど見てきた。
美しい願いを叶えるたびに、己の身は醜く汚れていく。対価を差し出すとはそういうことで、しかし美しいものしか見ていない者は、その醜さが目に入らないのだ。いかに気づかせずに多くを差し出させるかが、青年たちの腕の見せ所である。
しかしどうやら目の前にいる彼女は、己の美しさを損なわぬまま、願いを叶えようと画策しているようだ。なんと貪欲なことだろう。
「とにかく、損はさせないわ。彼の音楽はきっと、
青年を見上げる女性の目は挑戦的で、自信に溢れ、美しかった。
「なるほど、それはぜひ、聴きたいものです」
面白くなりそうだ。青年は女性の手から、“招待状”を受け取った。
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