第9話男子高生バディと水族館の少年
帰りのホームルームが終わり教師が出て行くと教室内はにわかに賑やかになった。
ふたりの通う高校では部活動への参加は必須ではなく、二人とも帰宅部である。残って喋って行く事もあるが、大抵は真っ直ぐ帰る。
「ねぇねぇ、もうすぐ冬休みじゃん。どうする?」
雫が帰り支度をしていると後ろの席から白眉が話しかけて来た。
どうする、というのは遊ぶのかバイトするのかという話だろう。ふたりは大概一緒に行動しているのでその辺りの予定も大概一緒になる。
「遊びたい……けどいま僕お金ないからなぁ」
雫はぼやいた。霊に取り憑かれて池に入水してスマホをぶっ壊したのはつい最近の事だ。
「じゃあバイトする?んじゃ俺も働くかなぁ」
帰り支度を終えた白眉が鞄を肩に掛けて立ち上がったので雫も続いた。
「今年の春休み一緒に入ったとこ良かったよな。きつくなくて」
「あーあのドラッグストア?良かったよね、時給も良くて」
「また短期バイト募集してるといいんだけど」
そんな話をしながら教室を出る。廊下に出ると急に空気がひやっとした。少し前まで暖かかったがもう立派に冬だ。
「ねー休みじゅう働くならさ、今のうちに遊んどかない?どっか遠く行ってのんびりしたい」
白眉がどこか子供のような口調で言う。遊びたい気分らしい。
「んー遠くねぇ……あんまりお金かかんないとこがいいかな……」
そう答えた雫に白眉はうーんと考え込んだ。
「……あっ水族館は?一日居れるし良くない?夏休み行って楽しかったじゃん」
「いいけど、冬はイルカショーとかやってないぞ。僕は深海コーナー見れればいいけど」
「あっ、雫深海コーナー好きだったよね……」
「なんだよ」
「べつに……」
なんとも言えない顔でくすくすと笑う白眉を軽く睨みながら雫はスマホで水族館の情報を調べる。
「ペンギンの行進とか、鰯のトルネードとかはやってるぞ。地味だけど」
昇降口のところで靴を履き替えて外に出る。冷たい風が吹き付けてきてふたりは首をすくめた。
「いいじゃん。こう寒くっちゃすいてるだろうしさ。行こうよ行こうよ」
「じゃ決まりな」
そうして二人は、土日を利用して少し遠くの水族館に行くことになった。
*
二人の住んでいる田舎の最果てのような土地から、水族館のある主要都市に出るまで片道一時間以上はゆうにかかる。水族館はそこからさらに海に向かって電車とバスを乗り継いだ先にあった。全国でも有数の大型水族館でペンギンやイルカ、ウミガメなどを始め様々な海の生き物を間近で見られるのでファンも多い。
その水族館にまだ午後の早い時間に二人は到着していた。昼食は駅で済ませてある。
入り口で券を買って中に入るとすぐ、一面青、青、青の世界だ。天井まである青い大きな水槽が左右と、通路の先にもずっと続いていて、その中にイルカたちが悠々と泳いでいる。
「すごいねえ。きれい」
白眉が水槽に差す白い光を見上げて言う。その光を縫うようにイルカが泳いでいく。
「凄いなぁ。やっぱ和むよな、こういうの」
青い光に満たされた空間が心地よくて雫はそう返した。ほかの客はまばらで辺りは静かだ。下に敷かれた分厚い絨毯が音を吸収してしまうのかもしれない。
「あ、ここベンチあるよ。ちょっとイルカみてこ」
イルカが飛び交うように泳ぐ巨大水槽の前のベンチを見て白眉がいそいそと座りに行く。
「いきなり休憩かよ」
笑いながら雫は一緒に腰を降ろす。
「いいじゃん見てこうよ。めっちゃイルカいる」
楽しそうな白眉を眺めながら雫も水槽に視線を移した。確かに、ここは綺麗だ。しばらく二人、無言でイルカを楽しむ。
「あの、すみません」
そのとき不意に後ろから声を掛けられた。振り返ると中学生くらいの線の細い黒髪の少年が居た。
「背中になにかついてますよ」
その子が雫の背中からなにか取るような仕草をして、手元をみると茶色い落ち葉がつままれていた。
「あ、ありがとうございます」
とりあえずお礼を言ったが、あんなもの背中に付くような所を通っただろうか。内心雫が首を傾げた時、白眉が声を上げた。
「ん?雫なんか言った?」
「ああ、いや、なんでもない」
白眉に向かって首を振って、視線を背後に戻すともう少年は居なくなっていた。
しばらく二人でのんびりとイルカを眺めた後、色とりどりの魚が泳ぐ水槽や、アーチ型の水槽で出来た海の中にいるようなトンネルを抜けると、いままでまばらだった人たちが集まって少し人だかりになっているところに出た。
「あっ、雫、鰯のトルネードやるみたい。みてこ」
鰯のトルネードとは鰯の群れが餌を求めて竜巻のようにきらめくさまを、明かりを落とした部屋でライトアップして幻想的に見せるショーだ。
まもなく室内の明かりが落とされ二人は人だかりの後ろの方に並んだ。後ろはひな壇のように高くなっていて見やすく設計されている。
ショーが始まると白眉は子供のように夢中になってショーを見始めた。雫はショーの様子を後で白眉に見せられるよう動画に収めておこうとしてポケットからスマホを取り出した。
動画を撮りながらショーが終わって、散り始めた人々と一緒に立ち去ろうとした時にまた後ろから声がかけられた。
「これ、落ちましたよ」
振り返るとさっきの少年だった。手には鍵がにぎられており、見覚えのある猫のキーホルダーがついている。確かに雫のものだ。さっきポケットからスマホを出した時に一緒に落ちたのだろう。
「あ、ありがとう。助かりました」
またとりあえずお礼を言って鍵を受け取る。少年は微かに笑った。二度目ということもあってなんとなくまじまじと顔を見てしまう。細面の綺麗な顔だった。白眉に負けないほど色白だが、白眉と違ってどこか不健康な白さだった。
「じゃあ」
少年はうっそりと笑うと踵を返して去っていった。側には誰もいないようだったが、一人だろうか?
「雫?何してんの?」
雫が立ち止まっているのに気付かずに先に行きかけた白眉が戻って来た。
「いや、なんでもない。行こう。ペンギンの行進始まる」
「うん。いこいこ」
二人は再び肩を寄せ合うと次のイベント会場へと向かった。
ペンギンの行進とは係員の警護の元、ペンギンたちが屋外のコースを歩くだけという地味なものだが、普段水槽越しにしか見られないペンギンを間近で見ることが出来る。
生のペンギンをひとしきり楽しんだあと、白眉の好きな南海のコーナーに行った。白眉はここでウミガメを見るのが好きなのだ。雫も白眉と一緒にひとしきり南の海の生き物を見て回った後、一人で深海コーナーへと向かった。白眉はもう少しウミガメが見たいというので、あとで深海コーナーで待ち合わせる約束をして別れた。
深海コーナーは明かりが落とされて静かだ。大型水族館だけあってマイナーなコーナーにも関わらず専用の空間が広く取られていて、分厚い絨毯が敷かれた薄暗い通路にリラクゼーション系の音がゆったりと流れている。その左右にほの明るい水槽が並び、その中に珍しい形をした深海の生き物たちがひっそりと生きている。冬という季節もあって人は殆ど居ない。
雫はこの空間が好きだった。日常の中にぽっかりとひらけた非日常な空間。それは心霊スポットと似ていた。
ここに来ると何か解放されたような気がしてほっとする。普段意識しない日常というものにいかに自分が縛られていたかを思い知らされる。
しばらく音のしない絨毯を踏んで薄暗がりの中を歩いた。心が落ち着いて行く。時折思い出したように水槽を覗いて、見たこともないへんてこな形をしている生き物を眺める。光のない、人間ではとても耐えられない水圧の中で本来は生きている生命だ。それと水槽のアクリル板ひとつ隔てて向き合っているのが不思議な感じがする。
幽霊みたいなものだろうか。
雫はふと思う。本来なら出会えない者同士が出会ってしまう空間。やはり心霊スポットと似ている気がする。
雫はふと水槽に映り込んだ自分の顔に違和感を感じた。違和感の正体を見極めようとして瞬きをした瞬間、違和感は消えて元の自分の顔に戻った。
「こんにちは」
ふいに横合いから声をかけられて驚いて振り向いた。線の細い小柄な影、濡れたような黒髪に不健康な白い肌、整った顔立ち。さっきの少年だった。
「また会いましたね」
少年はなにかいたずらがばれた子供のような笑顔を見せた。ひょっとしたらずっと自分を見ていたのかもしれない。雫は訳もなくそんなことを考えた。
「ここ、落ち着きますよね」
そういうと少年は雫の隣に並んで水槽を眺めた。雫はどことなく違和感を感じて少年を見たが細身の黒いコートに黒いジーンズを履いたどこにでもいる少年だ。しかし、そうですね、と適当に相づちをうってその場を立ち去るという当たり前の事が、なぜか雫には出来なかった。
吸い込まれるように少年の覗く水槽に顔を寄せる。暗い水槽に二人の顔が並んで映り込む。不思議と似ている、と雫は思った。少年の顔はややつり目で、自分は垂れ目だがそれ以外の造形は良く似ているように感じた。
「似てるでしょう」
少年の声がする。なんだか雫は頭の芯がぶれるような妙な感覚に襲われ始めた。
「お兄さんに似せて作ったんだけど、お兄さんの方が可愛いですね。生きてるからかな」
何を、言っているのだろう。
「ああ、祟ろうとか思ってないので大丈夫です。ただ、お兄さんの影があんまり暗いから気になって」
何を言ってるんだ、と言いたくても声にならない。ただ雫は少年と水槽を覗き込んでいる。
「死後の世界はありますよ」
水槽の中の雫の顔が目を見開いた。
「なんだったら死んでからも霊は成長するんです。僕が死んだのは、もっと小さな頃だったんですよ」
水槽越しの少年の顔は楽しげに笑っている。
「だからお兄さんは、もっと死ぬ事に希望を持っていい。だけどいまは」
少年はかがめていた身体を伸ばした。水槽から顔が消えて、頭の上から声がする。
「もっと生きる事について考えないと」
すっと雫の顔の横で白い手が上がって一方を指さした。その方向から、聞き慣れた声が聞こえた。
「雫~、遅くなってごめん」
白眉がひそひそと雫を呼びながら小走りにこちらにやってくるのが見えた。その瞬間全ての呪縛が解けた。
急に身体の自由が利くようになって雫は身体を伸ばして息をついた。辺りを見回してみたが少年の姿はもうなくなっていた。
「あれ?いまの男の子は?」
側まで来た白眉も不思議そうに辺りを見回している。
「お前、今の見えた?」
「うん?見えたけど?雫にそっくりだったけど知り合い?」
雫は考えた。どうも白眉には害のある霊は見えずに、害のない霊は見えるようなところがある。ということは、今の少年は無害な霊だったのだろうか。
「おーいしずく。しずく?」
考え込んでしまった雫の前で白眉がひらひらと手を振ってみせる。
「あ、ああ、悪い、なんでもない」
はっと我に返って曖昧に誤魔化した雫に白眉は笑ってみせた。
「クラゲコーナー行かない?俺くらげ見たい」
その屈託のない笑顔に雫は心に体温が戻るような気持ちになりながら頷いた。
「そうだな。クラゲ見にいこうか」
深海コーナーとクラゲコーナーは通路を挟んで隣接しており、向かう間に白眉は南海コーナーの賑やかな様子を手振り身振りで話してくれた。目を糸にして笑うその様があまりに明るいので暗い通路にぽっと明かりが灯るような気がする。
だから暗い部屋でダークブルーにライトアップされたクラゲの水槽を前にふと話が途切れた時雫は考えた。いつもなら、白眉が隣に居なければ、怖くて考えられないようなこと。
もし幽霊に自我があるなら。
幽霊も物を思うのならば。
生前の兄は酷く自分を嫌っていた。憎んでいた。
死んでからも生者の意思が生き続けるのならば、きっと兄は自分を恨んでいる。今も、自分の影に隠れてそっと復讐の機会をうかがっている。
しかし、復讐とは、一体何の。
「雫だいじょうぶ?つかれた?」
ふいに白眉に顔を覗き込まれてとっさに返事に窮した。
「なんかね、さっき調べたけどフードコートあるってここ。なんか甘いものでも食べてこうよ」
昼飯早かったからはらへった、と脳天気に白眉は呟いている。
もっと生きる事について考えないと。
少年の最後の言葉がふと蘇った。
「そうだな。なんか食べて行こう。せっかくだし」
作り笑顔は薄暗がりでごまかせたようだ。白眉はいつものように雫の背を押して隣を歩き出しながら言う。
「イルカのラテとかあるって。しょっぱいのがよければフライドポテトもあったから」
「イルカのラテってどんなのが来るんだろうな」
「たぶんこれ……イルカ?イル……カ?みたいなのだよ。バイトの人が頑張って作ってるんだよ」
「まぁ気持ちが大事だよな」
「そうそう、ここで食べる事に意義がある」
喋りながら明るいフロアに出る。フードコートへの階段を上がって、そこで思い思いに食事を楽しんでいる人々を見てようやく雫はほっとした気持ちになった。
まだ、自分は生きている。ついて来る影がどんなに暗くても、生きているのだ。
「イルカラテ二つと、ポテトと、いちごのフローズンパフェください」
白眉がカウンターで明るい声で注文している。幸い注文はすいていてすぐに注文した品が運ばれて来た。トレイを持って手近なテーブルに座って、イルカのラテの出来のひどさに二人で笑った。
雫は思った。
僕は生きている。まだ生きている。生きていていいんだ。こうやって二人で笑える限りは。生きている喜びを噛みしめられる間は。
口に入れたポテトは、塩がきき過ぎて少ししょっぱかった。
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