第4.5話男子高生バディとトンネルの怪談・後日談

 雫は参っていた。

 スマホの写真が消えない。何度消しても、クラウドから抹消しても、ふと気が付くと復活している。石膏像のように白く整った女の顔が薄く微笑んでこちらを見ている。


 トンネルの中で撮った蜘蛛女の顔だ。人によっては豊かな黒髪の可憐な女性のポートレートだと思うかも知れない。ただ雫はその黒髪が蜘蛛の脚だと知っているし、その微笑の本性が悪意に満ちているのだと知っている。

 何より邪悪なのはその瞳だ。その瞳は長く濃い睫に縁取られて一切の光を反射していない。

 吸い込まれるような黒だ。

 雫はその写真を見てしまう度にその黒い瞳に吸い寄せられるように見入っている自分に気付く。

 そしてそのたびに頭の奥がなんだかチカチカするような感覚に襲われ、どうにか瞳から視線を逸らした頃には酷い寒気に襲われる始末だった。


 写真の事はなんとなく白眉には言い損ねていた。これが原因で白眉にまで累が及んだら困るし、なにより白眉にこの写真を見せる事に抵抗があった。何故だか分からないが、白眉には触れさせてはいけないもののような気がしていた。


 夜、また蜘蛛女の写真を見ていた。

 この女は恐らく一個の人間の幽霊ではない。と雫は思う。

 沢山の人間の悪いところをただ無作為に捏ねて纏めて無理矢理に人の顔にしたようなものだ。それがなぜあんなトンネルの中にあったのかはわからない。ただこの世には自分が思うより沢山のそうした「スポット」があるのかもしれない。

 そんなことを考えていると急に酷い寒気と頭痛に襲われて、何とか敷いた布団に倒れ込むように眠った。


 そして目が覚めたら立派な病人だった。熱が高く、布団から起きられない。なんだか心霊ものとしてお約束過ぎて笑えてくるが笑っている場合ではない。

 何しろ寒気が酷い。頭がくらくらしてトイレに行くのも難儀する。体中の関節が痛くて横になっていられないがふらふらで起きてもいられない。


 平日だったので両親は仕事を休めず、病気の雫を一人にすることを何度も詫びながら朝一で医者に行くようにとタクシー代を置いていってくれたが、医者になんとか出来るとも思えないのでただ寝ていた。

 関節の痛みだけ耐えがたかったので買い置きの解熱鎮痛剤を飲む。そうすると痛みは少し和らいだ。

 へーロキソニンって霊障に効くんだ……などと馬鹿なことを考えながらうとうとしている内に夕方になった。

 布団に入ったまま窓の外の日暮れていく空を見ていると、僕このまま死ぬのかな……などという感傷が沸いてくる。いけないいけない、こういうのは気持ちが大事だ。自分に言い聞かせて布団の上になんとか起き上がる。

 朝からなにも食べていない。買い置きのカロリーメイトでも囓ろう。


 お祓いに行こうという考えは頭からなかった。雫は基本的にそういうものを信用していない。本当に祓える人もいるのはいるのかも知れないが、砂漠でコンタクトレンズを探すようなものだと思っている。つまり本物に辿り付く前に死ぬか破産する。


 部屋の襖を開けた所でアパートの階段を上がってくる聞き慣れた足音に気付いた。雫の住むアパートは古く、部屋を出るとすぐに玄関の扉が見える。そこに軽快な足音が近づいてくる。そのドアの向こうに見慣れた姿が現れる事を半ば期待し、なかば不安に思いながら雫は玄関の扉を見つめて、待った。

 ピンポーン。

 場違いに軽快なチャイムが鳴って扉の向こうから聞き慣れた声が聞こえた。

「しずくー?いる?だいじょうぶ?白眉だよー」

 心配げな、それでいてどこかのんびりとしたドア越しにその声が聞こえた。それだけで雫はなんだかふっと目の前が明るくなったような気がした。ぺたぺたと裸足の足で扉まで歩くと、鍵とチェーンを外して扉を開ける。すぐに見慣れた明るい顔がぱっと覗いた。

「今日欠席だったけど風邪?まだしんどい?お土産持って来たけど入ってよさそ?」

 表情は心配げだが雰囲気はいつも通り明るい。学校の帰りに寄ったのか制服の上にコートを羽織ったままだ。扉を開けて中に迎え入れると薄暗い玄関までほのかに空気が華やいだような気がした。

「やーいきなり風邪だっていうからびっくりしたよー寝てなくて大丈夫?まだ熱ある?」

「まだ熱あるけどお前の顔見たらちょっと元気でたよ……」

「え?なに?」

「なんでもない」

 ふたりは布団を敷きっぱなしの雫の四畳半の部屋に入った。雫は布団に足だけ入れて座り、白眉はその側の畳に座って鞄を下ろしコートを脱いだ。お土産のビニール袋をがさがさと置く。

「で、なにがあったわけ?」

 出し抜けに聞かれて雫は首を傾げた。

「なに、って?」

「こないだのでしょ」

「こないだのって?」

 話が見えない。

「蜘蛛女、撮れてたんでしょ」

 雫は無言でため息をついた。ばれてたのか。白眉はそんな雫を上目遣いに睨みながら続ける。

「あのことがあって、これでしょ。俺でも気付くって。で?写真どうしたの」

「……消えない」

「え?」

「消えないんだよ。消しても消しても。また出てくる。ずっと」

 白眉は首を傾げた。

「クラウドに残ってんじゃないの?」

「クラウドのデータも全部消したけどそれだけ復活する」

 それ、とは蜘蛛女の写真の事だ。

「えー……ちょっとそれ見せてよ」

「……見ない方がいいぞ」

 白眉にそれを見せたくなかった。もし呪いのビデオのように白眉のスマホに写真が伝染したら。

「いいから、みせてよ。俺が消してみるよ」

 雫は悩んだ。そんなことをしたら余計白眉が危ないような気がする。

「だいたいトンネルには俺が誘ったんだから。このままじゃ俺も気が気じゃないよ。見せて?」

 ずい、と手を差し出されて。根負けした雫は白眉の手に枕元にあったスマホを預けた。カメラロールにはもう画像が一枚しか残っていない。白眉はスマホを操作するとその画像を見たらしい。ちょっと眉根を寄せた。

「これが蜘蛛女?かわいいじゃん。消していいの?」

「消して欲しいんだよ」

 大真面目に雫は言った。これが可愛く見えるとはどういう神経なのか。

「消すよ?じゃあ消すよ?」

「頼む」

 そういった雫のげっそりとした顔を白眉は気の毒そうに見てから、軽い動作で画像を消した。

「消したよ」

「ホーム戻って、もういっかい見てみな」

 白眉は言われた通りにして、もう一度雫の顔を見た。

「ないよ?」

「まじで?」

 白眉の手からスマホを受け取ってカメラロールを見てみる。画像は、どこにも無かった。

 その後、ネットを見たり再起動してみたり色々してみたが蜘蛛女の画像は復活しなかった。そんな雫の姿を白眉は心配そうに見ている。

「……消えてる」

 雫は呟いた。しかしこれはあれではないのか、油断させておいて深夜一人になった時にいきなり復活したりするのではないだろうか。

 どうにも信じられないでいる雫に白眉が声をかけた。

「それよりもさ、雫、ご飯食べた?お水飲んでる?げっそりしてるよなんか」

 言われて朝から何も食べていなかったのを思い出した。

「そういやそろそろなんか食べないとな……朝からなんも食べてない」

 そう言った雫に白眉は気遣わしげな顔をした。

「そう言うと思ってさ、これ包んで貰ってきた。いつもの中華屋で」

 側にあった白いビニール袋の口を開けてみせる。中にはプラスチックパックに入ったからあげとチャーハンが見える。通りでさっきから良い匂いがすると思った。

「お前……それ病人に持ってくるラインナップ?」

 いやありがたいけど……と雫が言うと白眉は不思議そうな顔をした。

「ん?違った?うち風邪引いたときはカツ丼食えば治るって言われるんだけど」

 真剣な顔を見る限り本当のようだ。幸い今の雫も熱はあっても胃腸は元気だ。好物の匂いをかいだせいか、朝から忘れていた食欲が顔を出す。

「じゃあ、居間で食べていい?お前のぶんは?」

 雫は言って立ち上がった。なんだかさっきより身体が軽い気がした。

「うん。俺の分も買ってきた。じゃたべよたべよ」

 連れだって隣の居間に移動した。居間というかキッチンに隣接した六畳ほどの空間に家族が囲める程のちゃぶ台とテレビが置いてある。そのちゃぶ台の上に白眉が買って来てくれた食事を広げた。

「これ、後で僕の分払うから」

 雫はどうしてもそういう事が気になってしまう。

「あ、今度食べに行った時に一緒に払ってくれれば良いよ」

 白眉はそんなことより早く食べたそうだ。雫は苦笑して白眉の斜め横に座った。

「じゃいただきまーす」

「頂きます」

 手を合わせて食べ始める。

「うま、まだ結構あったかいね」

「うん、あったかい。美味いな。やっぱり」

「風邪ひいても味は分かる感じ?よかったー」

 白眉がチャーハンを食べながら嬉しそうに笑う。雫は自分が思ったより空腹だったのに気付いてなんだか夢中で食べてしまった。弱った身体にカロリーがしみる。

「雫お腹空いてたんだね」

 あっという間に食べ終わった雫に驚いたように白眉が言う。

「朝から食べてなかったからな。でもありがとう。元気出た」

 お茶を飲みながら少し気恥ずかしく雫は笑った。

 胃が温かくなると身体も温まったようで寒気はどこかに消えていた。身体に力も戻ったようで熱っぽさもない。さっきとは別人のように元気だ。

「やっぱり風邪には揚げ物なんだよ。カロリーは正義」

 白眉がからあげの残りを口に入れながら得意げに言う。

「だな。カロリーは正義」

 笑いながら空になったパックを片付けてすぐそこの台所に向かおうとして少し足元がふらついた。気持ちは元気でも身体はまだ少しかかるらしい。

「あ、俺がやるから雫は座ってて。ていうか寝てなきゃ駄目だよまだ」

 目を三角にした白眉に追い立てられて自分の部屋の布団に入る。

「悪いな洗い物まで」

「いいからのんびりしててしてて」

 布団に入ると食事で暖まった身体がじんわりと心地良い。思えば久しぶりに身体の力を抜いてごろりと寝返りをうつと台所の方から白眉が洗い物をしている水音がしている。何とはなしにまだ母が家に居た幼い頃を思い出した。

 すこしうとうととしていたようだった。夢うつつに白眉の声が俺もう帰るけど明かり消してく?と聞いた。

「暇なら居ろよ……もうちょっと」

 寝ぼけ眼でそう言ったのを覚えている。それきり雫の意識は眠りに沈んだ。


 *


 ……まぁー白眉ちゃん悪いわねーこんな時間まで……

 ……いえ大丈夫ですぜんぜん。雫だいぶ元気そうだったんでもう大丈夫だと……


 ふいに玄関の方から聞こえた話し声で雫は深い眠りから覚めた。起き上がった部屋の中は電灯が点いていて明るかった。窓にはカーテンが掛けられているが外は多分真っ暗だ。

 時計を見ると九時を過ぎていた。白眉が来たのは五時頃だった筈だ。今まで一緒に居てくれたのか。

 布団の上に飛び起きて玄関に向かったが白眉はもう外に出た後だった。振り返った母親が白眉ちゃん今帰ったよ、しずく元気そうじゃない。と言って笑った。


 確かに元気だった。今朝のあの具合の悪さはなんだったのかと思う程に。

 そして雫はそもそもの具合が悪くなった原因を思い出して部屋にもどってスマホを見た。カメラロールからあの女の写真は消えていた。それは雫が風呂に入って眠る頃になっても復活しなかった。


 蜘蛛女の写真はもうない。体調もすこぶる良い。

 雫はスマホを机の上に置くと電灯の紐を引っ張って電気を消して布団に入って目を閉じた。


 もう暗闇は怖くなかった。

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