第3話男子高生バディと裏の池の怪談
冬の空は高い。
雨宮雫は古い市営アパートの階段を降りて表に出ながらその空を見上げた。
どこまでも青い。雲一つない。十一月だというのに風は身を切る冷たさはなく雫の格好も制服の上に白いパーカーを羽織ったきりだ。
「あったかすぎだよなぁ」
ぽつりと呟いて歩きだそうとした時後ろの住宅街の方から走ってくる軽快な足音がした。
「しずくーおはよう」
雫に追いついて一緒に歩き出した白眉は今日も切れ長の目を糸にしてにこにこと笑っている。
「おはよ、白眉」
微かに笑みを返しながら雫は答える。笑うのは苦手な雫だが白眉の屈託の無い笑顔を見ていると何となく笑顔になってしまう。
「あ、昨日ごめんね、一緒に帰れなくて」
走って来たせいかずれたらしい鞄のベルトを直しながら白眉が言う。二人は家が同じ方向なのもあって大概一緒に帰るのだが昨日は白眉がクラスの男子クループに捕まってしまい、一緒に帰れなかった。というか。
「いいよ。僕が勝手に置いて帰ったんだし」
雫は白眉ほどクラス内での人付き合いが上手くない。
「まぁ、そのせいもあって、良い噂仕入れたよ」
白眉が得意げな顔でふふんと笑ってみせる。噂、というのは二人の大好物な心霊系の噂の事だ。
「裏の池の女の事?」
雫が言うと白眉はがっかりしたように空を仰いだ。
「なんだー知ってるのかよぅ」
雫は笑って首を振った。
「いや、クラスの奴らが話してるの盗み聞きしただけ、くわしい話知ってるのか?」
白眉はにわかにまた得意げな顔になった。
「いや、昨日の奴らが言ってたんだけどね……」
曰く、
学校の裏手にある池の畔に女の幽霊が出る。
女は子供を連れている。
女と子供の幽霊は深夜に現れる。
女は子供と池で心中したらしい。
うーんと雫は唸った。話だけ聞くと良くある話だ。ただ、この話は雫の知る限りでは突然学校内に流行りだして、にわかに蔓延しているのが気になっていた。
まるで実際に目撃した者がいるかのようだ。それも最近の内に。
白眉はわくわくとして雫の言葉を待っている。
「……行って、みるかぁ。多分それらしきものを見た人はいたんだろうし」
雫は言った。幽霊がいるか、もしくは意図的に噂を流した輩がいるか。行ってみて、何もなければそれでいい。何もないという結果自体が成果だ。
「やった~いこいこ、深夜の裏の池」
ガッツポーズをしている白眉に思わず苦笑する。
「お前そんなに嬉しいのかよ」
「だって楽しいじゃん、雫と心霊探索」
るんるんとしている白眉に雫は苦笑したまま首を傾げた。自分と心霊スポットに行って何が楽しいのか。
「お前こういうの行くなら女の子とかと行けよ」
白眉は女子にも結構モテる。しかし白眉は分かってないなとばかりに首を振った。
「雫と行くから楽しいんじゃん。女子とはそう言う事はしないの」
そういうものかと頷いた。雫はたまに下駄箱に突っ込まれている時代錯誤なラブレターを除けば女子との接点はあまりない。
気付けば高校の前まで来ていた。後ろを振り返ると今は穂を刈り取られている田んぼがあって、そこから吹きさらしの風が吹いている。好きな風景だが大概田舎だな、と雫は思った。
*
裏の池、とは。
文字通り学校の裏手にある池の事で、のんびり一周歩くと小一時間かかる程の大きさだ。周囲を林に囲まれているせいか昼間でも薄暗く、あまり近づく生徒はいない。お世辞にも風光明媚とは言い難い池だ。
幽霊が出るのは深夜と言うことで、二人ともカラオケに行くから遅くなると親に言って家を抜け出し、夜が更けるまでファミレスで時間を潰していた。
「しかしさ」
雫が無糖紅茶のストローを吸いながら言う。二人とも私服に着替えておりゆったりしたつくりのコートを羽織っているが、似たようなシルエットの格好をしているせいで兄弟のようにも見える。
「なに?」
白眉がホットココアを飲みながら答える。こいつほんとに甘いもの好きだな、と雫は思う。
「目撃情報は深夜なんだろ?幽霊の」
「うん」
「なんで目撃者は深夜にそんなとこに居たんだろうな?」
深夜と言わず昼間でさえもあまり人の居ない場所だ。
「なんかねぇ」
白眉は窓の外に映る夜の街に目をやりながら答える。街といっても田舎で緑が多い。
「デートしてたんだって。カップルで」
「デートぉ?」
雫は眉根を寄せた。あんなところでデートするカップルがいるのか。
「いや、中学生だったんだって。人目がないし良かったんじゃない」
白眉は笑って手をひらひらと振った。
「しかしなんで今、急になんだろうな」
雫は話を戻した。
「うん急に流行ったよね、この噂」
「まるで本当に目撃者がいるみたいな流行り方だよな」
「いてくれなきゃ困るよぉ」
白眉はココアを飲みながら緩い調子で言った。
「まぁ居なかったら誰かが故意に流した噂って事になるけどな」
「え、じゃあきょう空振り?」
白眉が口を尖らせる。
「空振りじゃないといいな」
励ますように言って壁の時計を見ると丁度十一時になるところだった。
「そろそろ行くか」
アイスティーのグラスを空にして立ち上がる。白眉もココアを飲み干すと後を追った。
*
二人が学校から池へとつながる細い舗装もされていない道に着いたのは十一時半の少し前くらいだった。空は月が出ているのかほのかに明るかったが月自体は雲に隠れたのか見えない。
ざくざくと土を踏んで池の周囲を周り始めるとすぐ木立が道の片側を覆う。街頭はぽつりぽつりと間遠にあるだけで暗い。いつも探索に使っている小型のライトで足元を照らしながら進む。木立の反対側は黒々と水を湛えている池である。深さはどれくらいあるか二人とも知らない。
「……さすがに不気味だね」
ライトを持つ白眉が少し気圧されたように言った。
「なんかあったらお前すぐに逃げて警察呼べよ」
「なんで警察?」
「変質者がいないとも限らないだろ。ここに肝試しに来る馬鹿は僕たち以外にもいると思うし」
「ばかってひどくない……?」
悲しげに言った白眉がライトを不意に上に向けた。途端、木立から派手な鳴き声を上げてカラスが飛び立つ。
「えっ、……いまカラス?」
周囲は闇である。
「……ここをねぐらにしてるのかな」
雫が木立を見渡しながら答える。雫はライトを持っていない。白眉のライトがまた二人の足下に戻った。
「……ここで自殺した女の人さぁ。子供と一緒だったんだってさ」
白眉が落とした声で話しだす。雫は黙って頷いた。
「子供も死んじゃったんだって。心中っていうのかなぁ」
その言葉が孕んだ哀しげな響きに思わず言い返した。
「無理心中だろ。子供にしたらいい迷惑だ」
「でもさぁ」
白眉が続ける。
「どっちが幸せだったんだろうね。子供にとって。お母さんと死んじゃうのと、生き残るのと」
雫は返事に詰まった。黙ってざくざくと土を踏んで歩く。どっちが幸せか。
「……幸せなって何なんだろうな」
雫は考える。母親と一緒に池に沈んでしまう子供。それは確かに不幸だろう。だが自分を置いて死んだ母親を想いながら生きる子供に幸せな未来があるのだろうか。
「そりゃもちろんお母さんの事乗り越えてさ、強く生きていけたらいいんだろうけど」
白眉が言う。
そんな事できるだろうか。
ライトを持つ白眉の背中を見ながら雫は不意に意識がぼんやりするのを覚えた。
『おかあさん』
ふと聞こえた声に雫は振り返った。小さな子供の声。
暗い池の縁に長い髪をざんばらに振り乱した女が立っている。部屋着のような薄いワンピース。足下にはスウェット姿の小さな男の子がいる。
男の子は母親を見上げて一心に声をかけている。母親は視線もやらずにただ黒い水を湛える池を見ている。その足が一歩踏み出す。
『おかあさん』
また声が聞こえる。母親には聞こえていない、足元が黒い水に浸る。そのままするすると水の中に入って行く。
「おかあさん」
とぷん、と音を立てて母親の姿が池に沈む。後にはなにも残っていない。母親は居なくなってしまった。池の畔で、僕はどこまでもひとりぼっちだった。
不意に視界が乱れた。薄暗いワンルーム、テーブルに散らかったアルコールの空き缶とインスタントラーメンのゴミ、山になった洗濯物、足の踏み場も無い部屋、閉じられたままの遮光カーテン。今の僕のたった一つの居場所。
ふっと視界が開けた。見渡す限りに暗い池の畔。目の前には黒い池があった。母親を飲み込んだ黒い水。
僕もこの中に入ってしまえば良かったんだ。
池の方に一歩踏み出す。
おかあさん、なんでつれてってくれなかったの。
足下が池の水に浸った。そんなに冷たくない。簡単だ。頭まで入ってしまえばいい。
ふと何かが身体に絡みつくのを感じた。僕を岸の方に押し戻そうとする。やめろ。やめろ。僕はこのまま行くんだ。
「雫!やめろ!雫!」
身体に絡んできたものが叫んだ。雫じゃない。もう雫じゃない。
足を進める。胸まで浸かる。絡んできたものが大声で叫んで引き戻そうとしている。
ふと、思った。
このまま頭まで浸かるとこいつも多分、沈む。
そこで初めてそいつの顔を見た。見覚えのある、白い顔。切れ長の目が、こうやって必死にしていると酷く鋭く見える。いつもは糸目にして笑っているのに。
いつも?
切れ切れの記憶が見えた。にこにこと笑うそいつの顔、大きく声をあげて笑うときの仕草、首を傾げる時の愛嬌のある顔。
白眉?
白眉、白眉だ、こいつは確か白眉で、僕の友達で、こいつは、こいつは、
沈めちゃいけない。
頭にのし掛かっている暗い意識を全力で追い払った。その意識は引きこもりの男だった。そして小さな男の子だった。多分二人は同じ人間なのだろう。
力の抜けた雫の身体を白眉は渾身の力で岸へと運んで行った。気付けば二人の体は首元まで水に浸かっていた。
岸にたどり着くころには雫は身体の自由が利くようになっていた。二人で濡れて重くなった身体をずるずると岸に引き上げて、雑草混じりの土の上に倒れ込む。おそらく雫が思うより激しくもみ合ったのだろう、ぜいぜいと息が切れていた。しばらく二人で仰向けになって息を整えた。
「……だいじょうぶ?雫」
大分息が整った所で白眉がこちらにごろりと寝返りをうちながら心配げに聞いた。濡れた手を伸ばして雫の肩を掴む。
「……大丈夫。……ごめん、白眉」
雫は申し訳なさで縮こまりながら言った。
「本当、ごめん。……僕、なんかおかしくなっちゃって」
ちらりと上げた視線が白眉の視線と合う。白眉は無事を確かめるように雫の目をのぞき込むと、やがて安心したように大きく息を吐いた。
「あーびっくりした」
急に脳天気な声を上げる。
「振り返ったらいきなり池に入ってるからさーもう取り憑かれたんだと思って」
「それ多分、当たり」
雫はまだ申し訳なさで身体を縮めたまま小さな声で返す。
「取り憑かれたんだと思う、僕。あと、その子供だけど多分まだ生きてるよ」
「え、心中の?」
白眉ががばっと起き上がる。雫も一緒に身体を起こした。
「うん。取り憑かれて分かったけど、母親は子供を置いてったんだ。子供は生きてて今大人になってるけど……幸せそうでは、なかったかな」
男の荒れ放題で荒んだ部屋を思い出すとまた暗い気持ちになりそうになる。白眉が雫の顔をのぞき込む。
「雫、幽霊見たの?」
言われて、言葉に詰まった。
「見たっていうか、なんか、頭に入って来たっていうか……ううん、難しいな」
顎に手を当てて考え始めてしまった雫に白眉が慌てたように手を振った。
「いや、思い出さなくて良いよ。っていうか忘れた方がいい。なんかろくでもなさそうだもんそれ」
白眉が子供のようにぎゅっと顔をしかめる。そこでいきなりぶるっと震えた。
「あー寒い!びっしょびしょだよ。もう帰ろ?帰ってお風呂入った方がいいよこれ」
「うん……ごめんな。服、クリーニング代、出すから」
いいっていいって、と白眉は笑って手を振った。
「クリーニングに出す程いいもん着てないから大丈夫。あーでも良いなぁ幽霊見たのかぁ」
雫は思わず笑った。
「お前この状況で良く羨ましがれるな」
二人で手を貸し合って立ち上がった。びっしょり水を吸い込んだコートが重い。帰り道を歩き出す。
「えーだっていつも雫ばっか心霊体験してない?屋上の時もそうだったでしょ?」
「あれも見たっていうのかなぁ。なんか取り憑かれたような気はするけど……」
「雫って取り憑かれやすいんじゃない?霊媒体質ってやつ?いいなぁ俺も見たいなぁ」
こんなことになっても白眉の心霊に対する興味は尽きないらしい。雫は呆れて笑った。
「それよりびしょびしょのまま家まで歩くの恥ずかしいな。あと寒い」
「俺も寒い!あと親になんて言う?このびしょびしょ」
「あー……池の周りでふざけてて落ちた?無理あるな……」
「てか今何時?親もう寝てるし黙って洗濯しちゃえば……あー!!」
コートの下の服のポケットに手を突っ込んだ白眉が急に大声を上げた。
「スマホ!水没してない?雫は?ポケット?」
言われて雫は慌ててコートのポケットを探ってスマホを取り出した。スマホはびっしょりと濡れている。操作しても反応しない。
「白眉のは?無事?」
それが気になった。壊れたら自分のせいだ。
「コートの内側に入れてたからちょっと濡れてたけどセーフっぽい。雫は?」
「だめっぽい。まぁこれくらいで済んでオッケーだと思わないとなぁ」
「まじか~幽霊もちゃんとスマホは置いてから入水して貰わないと」
「そもそも入水するなって話なんだよ。貯金あったかなぁ……」
多分スマホを買うくらいの残高はあった筈だ。そこまで考えて叱られた子犬のような顔で壊れたスマホを見ている白眉に気がついた。雫は思わず吹き出した。
「なんだその顔。僕のせいなんだから気にすんな」
「雫のせいじゃないよ幽霊のせいだよ~もうひっでぇな幽霊」
今度はぷんぷんと思っている。全く面白いやつ、と雫は思う。
「家帰って着替えたらラーメン食いに行かないか?僕ラーメン食べたい」
そう言ってぶるっと震える。身体が冷えたせいか暖かいものが食べたかった。行きつけのラーメン屋は深夜でも営業している。このまま帰って布団に入っても眠れる気もしない。
「あ、いいね。じゃあ着替えたら雫の家の前行くから」
「シャワーも浴びないとな。多分池の水ばっちいぞ」
「じゃ着替えて、シャワーして、雫んちの前ね」
気付くと雫の住むアパートの前まで来ていた。雫の家と学校は目と鼻の先だ。そこからさらにほど近い場所に白眉の住む家がある。
「じゃ、後でね、風邪ひかないでね~」
白眉が手を振って遠ざかって行く。見えなくなるまで見送って、雫はため息を吐いた。
僕のせいで酷い目にあったっていうのに、良いやつなんだよなぁ……。
大事にしないとな。
古いアパートの階段を上りながら、雫はしみじみとそう思うのだった。
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