覗かれる者と覗く者

時間マン

覗かれる者と覗く者

 時間は午前三時、多くの人たちは寝静まり歩行者の姿はなく、たまに道路を車が通り過ぎていくくらいで静かなものだ。


 このような静かな夜をあてもなく彷徨っていると、あちこちにある道を照らす街路灯が目につく。


 誰もいないにも関わらず頭上から降り注ぐ無機質な人工の光は、目に見えない何かに気づきそれを照らし、誰かにその存在を伝えようとしているようだ。


 私は気まぐれにメガネを少しずらし裸眼で街路灯に照らされた場所のひとつを確認した。


 そこには何もない。ただの黒いアスファルトが見えるだけだ。おかしな事は一つもない……と言いたい所だが、眼が合ってしまった為に私は立ち止まり、その灯りの下へと足を運び、私は眼鏡を外した。


 レンズ越しでは決して見えぬそれが、確かにこの眼に映っている。


 何もない筈の空間には揺らぐ霞んだ裂け目が浮かんでいた。その虫食い穴めいた裂け目は半透明に透けており、向こう側にある街路灯の柱がかすかに見えている。そしてそこからは人外の眼がこちらを覗いていた。


 悪意に満ちた視線をこちらに送り、眼の形を不気味に歪めてこちらを嘲笑っている。あれは私を嗤っているのではない。目に映る全てがこの眼の持ち主にとっては嘲る対象なのだ。


 私はその悪霊の如き存在を羽虫でも払うように片手で振り払う。すると裂け目は煙のように揺らめき、私の手に纏わりくように宙を舞って跡形もなく消え去った。


 何かに触れた感触はないにも関わらず、私の手は氷水に手を入れたかのように冷えていく。この不快な感覚は何度やっても慣れる事はないだろう。


 私は凍えた手を温める為にズボンのポケットに手を突っ込みながら、不快感を口から吐き出すようにため息をつく。夜を出歩くのは静けさで心を休める為であり、このような怪奇体験をする為ではない。


 あのようなものが見えるようになったのは、ほんの数年前にあの眼のような悪しき存在に精神汚染を受けたからだ。


 幸いなことにお喋りな吸血鬼に助けられたが、その後遺症として私の眼は二つの世界を視るようになってしまった。一つは私のいる世界、そしてもう一つはこの世界と違う異世界だ。


 私を助けた吸血鬼曰く、そこはこの世界とはほんのわずかにズレた位置にある世界。世界と世界が近すぎるがゆえに二つの世界が一部重なり合う事があり、あちら側の何かが重なり合った場所からこちらに干渉しようとするのだという。


 本当はあのようなものとは関わりたくないのだが、今の様なあちら側の悪意は人に伝播し、過去の私のように人の精神を狂わせる。


 人々の心に悪意が広がる事で自分の住む町の治安が悪化するのは、私の心の負担が増えて困るので、私はあれを視かけるたびにああやって消し去るようにしている。


 ふと頭上の月を見上げる。ある作家は英語による愛の告白を月が綺麗だと訳したが、私はその考えが理解できない。


 毎晩夜空に現れるあの月にある巨大な穴からこちらを見下ろす数え切れないほどの眼玉たち。その一つ一つの眼から放たれる禍々しい眼光の圧力は人に諦めを抱かせるには十分過ぎるのだから。


 もうこれ以上視たくないものを視ない為に、私は外した眼鏡を顔にかけた。


 もうあのたくさんの眼は見えない。あるのはただの満月で、町のどこを見ても先ほどのような妙なものは見えない。


 世界をレンズを通す事でいとも簡単に目に映るすべてが、なんの変哲のないものへと変貌する。


「……ふざけやがって」


 それは誤魔化しに過ぎないと分かっているが、救いがたい事に私の心は安堵している。それが余計に私を苛立たせる。


 世界をレンズで歪めて見る方がまともで、世界を正しく直視する方がまともじゃないなんて狂っている。それでは本当に狂っているのが、どちらなのか分からないじゃないか。


 ──いっその事、すべてがあの街路灯のように無機質な光であれば良いのに。

 

 我々は誰かに覗かれている。そんな真実を拒絶するように私は月を背にして、叶わぬ願いを抱きながら夜の町をまた彷徨い始める。

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