第45話 エデンの追放─②
父がキッチンに立っている。こんな姿を久しぶりに見た気がした。
「ただいま」
「おう、帰ったか」
父の背中から漂うのはアルコールの香りでもない。フィンリーから漂った違和感のある香水の香りだ。
「…………父さん」
「どうした?」
顔だけを後ろへ向けた。姿形は違うのに、どこかフィンリーに似た雰囲気を感じた。
一つ判ったのは、二人が抱えているものは墓場まで持っていくような隠し事ではない。いずれ言うつもりだが、今はまだ言えないのだ。
「カレー食べる? 土産で買ってきたんだけど」
「夕飯はカレーにしたのか?」
「インドカレー屋で食べたんだ。ダヒっていうヨーグルトみたいなデザートもあって、美味しかった」
当たり障りのない会話を繰り返し、カレーをテーブルへ置いて部屋に戻った。
ヒントとなるのは香水の香り。女性ものだ。フィンリーの香水とは違うし父はつけない。双方と密会して、彼方自身には会わせないようにしている。
どくん、と心臓が大きく揺れた。もしかして、と想像する人物が一人いる。心当たりがあった。該当する人物ならば、フィンリーが口を割れなかった理由が理解できる。そしてその人物は、おそらくハルカへも接触してくる。
ハルカは熱めのシャワーを頭から浴びて、無理やり目を閉じた。今できることは、明日に備えて眠ることだ。人間は身体が休まっていないと余計なことまで考えてしまう。
フィンリーと再会するためにフランスへ渡り、テレビカメラに顔が映し出されたことは、思っていた以上に大きく影響があった。
──三年情報処理科、英田ハルカさん。いらっしゃいましたら職員室へお越し下さい。
突然の放送に、講義室にいた生徒は全員顔を上げた。
ハルカはノートやタブレットをしまい、急いで職員室へと向かう。
「失礼します」
「英田さん、外線がかかってきていますよ」
「外線?」
携帯端末には誰からの連絡もない。
訝しみながら、ハルカは受話器を耳に当てた。
「もしもし、英田ですけど」
『────…………、』
「もしもし?」
『ハルカ…………?』
聞いたことのない女性の声だ。知らないはずなのに、頭の中にあった一つの疑惑が確信に変わっていく。
「誰だ?」
震える声を必死に抑え、相手の出方を待った。
相手の女性は電話越しに短い息を吐き続けている。緊張からか、酸素がうまく吸えていない。
『み、みく……って言えば……判るかしら……』
「みく? そういう名前の知り合いの女性はいないです。俺とどういう関係ですか?」
『あなたを……産んだ人です……』
「──どうして俺がここの大学だと知ったんですか?」
『去年の冬に画像がSNSで流れてきて……あの人に似ていたからもしかしてって調べました……』
受付の人は冷ややかな目だ。長い、とでも言いたいのだろう。
読唇術だけですみません、と伝え、
「どこかで会えませんか?」
と向こうの人に告げた。
『いいの……? 会ってくれるの……?』
「正直、学校にこういう電話は困ります」
『こうするしかなかったの……あの人も会わせようとしてくれないし』
あの人イコール父の正宗だ。シングルファーザーとしてここまで育てた立場からすれば、複雑な気持ちにもなる。想像しただけでありとあらゆる方向に心が散開し、ばらばらになる。
「今週の日曜日、新宿で会えますか?」
『大丈夫……そこで……』
か細い声で、聞き取りにくかった。駅ナカにあるカフェを指定して、電話を切った。
ふらつく足と心に茨の鞭を打ち、ハルカは職員室を出て廊下にへたり込んだ。
人間、窮地に立たされても意外になんとかなるものだと知った。
予想はしていたが、やはり産んだ人だった。フランスのテレビに映ったことは、思わぬ方向へ余波が続いていた。
「おーい、どうした?」
突き抜けた明るさが上から振ってくる。辺見暖だ。
「なかなか戻ってこないから心配した。どうしたよ、廊下に座って」
「ちょっと、いろいろ、あって」
荷物を受け取り、ハルカはのろのろと立ち上がる。
「体調でも悪いのか? さっきの電話ってなんだよ」
「他人のような知り合いのような……複雑な人からだった」
「元カノ? 生き別れの兄弟?」
「ある意味近いようなそうではないような。まあ問題ないって。荷物ありがとな」
父に相談すべき話でもあるし、隠し通そうとした節があるため話すべきではないと両方の気持ちがせめぎ合っている。戦いの結果、後者が勝った。
まずは会ってから父に話をつけるべきだ。彼女は父を通さずに大学へ連絡を入れてきたからだ。それに、父は彼女に良い想いを抱いていない。母の浮気により、どちらか本当の父か判らなかったと聞かされたときの絶望を考えると、言えるわけがない。
ふと、疑問がよぎる。父の話によると、母は幼なじみと浮気をしていたというが、果たしてどこまで本当なのか。父を信じていないわけではない。双方から話を聞かないと、埋もれた話だってあるはずだ。
新宿駅にあるカフェで待ち合わせと伝えたが、ここを選んだわけは、人通りが多いこと、外からでも中の様子が伺えるからだ。
女性で一人の客人を探しても、彼女らしき人はいない。女性客は多いものの、複数で来ている人たちばかりだった。
腰の辺りに違和感を感じた。尖ったものを押し当てられていて、皮膚が氷のように冷たくなる。なのに背中は発汗し、額から汗が流れた。
「すみません、こんなことをするつもりじゃなかったんです」
「いや、遅いでしょう。ナイフを人に当てておいて、許しますなんて言えません。警察を呼びます」
「事情があるんです。一緒に来てくれませんか?」
「とりあえず、ナイフをしまって下さい」
「あなたは柔道をやっていて、僕みたいな人間は簡単に投げ飛ばされてしまう。これしかあなたを誘導できる方法はないんです。正直、ナイフがあったところで僕なんてすぐ倒せるとか思ってるでしょう?」
「まあ……そうですね」
ハルカは正直に答えた。
「早く、見つかってしまいます」
「どこへ行く気ですか?」
「車に乗って下さい。お願いします」
言葉をキャッチボールしているはずが、かすって飛んでいく。
「すべてか終わったら、僕を警察に突き出して下さい」
脅すというより、懇願するような声色に、ハルカは肩を落とした。
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