第44話 エデンの追放─①
大学二年の冬は怒涛の日々だった。フランスとイギリスから帰ってきて、すぐに元通りというわけにはいかなかった。
まずはジェットラグ。数日はまとまった睡眠がとれずに苦しんだが、朝日を浴びて散歩をし、眠りが深くなるというサプリメントを飲んで徐々に普段の生活に戻っていった。
桜が咲く頃には大学三年になり、買ったばかりの服に袖を通した。
「どこかに出かけるのか?」
玄関で父とはち合わせになり、ハルカは頷いた。
「フィンリーさんと出かけてくる!」
「遅くなるなよ」
アルバイトとは無関係に、今日はフィンリーと食事をする日だ。
寿司が食べたいという彼の要望に答えて、必死に探した。食にこだわりがある彼の舌に合うものを見つけるには、けっこう難儀だ。なのに、彼が食べたいといったものは回転寿司。都会なら歩けばどこにでもあるので拍子抜けした。
高校生が入っていく姿を見て、自分も行きたくなったのだとメールが来た。
池袋にあるペシュールの前で待ち合わせをしている。フィンリーはまだ来ていない。ベンチに座っているとメールを送った。
立て続けにメールが来た。友人である辺見暖と、アルバイトのお知らせのメールだ。
メールを開いて、ハルカは固まった。墓参りのアルバイトだ。参加できるかどうかのメールで、今までよく行っていた寺のところにある墓地である。
通行人が立ち止まって二度見している。ハルカも視線の先を見やると、フィンリーが立っていた。
「少々遅くなりました」
「時間通りですよ、大丈夫」
「どうかなさいましたか? 真剣なお顔でじっとスマホを見ていましたので声をかけていいものかどうか悩みました」
「ああ、えーと……、墓参りの仕事があるってメールが来たんです。実はすっかり忘れていて、そういえば二つ掛け持ちしていたんだったって、メールを見て思い出しました」
「最近、あまり行っているご様子はなかったので辞めたのかと思いました。アルバイトを増やしたいのなら、日数を増やしますか?」
「……辞められるものなら辞めたいって、ちょっと考えてしまいました」
フィンリーは横に腰掛けた。
「ハルカ、あなたも呪いに縛られているのですね」
「呪い、かあ。キスで呪いは解けますかね」
「王子様のキスなら解けるかもしれません。この場合、あなたが王子様ですので、私からのキスで解けるかどうか」
「へ? え? ん?」
フィンリーのつけている香水の香りがよりいっそう強くなった。
道行く外国人が口笛を吹き、コングラツと笑いながら言う。
耳に近い頬に生暖かいものが触れ、そこにずっと感触が残っている。
フィンリーと目が合う。いまだかつてこれほど顔の距離が近いのは、記憶にない。天使の微笑みとは、目の前の男のことを言うのだろう。
「詳しい事情はよく判りませんが、ハルカは自分に呪いをかけているように思います。今まで解決方法すら見つけようとしなかった。ですが今、なんとかしたいと思い始めている。大変な一歩です。トレビアン」
発音の良い「トレビアン」に、フランスの血が騒ぎ出す。体温が上昇し、細胞の一つ一つが彼を求めている。
「何か一つでも突破口を見つけ出せれば、そこから穴を広げて先へ進めるかと思います」
「そうであってほしいです」
「フランスまで追いかけてきたあなたにしては、随分と後ろ向きなものですね。大丈夫です。何かあったら、私の元へ来なさい。美味しいお茶とお菓子をごちそうします」
「それ、本当は自分が食べたいだけじゃ」
「お黙り。さあ、そろそろ回転寿司へ行きますよ。初めてなものですから、とても心が躍っています」
桜が散り始めた頃、大学三年生へ進級した。いくつかIT関係の資格を取り、将来へ繋がる道が作られていく。
心に穴が空くとは今まさに感じている感情で、本当にこれでいいのか、と自問自答を繰り返していた。穴の隙間を覗けば土砂降りの雨が降り続いていて、止むことはないし光も差さない。
悩んでいることがあるなら相談に乗ると言う父には言えない事情がある。将来を思うたび、フィンリーの顔がちらつくのだ。
父は男同士の付き合いに対して前ほど言ってはこないが、コンコルド広場でフィンリーの手を引いて逃げたときの映像がSNSで出回ってしまい、これもまた父の心配の種になってしまったのだ。大学でしばらくの間、有名人やスーパースターとあだ名がつけられた。
だがフィンリーの顔は映っておらず、ハルカからすれば万々歳である。
大学を出て池袋へ向かい、いつものペシュールへ入ろうとしたときだ。
──時間を潰して下さい。お給料は出しますのでご心配なく。
時間を潰してほしいとは何事だ。彼がピンチであれば駆けつけたいが、そういう理由でもなさそうだ。
──近くの喫茶店にいますので、呼ばれたらすぐに行きます。
そうメールを送り、アイスティーを注文してちまちまと口につけた。
およそ一時間ほどしてからようやく連絡が来て、ハルカは店を出る。
店にはなんら変わらないフィンリーの姿だが、どこかぎこちなくも見えた。
「お待たせしてすみません」
「大丈夫ですよ。着替えてきますね」
フィンリーのつけている香水ではない、別の香りがした。今フロアにいる客人のものでもなかった。ということは、フィンリーは誰かと会っていたということになる。言えない誰かだろうか。
レジで支払いを済ませた男性がちょうど帰るところだった。
「今日は裏で埃を被ったアンティークの汚れ落としをお願いします」
「かしこまりました」
仕事を終えて着替えを済ませると、
「では、またよろしくお願いいたします。お疲れさまでした」
「こちらこそお願いします。お疲れさまでした」
いつもの挨拶に一礼をして、店を出た。
予約の顧客で手いっぱいだった日だった。アンティークの掃除を頼まれたが、店にも客が押し寄せ、ハルカはほとんどをフロアで過ごした。
「フィンリーさん」
「はい、なんでしょうか」
やはりどこかぎこちない。
「何か悩んでることがあるなら、相談に乗ります」
そこで、フィンリーはようやく肩が下がった。ついでに目尻も下がる。
「ありがとうございます。ご心配をおかけしていますね。いずれ判ることかと思います。私には私の事情というものがあり、少々身動きが取れない状況でした。よろしければ、一緒に食事でもいかがですか?」
ちょうどそのとき、父からメールが一通来た。内容は「外で食べてきてくれ」だ。
「ぜひ。何か食べたいものはあります?」
「カレーがいいです」
ハルカの好物だ。気を使っているのは見え見えである。
「じゃあ、カレーも甘いものも食べられるお店に行きましょう」
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