第8話 初めての先輩
胸が高鳴る。
鼓動が加速する。
その現象はもっぱら運動や発表会などで起こっていた。
それが一体どうしたことか。いま、目の前に立つ一人の女性の存在が私の心臓を激しく揺するのだ。
アイドルオタクの友達が、推しと対面して癒しを得ると言っていた。当時の私はその感覚があまりよく分からないでいた。
だが、いまなら頷ける。
たしかに、憧れは人をここまでドキドキさせるのだ。
「ねえ」
不意に声をかけられ、びくりと肩を揺らしてしまう。
「はっ、はひっ」
つい、声が裏返ってしまった。
変に思われていないだろうか。私は目の前に立つその整った顔をちらり、ちらりと見る。
切長な瞳が凛とした雰囲気を醸し出している。
「あなた、人間よね?」
こくこくと頷く。羽が生えているのに、どこで気付いたのだろうか。
「やっぱりね。戦い方が初心者に見えたから。でも、天使力は高いしセンスは感じられたわ」
「あ、ありがとうございます」
私は急に褒められて心が弾んだ。
戦闘中、かけられた声は彼女のものだった。
私の戦いを見ていたのだろう。あのアドバイスがあったからこそ、私は霊魂を倒せたのだ。
「あの、ありがとうございました」
「別に、大したことはしていないわ」
そう言って微笑む姿からは、大人の魅力が感じ取れた。
「お、お名前を聞いてもいいですか?」
「ああ、まだ名乗ってなかったわね。坂月文よ。あなたは?」
坂月文。素敵なお名前である。
「私は天見翼です」
「そう。そしたら翼ちゃんって呼ぶわね。私のことも苗字だと堅苦しいから名前でいいわよ」
突然の翼ちゃん呼び。その言葉が私の心をふわふわにする。あわや昇天しそうであった。天使だけに。
私は荒ぶる心を大きく深呼吸して抑える。
「わ、分かりました。文さん」
初めて、天使の先輩ができてしまった。
それはこれまでのコミュニティでは確実にできなかった縁であり、私は非常に嬉しかった。同級生はどこまでいっても同級生であり、大人びていても年上の女の人とは違うものである。
「翼ちゃんは、いま中学生?」
「はいっ、中学二年生です」
友達からは、ふわふわしていて中学生に見えないといわれたこともあった。だからこそ、中学生と聞かれたことに密かに喜びを感じていた。
「やっぱり。私は高校二年生だから、ちょうど三つ差があるわね」
高校生。大人の響きである。
その一年一年で大きな違いがある。身長などの体格もそうだが、心の成長にも大きな変化を催す時期だ。
ただ、文さんは、正直なところを言えば、大学生にも見える出で立ちをしていた。それは、別に老けているということではなく、その風貌や洗練された所作が大人っぽさを醸し出していた。
「翼さん。親交を温めるのもいいですけど、いまは訓練なんですからね」
そんな私と文さんの間を、子どもっぽく拗ねた声をした天使が割り込んできたのであった。
「アンジェリカさん、そろそろ機嫌を直してくださいよ」
私の声かけにつんと唇を尖らせそっぽを向く天使。
幼い反応を見せられ、思わず苦笑する。
「ごめんなさいね。私が割り込んじゃったせいで、今日のあなたの訓練スケジュールを台無しにしてしまって」
「本当にそうですよ。綿密に組んでいたのに……」
綿密。そこまで、アンジェリカが私のことを考えてくれていたのか。
どのあたりがだろうと不思議に思う気持ちも少しあるが、それでも、そう考えてくれていただけで嬉しさが溢れてくる。
「ありがとう、アンジェリカさん」
アンジェリカはといえば、そんな私の言葉に視線を泳がせる。
その頬はほんのりと赤く染まっている。どうやら照れているようだ。
「ミナエラの言ったとおり、ちょろいわね」
そんな様子を見て、文はふっと笑った。
それで、アンジェリカの機嫌は再び下降気流に乗って地に落ちてしまった。
「くー、ミナエラ。なぜよりによってこの女に私のことを。ていうか、初対面なのに失礼すぎませんかね」
「ごめんなさいね」
さらっと謝罪を入れる文さん。
しかし、言葉尻からは全く謝っているような感じはしなかった。
「くーっ、むかつく小娘ですね」
アンジェリカもその反応の適当さを察してか、よりいらいらしていた。その怒りは羽にまで伝わり、バサバサと羽ばたいていた。
「あの、ところで今日はまだ訓練を続けますか?」
時間にしていえば、まだ一時間ほどしか経っていない。ここから天界に向かってもいいが、そうすると労働時間を全うできないような気がした。
「そうですね。もう一戦交えましょうか。ちょうど、この先の河川敷に霊魂がわらわらしているという話は聞いていますし」
現実の世界でいうと、夜巡川であろうか。
あそこの川はかなり河川の幅があり、両岸には広大な芝も広がっている。幼い頃、私もしょっちゅうあの河川敷を走り回っていた。
霊魂が滞留していても無理のない土地柄であろう。
「そしたら、私も一緒に向かわせてもらおうかな」
私は嬉しさでパッと顔を光らせた。
大して、アンジェリカはひどく嫌そうに顔を歪めた。
「邪魔だけは、しないでくださいね」
「ふふっ、そんなことしないわ」
文さんは不敵な笑みを浮かべていた。
どうやらこの二人は、ひどく相性が悪いようだ。
間に挟まった私は、どちらの味方もできず様子を見守る。
そうこうしているうちに、河川敷へ到着した。たしかに、そこには多くの霊魂の姿が確認できた。
「では翼さん。今回は肉弾戦の練習をしましょう。まずは杖を出してください」
肉弾戦。ひどく不穏な響きだ。
私は言われた通り杖を出した。
「さて、これまでの二回はここからエネルギー弾や斬撃の放出を行っていましたね。しかし、今回はそれを封印して近接戦闘に徹します。というのも、今後霊魂と至近距離で戦い合うことも想定されるからです」
なるほど。
先ほどの戦いでも、相手の霊魂は物理的な攻撃を仕掛けてきた。今後もそういったことがあることは容易に想像できる。
ただ、根本的に一つ疑問が生まれる。
「そもそも、霊魂に攻撃されることで私たち人間にはどんな不利益が被られるんですか」
「死ぬわ」
さらっと文が口を挟んだ。私はひっと小さく高い声を上げてしまう。
死。それは、誰しもが恐れる事象。過去の大国の長でさえも、死を恐れ、不老不死の探求を行ったという。
「それは飛躍しすぎです。霊魂の攻撃によって、天使や天使代行の人間が怪我をしたり、傷を負うことはあります。ですが、それで死に至るケースなんて年に十件もありません」
ほとんどないとはいえ、死に至るケースもあるということか。私は愕然とする。
戦いである以上、全く何もないとは思っていなかった。だが、改めてそんな話を聞くと恐怖が出てくる。
「まあ、これまで天使代行をしてる人間の死人は出ていないらしいけどね。しかも、天使は耐久力が高いから、非常に強力な霊魂を相手どらない限りはやられることはまずないわ。ただ油断は禁物ってことね」
私は安堵とともに、気を入れ直した。
この仕事は命をかけたものなのだ。一寸先は闇である。
「話を戻しましょう。杖に力を集めてください」
私は言われた通りにする。
次第に杖のまわりを光を帯びたエネルギーが覆い始める。
「上出来です。さて、その状態で霊魂と対面して戦うのが今回の訓練です。斬撃や砲撃は禁止です。杖とそこに帯びたエネルギーを上手く使うのがコツです」
なんとなくはわかった。しかし、これで本当に戦えるだろうか。
私は走るのは得意だが、喧嘩などはこれまでほとんどしたことがなく、どう立ち回ればいいかのイメージがつかない。
「さあ、始めますよ」
アンジェリカはピーッと笛を吹いた。
すると、河川敷を浮遊していた霊魂が、突如としてこちらを向く。
そして、一拍おいてこちらに向かってきた。
私は怯える心を落ち着かせるために胸に優しく手を置き、それから意を決して杖を構えたのであった。
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