第7話 憧れとご対面

「はあ」


 これで、何度目だろう。吐息をこぼすのは。

 目の前では授業が行われている。集中して、黒板の内容を書き写さねばなるまい。だというのに、このあいだ天界で見た黒髪の女性の姿が、頭から離れないでいた。


 本当に綺麗な人だった。年は私より上。大人びて見えたが、高校生くらいだろうか。いつか、一緒に天使の仕事をすることになったりするのか。

 そんな時間が訪れるのであれば、とても楽しみである。


「えー、それでこの問題ですが、そうですね、天見さん」

「三です」


 そこは、事前に予習しておいていた問題だ。


「正解です。このあたりから、一次関数は難しくなってきますし、テストでも問われる部分になりますからね。それから――」


 先生はそのまま解説を進めていく。

 今日はなかなか、その内容が頭に入ってこない。


 私は、黒板の右端に視線を逸らす。

 今日は水曜日。

 次回の私の出勤日は日曜日の午前中だ。


 不思議なことに、いまは天使の仕事が待ち遠しい。きっと、あの女性と出会っていなければ、そんな感情を抱くこともなかったのだろう。


 まずは、名前を知りたい。きっと、素敵な名前なのだろう。そして、私の名前も呼んでほしい。翼ちゃんと、そのふっくらとした唇を動かして囁いてほしい。


 ああ、授業中だというのに、先ほどからそんなことばかり考えてしまう。


「はあ」


 そうして、私の悩める時間は途切れることなく、続くのであった。




「この気持ちに、なんて言葉をつけたらいいんだろう」


 日曜日の午前中。

 椅子に座りながら、私ははあと小さな息を吐く。

 結局、あれからも私の中のこの気持ちは晴れないでいた。小さい頃に、アニメの中の天使に心を奪われたときと似た気持ちである。あのときは、天使アニメにどっぷり浸かって四六時中見ていたものだ。


「それはずばり、憧れ、じゃないでしょうか」

「アンジェリカ?」

 

 いつの間にか、隣にはトレーナー天使の少女がいた。

 なぜだか腕を組みながらうんうんと頷いている。


「私にも、そんな時代がありました。そう、あれは、三年前のこと」


 唐突に、昔話を語り始める。

 

「あの頃、私はまだまだ新米で仕事に四苦八苦していました。ミスばかりして、しょっちゅう先輩に怒られる日々。そんなあるとき、出会ったのです」


 そこで、一呼吸、わざとらしくアンジェリカは間を置いた。


「出会いは唐突でした。その日、私は業務のために天界の下層で天使の討伐に勤しんでいました。ミスを連発しながらも、一通り仕事も終わり、帰ろうとしたところで、近くで爆発音が聞こえました。一体何事だろうと音のした方へ赴きました。そして、そこで見たのです。途轍もなく強力な霊魂と、そんな相手に華麗に対峙するルシェル先輩の姿を」


 ルシェル。

 その名前には聞き覚えがあった。

 先日、天界上層で出会ったすらっとした男の天使。


「その無駄のない剣捌きに、私は感銘を受けました。まさに、蝶のように舞い、蜂のように刺すといった動きでした。私もこうなりたい。そんな憧れを抱きました。そこから一念発起して、いまに至るというわけです」


 えっへん、と胸を張るアンジェリカ。

 彼女が当時、そこまで失敗ばかりだったというのは、驚きである。

 その出会いと憧れが、アンジェリカを大きく変えたのだろう。


 対して、私はどうだろうか。この感情は憧れなのだろうか。それは、まだ確信が持てないでいた。きっと、もう一度会ってみれば分かるはずだ。


「ちなみに、今日、あの人は働いているんですか?」

「先日の、あの女の子のことですよね?私もわかりかねますね。行ってみてのお楽しみということですね」


 アンジェリカも把握していないようだ。

 しかし、それも考えれば当たり前のことだろう。多くの人間が従事しているわけで、それを一人一人細かく把握することなどできないのではないだろうか。


「あの子のトレーナーが私の友人なので、聞けば大体の勤務日は分かりますけどね」


 なるほど。そんな繋がりがあったのか。

 つまりアンジェリカのトレーナーの天使と懇意になればお近づきになれるわけだ。


「その天使の方を紹介して欲しいです」


 私の食いつきに、アンジェリカは驚いた様子を見せた。


「翼さんがそんなに興味を持つとは。そうしましたら、時が来れば紹介しますね。今日は休日なので難しいですが」


 たしかに、多くの天使は土日がお休みだ。

 さすがに休日に押しかけるなんて無粋な真似をすることはできないだろう。


 休日とは、働くものにとって日頃の疲れを癒す重要な時間なのである。休みがあるからこそ、労働に従事できる。そう、激務の父は言っていた。


 幼い頃の私は感心して話を聞いていたが、今にして思えば子どもに話す内容ではないのかもしれない。


「そしたらまた、時間があるときにお願いします」


 本当はすぐにでも、と思ったがなかなかそう上手くはいかないのだ。

 そんな私に、アンジェリカはお任せをと胸を張った。


「さて、時間も時間ですから天界へ参りましょうか」


 私は頷く。時間は有限。仕事をこなさなければならない。

 そうして、私とアンジェリカは再び天界へと舞い降りたのであった。




「さて、翼さん。先日は最弱クラスの霊魂で訓練を行いました。しかーし、そんなへなちょこを討伐していても一人前の天使にはなれません。ですから、少しずつ敵のレベルを上げていきます」


 そんな言葉で始まった訓練。

 私たちはまず、公園を離れ、近くの小学校へと赴いた。懐かしき母校である。


 母校には霊魂がたくさんいた。

 不良の溜まり場のようなかたちで、霊魂が右往左往しているのである。

 アンジェリカによれば、この学校に居座っている霊魂は先日相手をしたものよりは強いのだそうだ。


 たしかに、大きさは先日のものよりも一回り大きく、体は薄灰色をしていた。


「私は後方で様子を伺ってますね」


 アンジェリカは、いつの間にやら刀を出していたようで、いつでもいけるとでもいうかのように構えていた。


 心強い限りである。

 さあ、狩りの時間だ。


 私は前回と同じように、武器が出るようにと祈る。すると光とともに、すぐに木の杖が現れた。

 相変わらず、なぜかピンクの小さなリボンがついた杖。


 何体かの霊魂が私の発した光に気づいたようで、こちらを見やった。

 体が小刻みに震える。逃げ出したい。

 でも、負けるわけにはいかない。


 私は杖を構えて、叫んだ。


「いけー」


 声に合わせ、光の球が放出され、霊魂の体へと命中していく。

 その攻撃で倒せるものもいれば、耐え抜いてこちらへ向かってくるものもいる。恐らく、これが強さの違いなのだろう。


 私は左右の前方から襲い掛かってる霊魂たちに対し、右に左にと交互に杖を向けていった。

 一匹、また一匹と霊魂は倒れていく。しかし、いかんせん数が多く、次第に私に近づいてきた。


 このままでは、攻撃されてしまう。


「その攻撃だと埒があかないわ。イメージしなさい。もっと、目の前の霊魂を一掃できる攻撃を」


 不意に凛とした女性の言葉が耳を打った。

 後ろから投げかけられた声。アンジェリカのものとは違うその声の主は一体誰なのか。

 けれども、迫る敵を前に振り向くことなど許されない。


 目の前の敵を効率よく倒す方法。

 それには、いまの光の球では足りない。

 もっと広範囲に広がるものでないといけない。


 一点ではなく、線状のもの。

 私は杖に力を込めた。イメージは刀。その横からの一振り。


「いけー」


 杖から大きな斬撃が撃たれ、霊魂たちを次々に切り裂いていく。

 だが、まだ多い。


「もう一発」


 私は杖を振るった。

 再び斬撃が飛び出し、前方の霊魂たちを薙ぎ払っていく。


 これであらかた片づけたであろうか。

 斬撃で生じた靄の先を、私は目を細め見つめる。 

 一瞬、その先に大きな影が見えたような気がした。その影は次第に大きくなっていった。


「なに、あれ」


 思わず声を漏らしてしまった。

 それは、厳密にいえば大きくなっているのではなく、近づいてきていたのだ。


 靄が晴れたことで理解する。

 それは、人型の巨大な霊魂だった。

 見るからに、強そうな風貌をしている。さすがにいまの私ではあれに敵いそうになかった。


「翼さん」


 後方からアンジェリカの焦った声、そして足音が聞こえた。

 けれども前方から、人型の霊魂は私へとすごい勢いで距離を詰めてくる。


 逃げねば。

 本能はそう叫んでいた。だが、そんな心の叫びとは裏腹に、足は動いてくれなかった。


 絶体絶命。

 まさにそんな事態。

 私は思わず目をつぶった。


「しょうがないわね」


 そんな私の耳に、またも凛とした声が聞こえた。そして次の瞬間、体が空を舞っていた。

 背中と足を支える手の感触で、誰かに抱きかかえられているのだと気づいた。


 アンジェリカであろうか。しかし、私の視線の先、地面にはその姿があった。では誰だろう。

 上を向こうとした次の瞬間、凄まじい衝撃が体を襲った。風が体に吹き付ける。

 いや、逆だ。私が風を感じられるくらい、早く動いているのだ。


 私を抱きかかえた存在は、すぐに人型の霊魂の背後を取った。そして、私を下ろした。

 靄の影響もあり、くぐもった視界。そんな中で一瞬、横顔が見えた。切長な瞳。それはどこかで見たことのある目だった。

 その声の主である女性は私の前に立った。


「目を瞑ってはだめよ。向き合って戦う。それが天使。さあ、出てきなさい」


 その掛け声とともに、小型で持ち手の曲がった小銃が女性のまわりに出現した。

 その数、十丁ほど。

 全てが霊魂へと向いている。


「撃て」


 銃口から、光の球が連射される。その速度も威力も私の杖での攻撃とは比べ物にならないくらいのものであった。


 人型の霊魂はその攻撃で、倒れると萎んでいった。

 女性は縮んだ霊魂を拾って瓶に入れると、こちらを振り返った。


「怪我は、ない?」


 その顔を見て、私の胸は高鳴った。

 そう、彼女こそが先日天界で出会った私の憧れの人だったのだ。

 こうして、期せずして私は憧れとの対面を果たしたのであった。

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