第3話 こうして私は、天使になった
「さあ、私の紹介も終わったことですし、まずはあなたのお名前を教えてください」
私は迷う。こんな得たいの知れない相手に名前を教えていいものか。答えは否。
「た、田中花子」
しかし、ぱっと口に出た名前はひどく単純なものであった。学校の定期テストで模範解答の名前に先生が使いそうな名前である。花子と太郎は鉄板すぎる。
「田中花子ですか。ふむ」
さすがに安直すぎたのか、アンジェリカは考える素振りを見せた。
これは追求は免れないか。もう少し捻った名前にすればよかったかもしれないと後悔の念の抱くがもう遅い。
「古風な名前ですね。素敵です」
アンジェリカはぐっと親指を立てた。この天使は天然なのかもしれない。そんな姿を見て、罪悪感が湧いてしまう。
「本当は翼」
ぴくっと、アンジェリカが肩を震わす。さすがに怒るだろうか。
その顔をちらと見ると、うんうんと頷いていた。
「私は謀られてしまっていたわけですね。なかなかやりますねえ。全然気づきませんでしたよ。しかし、翼とは。天使にぴったりな名前だ」
なぜか感心していた。そして、名前を褒められた。
本当におかしな子だと思った。中学校にも変な子はいるが、ここまで変わり者な子はそうはいない。ある種の才能だ。
「では翼さん。改めて、あなたを
天使にスカウトします。天使として働きましょう」
「お断りします」
私は力強くその誘いを切り捨てた。
一応、話してはしてみるが、だからといってこんな怪しい誘いにのる私ではない。
怪しい人からの誘いは受けない。小学生でも分かる鉄則だ。
「では、天使のお仕事の具体的な説明に移りますね」
自然な流れで話を次に進めようとする。
「ま、待ってください。私、断るっていいましたよね。聞いてなかったんですか」
アンジェリカはこてんと首を傾げた。
「聞いてましたよ。ただ、話を聞いたら心変わりすると思うんです。だから、先に具体的な話を進めてしまおうと思いまして」
なんて強引な天使なのだ。つまるところ、私の返答はここまであまり意味を成していなかったわけだ。
「でも、心変わりはしないと思う」
天使になりたいと心変わりする未来はいまのところ全く見えなかった。
「それは聞いてのお楽しみで。ここではなんですし、そこの角にある公園でお話ししましょう」
天使に誘われ、私は公園へ向かうのであった。
公園の椅子に、見知らぬ天使とともに座る。
長椅子に座る、という言葉からはのんびりした様子が連想される。だがいま、全然落ち着いた心持ちではいられない。この天使がどんなことをのたまうのか。そこに全神経を集中しており、ある種、心がすり減ってしまっているような感覚すら覚える。可能なら帰りたい。だが、この運動能力の無駄に高い天使はそれを許さないだろう。
とするならば私の取れる手は一つ。話を聞き、断固としてその誘いを断って帰る。これしかない。
「翼さんも学校があるでしょうし、前置きはなしにして話してしまいますね」
これまでもなかなかに長い前座が挟まれていたようだが、私は茶々を入れることはしなかった。早く話が終わるのならそれでいい。
「まずは、私たちの住む天界について説明しましょう」
そうして、アンジェリカは話し始めた。
「そもそも、人間の住む世界とは別に天界というものが存在します。場所でいうと人間界の裏側です」
私は首を傾げた。いまいちアンジェリカの話が理解できないでいた。
「ああ、わかりにくいですよね。簡単にいうと、人間界とは別にもう一つの世界があるんです。此岸と彼岸みたいなものですね。生きている内は人間の住む世界、人間界にいて、死んだらその霊魂は天界に生じるんです」
此岸と彼岸。そして二つの世界。
「つまり、私たちの感知や干渉ができないもう一つの世界があるってことですか」
アンジェリカは頷く。
それはにわかに信じられない話である。私たちの暮らすこの世界の裏側。創作であれば、そんな話は無数に存在する。けれども、これは現実だ。そんな話をすんなりと受け入れるなんて、どだい無理な話だ。
「まあ、すぐに飲み込める話ではないですよね。ひとまず続けます。天界では霊魂が生じると言いました。それは言わば、人間の残留する思念の塊なのです。これはどんな人間であっても発生する代物です。そして私たち天使はそれを天界にある天上の国、つまり天国へ送り届ける仕事をしているのです」
天使の役割。それは霊魂を天国へと送り届けること。それはひとまず分かった。
しかし、ここで一つ大きな疑問が生じる。
「それは天界の話であって、私たちは関係ないんじゃないですか?」
アンジェリカの話す世界観に乗っ取るのであれば、いまのは天界での話だ。人間界の人間が関わる類いの話ではない。
「そう。そうなんですよ。天使と人間は関わらないのが常です。私たちは二つの世界を行き来できますが、人間界に出向くことなんてこれまではありませんでした。これまでは」
嫌に含みを持たせた言い方だ。
なんとなく、その先の展開は察してしまった。
「なにか、問題が起こったんですね」
アンジェリカは苦々しげな顔で頷く。
「近年、人口増加に伴い、霊魂が増えたことで、天使たちの業務量は大幅に増えました。天使たちはこれまでも毎日のように労働に勤しんでいたのですが、業務圧迫によって四六時中働くはめになったのです」
なんだか日本社会みたいな話だと感じた。日本でも、たびたび労働環境についての話題が上がる。残業の慢性化やそれによる自死が取り上げられる度に胸を痛めるが、それはなにも人間だけでなく、天使にも通ずる問題であったというわけか。
「そんな中、羽が黒く染まり、飛べなくなる天使が現れ始めました。私たちはそれを黒化と呼んでいるのですが、その症状がひとたび出ると、業務はおろか、日常生活にも支障をきたすことになるのです。次第に黒化する天使たちは数を増やしていき、天界に療養区という区画が設置されるに至りました」
人間でいうところの、鬱病などがあたるのであろうか。いくら天使といえども、働きすぎれば体を壊してしまうというのは人間と変わらないらしい。
「そんな状況に置かれたことで、第一階級、上層部の天使たちがある規則を施行しました」
規則。ルール。
それは天使の労働環境にメスを入れるものであろう。
「それが、天労法です。この規則により、天使は七日間のうちの二日、人間と同じく土日に強制的に休むことになったのです。しかし、これは労働不足という問題をむしろ悪化させることになりました。なにしろ、実働時間が減ってしまったのですから」
一概に、労働時間が長くなればなるほど、こなせる業務量が増えるかというとそうでもないらしい。父は休みが増えることで、いい状態で業務に臨めるため、効率が上がることは多々あると以前言っていた。月残業百時間の父が言うのだから間違いないだろう。
とはいえ、丸二日働けなくなった世界で、既存の業務量を回すというのはさすがに難しいだろう。
「そこで白羽の矢が立ったのが、人間っていうことですか?」
その言葉を否定して欲しかった。けれどもそうならないことも私は分かっていた。
「その通りです」
問題、足りない労働力をどこから補うのか。
答え、他所から。
それは非常に分かりやすくて、それでいて非常に歪な構造だと思った。
「しかし、天使の仕事を人間ができるのかといえば、当然ながらできません。そもそも、天界に行くことすらできませんから。人間に代行してもらうという考えは、頓挫しかけました。ですが、一人の天才が全てを解決したのです」
その天使の名前は、インベリエル。医療や天使の生態などの知識に秀でた天使であったそうだ。
インベリエルは天使の羽から人口の羽を作り上げた。もともとは、黒化の防止に役立てようとしたものだったが、羽以外の機能も低下した天使たちを人口の羽で駆動させ、劣悪な労働環境へ戻らせることは不可能だった。
だが、この研究は人間にマッチしてしまった。この羽をつけた人間は天使と同等の動きができることが判明したのだ。
天使となる、このことをインベリオルは天使化と呼んだが、天使化した人間は天界で天使代行として働けることが証明された。そうして、現在、天使業務を一部の人間が代行し、また、天使たちは人間のスカウトも並行して行っているのである。
私はその話を聞き、愕然とした。アンジェリカの話が事実なのだとしたら、天使が人間社会に知らず知らずのうちに浸食していたことになる。
「なぜ天使のいうことを聞いて働く人がいるんですか?」
アンジェリカの話から、天使が人間を求めていることはわかる。だが、人間が天使の業務に従事する理由がわからない。
「それは、天界での業務破綻が人間界に大きな影響を及ぼすからですね」
「どういうことですか?」
人間の世界と天界は別の世界であるとアンジェリカは言った。それならば相互に干渉することはないはずである。
「二つの世界が干渉し合うことはほとんどありません。ただ、一点だけ特殊なケースがあります。それは、天界の霊魂が飽和したとき。霊魂とはエネルギー体なのです。それが天界の許容量を超えると、行き場を失ったエネルギー体は暴走し、天界に大きな災害を引き起こします。そして、天界にひびが入り、裏側の世界である人間界にも余波を与えるのです。あなた方人間の世界で起こってきた歴史に名を残す災害。そのいくつかは、天界の霊魂が原因で引き起こったものなのです」
「そ、そんなの信じられないです」
違う世界がある。そして、その世界が私たちの生きる世界に甚大な被害を与える。
妄想もいいところだ。
「直近でいえば、十年前の首都圏大火。首都圏各地で火災が起き、数千人の人が命を落とした災害。一説では、気候変動など様々な要因があるとされている。けれど、そんなことでは説明のつかないような事象です。江戸時代ならいざ知らず、現在は防火技術も格段に上がっているのですから」
途端、息苦しさを覚える。
首都圏大火。私が四歳の頃に起こった災害。私の住んでいた地域は偶然にも火災に巻き込まれなかった地域だった。だが、火災に遭った地域は悲惨だった。
当時、私はテレビ中継でその凄惨なさまを見た。なにもかもを燃やし尽くす炎を見た。
別に自分が当事者であったわけではない。それでもときおり夢に出てくることがある。そんな痛ましい夢だ。
「さて、翼さん。あなたは天使になる資格があります。誰もが天使になれるわけではありません。天使とは心の純白さが求められます。天使の黒化も、働き過ぎて心が闇に覆われるために起こるのです。あなたはこの羽を見ることができました」
アンジェリカは懐から白い羽を出した。
私は思い出す。そうだ、そこから始まったのだ。
「その羽はなんなんですか?」
「これはインベリエルが作った人工の羽です。この羽は、一定水準以上の心の純白さがないと見ることができないものなのです。これが見えるということが天使の資格であり、適合者の条件なのです」
資格や適合者という言葉。正直な気持ちを暴露するのであれば、それはほんの少しだけ私の心を動かした。
これがもっと幼い頃なら違ったのだろう。この天使の話に疑いの視線を向けることなく勢いで頷いたはずだ。
「さて、改めて問います。天使として働きませんか」
私は考える。天使になりたいとはあまり思わない。なら断ればいい。そう、分かっている。
けれども、災害の話が心に引っかかりをもたらしていた。この天使の話は嘘かもしれない。だが、もし本当であり、またあんな火災が引き起こったら、今度は無事ではいられないかもしれない。
「迷える、少女よ。迷うなら、やってみるべきです」
「うーん、でも、やっぱり……」
どうにもふんぎりがつかないでいた。疑いの気持ちもあるし、私には荷が重く感じてしまう。
「ええい、うじうじしていて見ているこっちがいらいらする。取りあえずやってみなさい」
アンジェリカは持っていた羽を勢いよく振り下ろし、私の背中に刺した。
「な、なにするんですか。いったー、くない?」
背中から痛みはなかった。刺された部分を触ると、羽の感触があった。さーっと血の気が失せる感覚がした。
こうして私は、天使になった。
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