第2話 白い羽と天使

 その日はいつものように六時に目覚め、いつものように日課のお散歩に出かけた。

 そしていつものように閑散とした住宅街を歩いていると、ふと、いつもとは異なるものに遭遇した。


 純白の羽。

 白く淀みの一切無い羽。その羽が光をまとい、私の膝くらいの高さを浮遊していた。


 いまにして思えば、見てみぬふりをするべきだったのだろう。しかし、そのときの私は好奇心のままに羽に手を伸ばしてしまった。


 その羽に触れた瞬間、視界は眩い光に覆われた。思わず腕で目を覆い、顔を背ける。

 眩しさはすぐにおさまり、私はゆっくりと目を開いた。

 そこに、純白の羽はなかった。そしてその代わりに、羽の生えた少女がいた。


「きました、ついにきました」


 少女は叫ぶ。なにやらはあはあと息を荒げ興奮した様子で私を見ながら。


 危ない人だ。私は悟った。懐に忍ばせていた防犯ブザーに手をかける。こういう手合いに出会ったら迷わず鳴らす。小学生のときに習った知識だ。これまで幾度となくなにもないのに引っかかって鳴らしてしまったブザー。その真価が今日、ついに発揮されるというのは非常に感慨深いものである。


「おっと、こいつは失礼。つい、感動のあまり興奮が抑えられませんでした。別に、怪しいものではございません」

「いや、どこからどう見ても怪しい人ですよ」


 私は少女の一挙手一投足を逃さないように視線を向けながら、後ずさりする。

 茶髪のショートヘアーで、服装はちょっと遊んでそうな同い年のギャルというかんじの見た目だ。服装はといえば、そんな見た目にそぐわず白いワンピースを羽織っている。ここまではいい。


 問題は頭の輪っかと背中から生える羽だ。少女自身の異質さを際立たせる。コスプレだとしても、やばい人間でないはずがない。


「はっ、そういえばまだ名乗っておりませんでしたね。これは失礼しました。私はアンジェリカ。見ての通りの天使です」 


 見ての通りのやばい人であった。これはもう、逃げるしかない。私は自称天使に背を向けると走り出した。これでも五十メートル走は八秒前半であり、クラスの女子の中では早いほうだ。


「逃がしませんよ」


 そんな声が聞こえた。

 次の瞬間、目の前を純白の羽が舞った。そして、私の前に少女がいた。


「ど、どうして」


 まだ走り出して数秒足らずだ。その間に先回りして私の前に出るなんて、オリンピック選手でも不可能だ。ましてやこんなコスプレ少女に追いつかれるわけがない。

 その得たいの知れなさに背筋がぞくりとする。


「ふふふ、天使を舐めちゃいかんのですよ。我々は人間とは比べものにならないほど早く動けるのです」


 そんなはずはないと思いたい。しかし現に、この少女は私を上回る速度を持っていた。天使という存在がいるかはさておき、普通の人間とはなにかが違うのは明白だ。 


「そんな不審者を見つめるような視線を向けないでくださいよ。悲しくなってしまいます。しくしく」


 少女はそうおどけるが、不審がるなというのはどだい無理な相談だ。

 確実にこれまで私が出会ったやばい人間の三本指に入る。


「そ、そもそもなんの用ですか?」


 なんだって、私のことを追いかけてくるのか。その理由がいまいち掴めないでいた。


「はっ、そうでした。危うく本題を忘れるところでした。それが一番大切だったことなのに。いやあ、いけない。昔から気が散る性格でして、つい話が脱線してしまうんですよ」

 そうして、少女はふっと小さく息をつくと

私を見やった。

 その薄茶色な瞳が私の瞳を捕らえる。思わず、喉がごくりと鳴る。


「えー、単刀直入に言いますね。あなたをスカウトさせてください。天使になりませんか?」

「はっ」


 思わず間抜けな声が漏れてしまった。

 この少女はいまなんと言ったか。私の中で反芻してみる。天使になりませんか。それはどういった意味か。言葉通りの意味なわけがない。そんなことは有りえない。すると、なにか遠回しな表現であろうか。


「えーっと、あなたみたいにコスプレをしませんかという勧誘ですか?」

「いえいえ、コスプレではないですよ。私は本物の天使です。疑うようならこの輪っかとか羽に触ってみますか?」


 なんだかひどく躊躇してしまう提案ではあったが、私はおそるおそるその頭の輪っかに手を伸ばした。きっと透明ななにかで固定されているだけだ。輪っかは固かった。円の縁を指でなぞっていく。しかし、なにもついていない。なのに頭の上に輪っかがついている。


「えっ、どういうこと」

「どうもこうも、天使の輪っかですから。頭の上に浮いてるんですよ」


 そんな意味不明な説明に納得できるわけがなかった。もしかしたら科学的な話なのかもしれない。例えば磁力とか。私は輪っかを引っ張ったり押したりしてみた。けれども少女の頭の上という定位置から動くことはなかった。


 それならばと私は羽を触った。


「あひゃっ。い、いきなり触らないでくださいよ。けっこう敏感なんですから……」


 少女は身体をくねらせた。だが、私はお構いなく羽を触り続けた。


 きっとこの羽は上手く服に接着剤か何かで止めているだけだ。羽の付け根に到達する。白いワンピースには穴が空いており、そこから羽が伸びていた。背中部分がどうなっているか見えない。私は左の羽を掴み取るとぐいっと力強く引っ張った。


「ああー。痛い、痛い、痛いです。ひ、引っ張るのやめてください」


 少女は本気で痛がっている様子で、目には涙を浮かべ背中を振っていた。


 少女の行動はただの演技であろうが、これだけ力を入れても引っ張っても抜けないのはおかしい。羽の付け根にできた服の穴を覗いてみる。


「うわあ」


 思わず私は声を上げてのけぞった。羽の付け根が背中にくっついていたのだ。それはまぎれもなく背中から生えている羽だった。


「あ、あなたは一体何者なの」

「いや、だからさっきから言ってるじゃないですか。天使ですよ、天使。天使のアンジェリカです」


 そう言って、少女、アンジェリカはにっと微笑んだのであった。






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