第16話:開いた花

札幌ウォーリアーズの一軍ブルペンに、その選手の姿があった。榊原大樹(さかきばら だいき)、29歳の中継ぎ右腕。ブルペンの片隅で黙々とキャッチボールを続けるその姿には、ベテランらしい落ち着きと、長い年月で培った風格が滲んでいた。


榊原は昨年、移籍組としてウォーリアーズにやってきた。その名前が新聞に大きく載ることはなかったが、ファンの間では「渋い補強」と囁かれる存在だった。


   ◇


榊原は地元の野球部ではエースだったが、プロの舞台に立てば「ただの駒」に過ぎなかった。


「制球は良いけど、球速が足りない。」 「変化球も平凡だな。これじゃ通用しない。」


コーチたちの辛辣な評価を聞きながら、榊原は二軍での練習に打ち込んだ。投げても投げても一軍には届かない。最初の3年間、榊原は一度も一軍の試合に呼ばれなかった。


漁師の父、そして小さな食堂を営む母。彼らはテレビ中継で息子の活躍を心待ちにしていたが、その願いはなかなか叶わなかった。


「今度は一軍に上がれそうなのか?」と父親が電話口で聞いてきたとき、榊原は咄嗟に嘘をついた。


「うん、近いうちに呼ばれると思うよ。」


電話の向こうで父親の笑う声を聞きながら、胸が苦しくなった。何度も「自分は失望されているのでは」と考えたが、実家には決してそうした姿を見せなかった。


   ◇


転機が訪れたのは入団4年目のことだった。新監督の方針で、一軍の中継ぎ投手として起用される機会が増えたのだ。そこで榊原は堅実な投球を続け、いつしか信頼を得て、シーズン後半にはクローザーとして起用されるまでになった。


プロ初セーブを挙げた夜、榊原は寮の部屋で静かに涙を流した。電話でその知らせを伝えると、父親は不器用な言葉でこう言った。


「よくやったな、大樹。母さんも喜んでるぞ。」


「ありがとう、父さん。」


久しぶりに胸を張って父に報告できたその夜、榊原は自分の人生がやっと報われた気がした。


しかし、その栄光は長続きしなかった。翌シーズン、榊原は肩を故障し、登板数を減らしながら無理を重ねて投げ続けた。それがさらにフォームの崩れを招き、成績は急降下した。


「球威が落ちたな。もう抑えは厳しい。」


監督のその言葉を最後に、榊原は再び二軍へと送られた。そしてそれからの数年、彼は一軍に戻ることなく、地道な調整を続ける日々が続いた。


   ◇


そんな榊原を支え続けたのは、高校時代から付き合っていた妻の千夏だった。榊原がプロ入りしてすぐに結婚し、ほどなくして娘の芽衣(めい)が生まれた。


「お父さん、試合に出ないの?」


当時4歳だった芽衣のその言葉が、榊原の胸を締め付けた。だが、千夏はそんな娘をそっと抱き寄せて言った。


「お父さんはね、一番大事なときに試合に出るんだよ。だから今は準備をしているの。」


榊原はその言葉に救われた。家族は、自分が一軍の試合に出られなくても、変わらず応援してくれていた。


夜、芽衣が眠った後、千夏が榊原にこう言った。


「大樹、あなたがどんな時でも諦めない人だから、私はあなたを好きになったの。だから、どれだけ時間がかかっても、私は待っているわ。」


その言葉が、榊原を奮い立たせた。


   ◇


27歳を過ぎた頃、榊原は最後の賭けとして投球フォームを根本から見直した。それまでは「堅実さ」を求めていたが、体幹を鍛え、全身の力を連動させて投げることで球威を取り戻そうと試みた。


その結果、140台だったのが150km/h前半の速球が投げられるようになり、変化球のキレも向上した。それでも年齢を理由に一軍の舞台には呼ばれず、戦力外通告を受ける可能性が高まっていた。


「このまま終わるのか……。」


だが、そんな榊原に救いの手を差し伸べたのが、札幌ウォーリアーズだった。


「堅実な投球ができる投手が欲しい。お前の経験が必要だ。」


鷹司監督のその言葉に、榊原は震える手で契約書にサインをした。


   ◇


札幌に移籍してからの榊原は、若い選手たちに囲まれながら再びブルペンで地道に投げ続けた。若手たちにとっては「堅実なベテラン」、チームにとっては「いざというときの保険」。そうした役割を担う中で、榊原は再び「クローザーとして投げたい」という思いを強めていた。


その裏で、妻や娘との絆も深まっていった。芽衣は小学1年生になり、榊原の試合を観るために、時々スタジアムまで足を運んでいた。


「お父さん、今度は抑えてね!」


芽衣のその声に、榊原は心の中で誓った。


(もう一度、一軍のマウンドで結果を出してみせる。)


   ◇


7月5日 札幌ウォーリアーズ 対 千葉マリナーズ


試合は9回裏、リーグ首位の千葉マリナーズとの接戦だった。2対1の1点リードで迎えた最終回、9回裏、鷹司監督と投手コーチは新クローザーと期待されていた助っ人のジョンソンが不発に終り、苦肉の策を取らざるを得なかった。その日調子の良さそうな中継ぎを順にマウンドに送ったが、相手打線に悉く捉えられ、ピンチが膨らんでいった。そして、最後のカードとして榊原に託す決断が下された。


ノーアウト満塁。札幌のブルペンから、榊原大樹がゆっくりとマウンドに向かう。観客席からは不安と期待が入り混じったざわめきが聞こえる。


(この場面で俺が呼ばれるなんてな。)


29歳、ベテラン中継ぎ投手。かつてクローザーとして起用されていたが、怪我と不振でポジションを失い、長い二軍生活を送った。3年前、最後にセーブを挙げて以来、再びこの瞬間が訪れるとは思いもしなかった。


榊原はゆっくりと深呼吸を繰り返し、キャッチャーの元へ歩み寄る。マスク越しに見つめるのは、若手捕手の鈴木だった。


「榊原さん、どうします? 初球。」


鈴木の声にはわずかに緊張が混じる。榊原は落ち着いた表情で言った。


「低めだ。高めは釣り玉として使い勝負では徹底的に低めを攻める。それだけだ。」


鈴木は小さく頷き、マスクを被るとポジションに戻った。


打席には千葉マリナーズの5番打者、牧田大輝。粘り強い打撃と選球眼で、厄介な相手だ。榊原は一球目、外角低めへスライダーを投じた。


「ストライク!」


審判の声が響く。観客席から小さな拍手が起きる中、榊原はすぐに次の球を構える。


二球目、内角低めへのストレート。牧田がバットを出しかけたが、止めた。


「ボール!」


カウントは1ボール1ストライク。榊原は次の球にスプリットを選んだ。低く落ちる球に、牧田は泳ぐようにバットを出したが、空振り。


「ストライク、ツー!」


榊原は手元の汗をグラブで拭い、四球目に外角高めへの速球を投げ込んだ。牧田のバットが鋭く振り抜かれるも、打球は高く上がり、内野のファウルゾーンへ。


ファーストが落下点に入り、両手でしっかりと捕球した。


「バッターアウト!」


スタンドから拍手が湧き上がる中、榊原は軽く息を吐いた。


(まずは1アウト。あと2人――。)


続く打者は6番、パワーヒッターの山崎圭一。彼はフルスイングが持ち味で、満塁の場面では一振りで試合をひっくり返せる力を持っていた。


榊原は一球目、外角低めへスライダーを投げる。


「ストライク!」


山崎はバットを見送る。二球目、インローへのストレートを投じたが、山崎の鋭いスイングがボールを捉える。


打球はレフト方向へ大きく上がる。フェンス手前まで飛んだが、レフトが冷静に捕球し、ランナーの進塁を阻止する。


「アウト!」


榊原はマウンド上で拳を握りしめた。


(あと1人。あと1人で……。)


打席には千葉の主砲、高橋圭吾。リーグトップの打率を誇り、勝負強い打撃で幾度もチームを救ってきた存在だ。


榊原はこの対決にすべてを懸ける覚悟だった。初球、内角高めにストレートを投げ込む。


「ストライク!」


高橋は冷静に見送り、次の球を待つ。榊原は2球目に外角低めへのスライダーを選択した。高橋はバットを出すも、打球はファウルゾーンへ。


「ストライク、ツー!」


追い込んだ榊原は、最後の球に渾身のスプリットを選んだ。


(低めに落とせ……絶対にミスするな。)


鈴木が構えるミットへ、榊原は全身の力を込めてボールを投げ込んだ。スプリットは鋭く落ち、高橋のバットは空を切る。


「ストライク! バッターアウト!」


審判のコールとともに、試合終了を告げるスコアボードのランプが光る。


   ◇


試合終了後、榊原大樹は歓声に包まれたグラウンドの中央に立っていた。ヒーローインタビューの時間だ。観客席からは「榊原!」というコールが繰り返し湧き起こる。


(3年ぶりか……この場所に戻れるなんて。)


マイクを握った榊原は、どこかぎこちない笑みを浮かべながら、観客を見上げた。緊張で心臓が早鐘のように鳴る。インタビュアーが優しい声で問いかける。


「榊原選手、見事なピッチングでした。まずは、いまの率直なお気持ちをお聞かせください。」


榊原は一瞬だけ視線を泳がせ、口を開いた。


「……本当に、うれしいです。」


その言葉は消え入りそうに小さかった。インタビュアーが「次の質問」を投げかけようとするが、その前に榊原が自分から口を開く。


「ただ……僕がここに立てているのは……」


言葉に詰まり、顔が歪む。涙が視界を滲ませるのがわかった。グラブを一度握り直して呼吸を整え、観客席を見回した。


「……家族のおかげです。妻や……娘が……ずっと支えてくれました。」


そこまで話したところで、喉が詰まり、それ以上声が出なくなった。観客席は静まり返り、榊原の震える姿を見守っていた。しばらくしてから、かすれた声で言葉を続ける。


「僕は……怪我をして……成績も残せなくて……もう、終わりだと思っていました。それでも、家族は……僕を信じてくれました。」


鼻をすすりながら笑顔を作る。


「妻が言ってくれたんです。『大樹ならできる』って。あの言葉がなければ……僕は今日、このマウンドにはいませんでした。」


観客席から温かな拍手が湧き上がる。榊原は深く頭を下げた。


「本当に……ありがとう。」


   ◇


ロッカールームでシャワーも浴びず、榊原はスマホを手にし迷わず妻に電話をかけた。


コール音が数回鳴り、電話がつながる。


「大樹、お疲れ様!」


千夏の弾んだ声が、耳に飛び込んできた。榊原は一瞬言葉を詰まらせたが、次の瞬間には笑顔になっていた。


「ありがとう……。俺、やっと……戻ってこれたよ。」


その言葉に、電話越しでもわかるほど、千夏が涙声になっているのが伝わる。


「見てたよ……もう、ずっと泣きっぱなしで……。芽衣も大喜びだよね?」


「うん! お父さん、すっごかった!」


後ろから娘の元気な声が飛び込んでくる。榊原はその声に、不思議なほど力が抜けるのを感じた。


「芽衣、ありがとな。お父さん、頑張ったぞ。」


「お父さん、かっこよかった! またセーブしてね!」


「……ああ、するよ。絶対にする。」


そのとき、千夏の声が再び聞こえてきた。


「大樹、あなた、本当にかっこよかった。これまで辛いことがたくさんあったのに、ちゃんと戻ってきたんだから……。」


榊原は笑いながら答えた。


「いや、俺一人じゃ無理だったよ。お前と芽衣がいてくれたからだ。」


電話の向こうで、千夏が何か言おうとしたが、涙声に詰まり、そのまま黙り込んだ。


「ありがとう、千夏。芽衣も。俺……もっと頑張るから。」


電話が切れた後、榊原はスマホを胸に抱え、しばらく目を閉じていた。


ロッカールームは静かだった。榊原は一人、椅子に座り、何度も深呼吸をしていた。これまでの辛い日々、悔しさ、そして支えてくれた家族の顔が次々と浮かぶ。


ふと、涙が頬を伝う。誰もいないのをいいことに、タオルで顔を覆い、声を出さずに泣いた。


(俺は、まだここで戦える。家族のために、もっと強くなる。)


その夜、札幌の夜空には星が輝いていた。


榊原の心には、明日へ向けた強い希望の光が灯っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る