First Contact 13
にっこり、笑顔で神尾が両手に布製の鞄を持って頭をさげて挨拶している。
「よろしくお願いします」
玄関に出てドアを開けて。固まっている滝岡に構わず神尾が、それじゃあ、といって中に入っていくのに動けずに思わず見送って。
慌ててドアを閉めて後を追いかける。
「おい?神尾?」
「結構広いんですね。これから、よろしくお願いします」
まるでモデルルームをそのまま使用しているような広いダイニング兼リビング。そして続くキッチンを感心しながらみて。
振り向いてにこやかにいう神尾に滝岡が疑問を顔に張り付けたままいう。
「神尾、おまえ、なんでここにいるんだ?」
「月曜からこちらの病院に勤務することはお話しましたよね?」
「事後承諾だけどな?まあ、――それにしても、事務長もよく考えたものだ」
病院で聞いて驚いたことを思い出して滝岡がいうのに。
鞄をダイニングの椅子に置いて神尾も少しあきれたようにうなずく。
「僕の身分が公務員なので困って、――つまり、」
「つまり、出向扱いにするとはな?まったく何を考えてるんだ。しかも民間病院に出向扱い?それって左遷だろうが」
いやそうに眉を顰めていう滝岡に笑う。
「いやですね。今回の場合、僕が希望してのことですから。感染研に籍はある状態ですが、そちらの病院で診療行為をしたことについて問題にしない為にもその方がいいんです」
先日来の騒ぎを思い出して滝岡が渋い顔をする。
「それは、…ややこしいな、まったく、…―その上、期間が短いとまずいと?」
「ええ、一日は勿論、一週間や一ヶ月ではそんな短い期間の出向というのは却って扱い辛いという話で。事務手続きの問題ですが」
「…だからといって一年間というのはな、…それで、うちにくればおまえの必要としてる調査とやらもできるのか」
椅子を引いて座る滝岡に神尾もその前にテーブルを挟んで座り、大きくうなずく。
テーブルの上に手を組んで。
「お話しましたが、僕は臨床をもう一度経験したいんです。感染症を研究する上で防護策、海外からの感染症が増える中で、どのようにしたら尤も効果的な防衛方法がとれるのか、――防疫に関して、机上ではいくらでも考えつきます。それを実際にマニュアルにして、こちらのような病院へも配布される資料を作ってきました。けれど」
言葉を切る神尾に滝岡が右手に顔をあずけていう。
「おまえは齟齬を感じ始めていたというわけだろう?実際に実効性があるのか、――新しい感染症が広まるのを防ぐ為の防疫方針は、果たして本当に実行することができるのか」
「効果があるのか」
滝岡の言葉を継いで神尾が視線を伏せる。
「そうなんです、…―空港や港、海外から旅行客等が来る際の関門を中心とする従来の防疫政策では限界があることについては、実は誰もがわかっていることだと思うんです」
視線を伏せたまま考えるようにして。
「実際に今回はモデルが崩壊しました。患者さんが直接病院に来てしまって。検疫所を通して保健所にまず報告されて、病院への搬送は感染症指定病院に隔離して搬送してから陰圧室へと運ぶ。その手順が総て狂ってしまった」
神尾の言葉に滝岡が頷く。
「たったそれだけのことだが、…――」
「実際にいまのマニュアルは理想的な状況をしかみていないんです。もし渡航者でない人が感染して、それが今回のように病院を受診してしまったら。その際は何の準備もできずにその感染症であることを疑うことすらできずに対応することになります」
神尾が陰圧室へと患者を運ぶ際にいった冗談、を思い起こして。
「…寒すぎるホラーだな。実際にもありえる話だが」
いやそうにくちを曲げて向こうをみる滝岡に少し神尾が微笑う。
「おまえな」
眇めた目でそれをみる滝岡に微苦笑を零して。
「いえ、…でも、その悪夢はいつでも現実に成り得るシナリオでもあります。不顕性の患者が入国して国内で渡航歴の無い人が。そこからもし感染したら」
「不顕性の患者が一人いるだけでウイルスを撒き散らしてるようなものだからな。本人には症状が無いから自覚が無い。けれど、感染力のあるウイルスを外に放出している。不特定多数の人が集まる場所等で、そうした患者と接触して感染する可能性は常にある」
深い黒瞳が沈むようにして、何かを見据えるように沈黙する滝岡を神尾がみる。
「…僕は、そうした際に何が出来るのかを考えなくてはならないと思っています。それは不測の事態ではないんです。誰もが恐れていて、…―どう対応したらいいのか、わからないでいる」
「わからないか」
黒瞳があげられ、正面からしずかに滝岡が神尾をみる。
それに苦笑を返して。
「わかりません。どうしたらいいのか。僕は、いまの日本は感染症に対して…ある意味、防御策が成功した状態が続いてきた為の危機に陥っていると考えています」
「…――危機か」
「ええ」
神尾が何かを噛み締めるようにしながらいう。
「結核を見逃す医者が多くなって、――結核を過去の病気と捉えるあまりにそうした信じられないような事態が起こっています。診断を誤った為に、風邪と誤診された患者が多くの人に集団感染を引き起こす事態も連続して起きています。衛生的になりそれらの感染症が減って、それを総て過去のものと捉えて対処する方法をおろそかにして教育に重点を置かなかった結果です」
滝岡がしずかに語る神尾をみている。
「…――けれど、日本が克服して過去の病としたはずのそれらは、けして過去の物ではありませんでした。それらは流行国からいつでもすぐにやってくることができる時代にとうになってしまっている。数時間で日本と海外の流行地が結ばれる」
微苦笑を、痛いように零して神尾が言葉を切る。
「…流行地から発症する前に感染してすぐ症状が出る前に到着することができる状況です。いま空港等でサーモグラフィで熱を計ったり帰国の申告をしてもらったりしていますが。…発熱がなければ、チェックすることはできません」
「今回のマラリアの患者さんもそうだが、―――潜伏期間に検疫を擦り抜けることになった」
「ええ、そうです」
「…今回の患者さんは、まだよかった。NARSを疑われた為にマラリアの判定が早く出た。治療開始が遅れなかった」
しみじみと噛み締めるようにしていう滝岡に神尾が頷く。
「本当にそうです。最初は風邪や胃腸炎と間違いやすい症状が出ることもあります。そうして対応が遅れて劇症化して海外で罹患した患者さんが死亡した例もあります」
無言で滝岡が考えるようにする。
神尾が続ける。
淡々と、何かを噛み締めるようにして。
「到着時での発症を検査するだけでは限りがある。それは無理だと。それで防げる訳はないと。では、どうしたらいいんでしょう?」
疑問をくちにして真摯な表情でくちを噤む神尾に滝岡が黙って視線をおく。
それに、僅かに息を吐いて。
「僕は、考えていただけでは結論はでないと思うんです。でも、いつかは本当に世界中に新しい感染症が広がり、この国にもやってくることになります。いままでが運が良かっただけなんです。SARS、ブタインフルエンザと呼ばれたH1N1/2009、MARS、それに今回の、…あるいは、エボラやマールブルクといった出血熱」
言葉を切り、静かに続ける。
「或いは夏の短い時期とはいえ、蚊による感染が確認されたデング熱のような亜熱帯地域でのみ流行していたと思われていた熱病。単に見逃されていたのか、いつから日本に生息していたのか不明なマダニに刺された患者が西日本で発症しているSFTS―――」
神尾が静かに感染症について語るのを滝岡が見つめる。
「僕は医療の中で何かを変えていかなくてはならないと思うんです。少なくとも感染症に対する防護について、多くの事を考え直さなくてはいけない時期に来ているのは確かだと思います」
真剣にいってから、視線をあげて神尾が滝岡を見る。
「僕は、…―それには臨床を知るしかないと思うんです。これまで研究をしてきて実地に実際に行うには難しい机上の理論でだけ防疫が組み立てられてきた気がします。それではいけない、――。ですが、僕は現場を知らないんです」
真面目な顔で見つめてくる神尾に滝岡が僅かに眉を寄せて息を吐く。
「おまえな」
「真面目すぎますか」
微苦笑を零していう神尾に、あきれてみて。
「それで、うちの病院に感染研から出向扱いにして臨時職員として一年間勤めることにするんだからな」
「それは、出向ということにすると丸くおさまると事務長さんがいわれたことで思いついたんです」
楽しそうにいう神尾にあきれて横を向いて滝岡がいう。
「まあな、…ったく事務長も、――それならだが、調査とかだけを時々やりにくるのではだめなのか」
「どうなんでしょう?わかりませんが、…やってみないとわからないこともあると思うんです。アメリカや他の国で勤めてみたときもそうでした」
「おまえな、…熱心すぎるぞ、…けどな、神尾」
「はい」
見返す神尾に真剣にいう。
「おまえが調査のつもりだろうが、患者さんにとってはそれが本番なんだ。一度きりの。いまそこにいる患者さん達にとって、おまえが研修医であろうが出向中だとかそんなことは関係無い」
まるで怒っているように厳しい視線でみていう滝岡に。
「――――…はい」
僅かに眉を寄せて、真摯に見返す神尾に。
「…―まったく。おまえに初診は任せないからな?しばらく高井先生他の下についてもらう。構わないな?」
「はい、勿論です。僕も初診につくのは怖いですから」
「…―なんで、おまえみたいなのの面倒をうちでみなければいけないことになるんだ、…」
「すみません」
「笑っていうな!」
「…――はい」
思わず少し微笑って応える神尾を、滝岡が睨む。
そして。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます