First Contact 12
「確定きました。NARSは否定です」
「…――そうか」
神尾の言葉に掛ってきた連絡に両手を組んで額を落としていた滝岡が一つ頷いて顔を上げる。
「わかった。ネガティヴだな?」
「はい」
笑みを返す神尾にうなずき、滝岡がいう。
「患者さんに伝えてくれ。――高井先生?箕部さん」
内線をかけて、滝岡が安堵を噛み締めるようにして予備室にいる高井と箕部に連絡するのを神尾がみる。
それをみて神尾が診療記録をつけ、NARS疑いが否定されたことを記録して。
「ああ、そうだ。ご家族にも連絡してくれて構わない。ああ、……心配をかけたな。箕部さんも、ありがとう。疲れたろう。…休んでいてくれ。患者さんには神尾先生から伝える。そうだ。ああ、後で、そう、まっていてくれ。では、事務長達に連絡するから」
穏やかな表情で濃厚接触者として、もし感染が確定した場合の為に予防的に隔離対象になっていた二人に滝岡が連絡する背をみる。
「事務長か?結果が出た。ネガティヴ、否定だ。そう、そうだ。ああ、…ありがとう。申し訳ないが、他の事務員達にも伝えてくれ。そうだな、水岡先生?」
事務長や水岡達に連絡しているのをみて、陰圧室へと向かう。
「御気分はいかがですか?はい、そうです。先程、連絡がきました。NARSではありませんでしたよ」
陰圧室に防護服を着ずに入って来た神尾をみて患者が驚いてみているのに微笑んで。
「ええ、否定されました。ほら、動かないで。でもマラリアなんですからね?しばらく治療はしっかり受けてもらわないと。それで、御連絡されたい方はいらっしゃいますか?」
症状が落ち着いてきている患者に、当初聞けなかった連絡先などをあらためてきいていく。
「事務長?そうだ、ああ、―――先方にご挨拶に回る順番を作ってくれ。そうだ。御礼に伺わないとな。…ああ、ご迷惑をかけた。私が代表していこう。水岡先生達には、そう、うん。師長には休んでもらって、いま入っている看護師には全員交替が来たら一日、そう、シフトを組み直さないとな。手術日程の確認、そう、それに今回の対応の記録と、そう、問題点を洗い出してくれ。そうだ、先に気がついた点を書き出しておいて会議のときの叩き台にしよう。ああ、――…ありがとう。事務長、申し訳ないが、もう少し頑張ってくれ。そうだな、五ヶ所だったな?先方に迷惑でなければ今日回れる所は、そう、――うん。院長にはそちらから伝えてくれ。頼む、…―すまん、では頼む。神尾?」
内線を切って、戻って来た神尾に滝岡が振り向く。
「大変ですね」
「何がだ?…――患者さんはどうだった?」
見あげる滝岡に笑んでメモをみせる。
「よろこんでましたよ。尤も、マラリアであることには違いないですから、これから治療はきちんと受けてもらわないといけませんが」
「それはそうだ、…これは?」
「こちらに代わりに連絡していいですか?ご家族の御連絡先を聞きとれたので」
メモをみて滝岡が沈黙する。
「所持品に携帯もなくて、連絡先も書いたものが何もなかったからな、…保険証の住所には一人暮らしらしく、ご家族に連絡がとれないと保健所の人達がいっていたんだが」
「そうですね。僕も先の診察のときにもあまりはっきり聞き取れなくて、でも症状が落ち着いてきてきちんと聞き取れてよかったです」
「それはな、わかった。けど、ここからは掛けられないから事務長からかけてもらおう」
「国際電話は無理ですか」
微笑む神尾に滝岡が肩を竦める。
「しかし、ご家族がアメリカか、…」
「世の中、国際的ですね」
「いってろ。…事務長?」
荷物を手に入って来た事務長に驚いて滝岡が顔を向ける。
「おはようございます、神尾先生、滝岡先生。この度はお疲れさまでした。まだ、これから患者さんを新しい病室に移して診ていただいたりとか神尾先生にもお願いしないといけませんが、とりあえず、御二人ともちゃんとした朝ご飯はまだでしょう?」
弁当を二人分袋から出してみせる事務長に滝岡が肩の力を抜く。
「ありがとう」
「こちらに置きますね?これ、御茶です」
弁当とお茶を並べていく事務長に滝岡がメモをみせる。
「丁度良かった、事務長。患者さんの家族の連絡先がわかった。そちらから連絡してくれないか?時差とか、どうなのかよくわからんが」
「…――時差ですか?…アメリカ?」
驚いて事務長がメモをみるのに、滝岡が笑う。
「そうだ。まったく、驚いたよ」
「でも、あの方日本人で、日本の保険証も持ってましたよ?どうしてご家族がアメリカに」
「さあな、頼む。神尾、嫌いなものないか」
不意に振り向いて滝岡がきくのに神尾が驚いて顔を向ける。
「え?いえ、――何でも食べますが」
「そうか、なら、ほら弁当だ。ちゃんとしたメシだぞ」
あれじゃない、といって顔をしかめる滝岡に神尾が笑う。
それに、紙袋を持ち直して事務長が訊ねる。
「そういえば、神尾先生。患者さんの栄養食ですが何が食べられますでしょう」
「カルテにオーダーを書きます。まだ点滴で栄養を補給して、――固形物はしばらく難しいでしょうね」
「では、こちらには食事を運ばなくても」
「大丈夫です。マラリアですので、新しい病室に関してはお任せします。個室の方がいいかもしれませんが」
「わかりました。では、また参りますので。…しかし、アメリカですか、…向こうは何時でしょうね?」
メモを手に出ていく事務長を見送って、さっそくテーブルに置かれた弁当を滝岡が開ける。
「お腹、空いてたんですか?」
それをみて笑う神尾に滝岡が眉を寄せる。
「患者さんには悪いが、腹は減った」
蓋をあけて顔を輝かせる滝岡に神尾が笑んで。
「お弁当、高井先生達にも?」
「ああ、もっていくんだろう。うまそうだな」
事務長が持っていた袋は、と訊ねる神尾に答えながら。
両手をあわせて滝岡が目を閉じる。
「いただきます」
「どうぞ」
思わず面白くなってみている神尾に気付かずに、うまそうに滝岡が白飯にごまの乗ったあたりに箸を入れて食う。
「…――うまい」
目を閉じてかみしめて頷いている滝岡を眺めて、つい笑んで。
――面白い人だなあ、…。
神尾もひとくち、くちに運ぶ。
「…美味しいですね」
「最高だな。うまい」
しみじみかみしめて食べている滝岡に微笑んで自分も食べながら。
経木の薄い木肌の折箱に詰められた弁当に感心しながら、久し振りにこんなちゃんとしたものを食べるなあ、と思っていると。
御茶を飲みながら滝岡が神尾をみる。
「はい、何でしょう?」
「いや、ここ頼めるか?病室も変わることになると思うが、それに後の治療だが」
神尾が微笑んで窓越しに患者の姿をみる。
「大丈夫です。僕が続けて診てよければ、対応します」
「できるなら、頼む。俺が戻った後、今後どうするか相談しよう」
「…―何処か出られるんですか?」
滝岡が頷くと首をひねって伸びをする。
「…ああ、後で挨拶回りにいく。今回転院で迷惑をかけた先の病院にな。それと患者さん達の術後も確認したい。何事もなければ全員終わってる筈だ」
「―――転院先、全部回られるんですか」
驚いていう神尾に、目を閉じてぐるぐる肩や首を廻しながら滝岡が応える。
「ん?全部といっても、五ヶ所だけだぞ?全部近所だしな。御礼をいって今回の顛末を伝えないとな」
「大変ですね」
「そうか?急に手術を割り込ませられる方が大変だぞ?それに転院した患者さんもな。後を頼む」
滝岡が穏やかに微笑んで神尾をみて。
「…――ええ、僕でよければ」
「おまえしかいないだろう。感染症専門医で、マラリアを診たことがある医者なんておれの知り合いにはいない」
不意に滝岡が悪戯に笑んで、神尾にいう。
それに、つい苦笑して。
「いないんですか?お知り合いには」
「いないな。おれの知り合いは殆ど外科医で、内科だって国内専門だ。マラリアを直接診たことのある医者はいないと思う」
楽しげに笑んで悪戯気な黒瞳でいう滝岡に微苦笑を零す。
「どうして、直接診たことがあると思うんです?」
「違うのか?」
「教科書や資料で知ってるだけかもしれませんよ?」
いってみせる神尾に、滝岡がふーん、と右手に頤を預けてみる。
「あるだろう?」
それに苦笑して。
「はい、あります。…以前、研修というか、研究のついでに実地に診療を。幾度か各地で行ったことがあります。マラリアは特にポピュラーで他の感染症と鑑別する必要がよくある疾患ですからね」
「で、現地に行ったのか」
少しあきれた顔でみる滝岡に笑んでうなずく。
「そうです。感染症の研究に実地は欠かせませんからね」
「そういうものなのか」
驚いた顔でみて内線のシグナルに顔を向ける。
「すまん」
中断を断って席を立ち受話器を取る。
「ああ、わかった。私が出る。うん、調整を頼む」
「事務長さんですか?」
通話を終えた滝岡に訊く神尾に振り向いて。
「そうだ。悪いが厚労省から役人が来たらしい。対応に出る必要がありそうだ。此処を頼めるか」
「わかりました。どうぞ」
「ああ、頼む」
それから、綺麗に食べ終わって蓋をした折箱に手をあわせて。
「ごちそうさまでした。じゃ、頼んだ」
いうと、もう既に背を向けて出ていく滝岡を見送って。
――やっぱり、何ていうか、面白い人だなあ、…。
こんなに面白い人には初めて会うかもしれない、と。
思って、それから。
「ごちそうさまでした」
さて、患者さんについて高井先生達と相談しよう、と。
「マラリアの患者さん、ようやく退院できますね」
「そうだな、…世話になった」
「誰がですか?いえ、はい。こちらこそ」
二人で並んで歩きながら神尾がいうのに。
少し横を向いていう滝岡に笑んで神尾が視線をあわせる。
「こちらこそ、臨時に雇っていただいて無理をいろいろいいました。ありがとうございます」
「…いや、――これから、どうするんだ」
滝岡がいうのに神尾が少し真面目な顔になる。
「それなんですが」
「何だ?」
渡り廊下に足を留めて滝岡が視線を向けてくるのに。
手にしたボードにちょっと視線を落として神尾がどうしようかな、という顔をする。
「つまり、――うちに来るのか?どうして?」
驚いて問い返す滝岡を前に、神尾が休憩コーナーのソファに座ってみあげながらいう。
「事務長さんが」
「事務長が?」
中庭からの光が射す床まで硝子になっている窓の傍に。背もたれの無い四角い黒い革張りのソファが幾つも硝子窓と壁に添って置かれたコーナーに腰掛けて滝岡が眉を寄せる。
「おまえ、…感染研に戻るんじゃないのか?」
「この一週間、病院のことも解ってきましたから」
「それは、…」
「看護師さん達とも仲良くなれましたしね」
「それは大事だけどな?チームワークは。けどな?」
「内科や外科の先生達とも知り合いになることができましたし、事務に技師の人達とも」
にっこり、微笑んで見返す神尾に滝岡が詰まる。
「それは、…だが、」
「事前に、こうして仕事ができる機会を得られるなんて、滅多にないことですしね」
「それは、…―けど、おまえ、第一おまえ、研究がしたいんじゃないのか?それで感染研にいたり、感染症の研究の為に海外で医療活動までしてきたんだろう?」
黒瞳が真直ぐ疑問を浮かべて見返してくるのに、神尾が、ふ、と息を吐いて。
「どうした?」
眉を寄せる滝岡に笑む。
膝に置いたボードに手をおいて、
「いえ、…僕は確かに臨床での経験も積みましたが、それは研究をする上で必要と思ったからでした。実際にとても役に立ちましたから」
「そうだろうな、…だったら」
「だったら、どうして臨床に、ですか?どうして民間病院の内科医になろうとするのか」
真直ぐ見返してくる神尾に大きくうなずく。
「そうだ。おまえのキャリアから考えたら、それにこれからしたいことを考えたら、…―普通の病院の臨床医は向いてないんじゃないのか。ここにいても珍しい感染症の患者なんて普通こないぞ」
まあ今回みたいな例外はあるが、と顔をしかめる滝岡に笑って。
「おい!」
「ええ、…そうなんです。こちらの病院に来られるのは普通の患者さんたちで、…先生がこちらに欲しいのはそういう普通の患者さんをみる医師ですよね?この病院に勤務してほしいと思ってるのは?」
「―…そうだ。来原先生が定年でやめられる。その後任をうちでは探している。感染症について研究する医者じゃない」
「でも、そう簡単に後任が決まったりはしないでしょう?実をいうと事務長から後任というか候補として研修医を数名引き受けられるときいています」
「…きいてるのか。なら」
「ですので、僕は嘱託医といいますかパートタイムとも違いますね、…臨時雇いの延長というのかな?」
「なんだって?」
神尾が懐から封筒を取り出して中をボードの上に広げる。
「読んでください」
「―――契約書?…――」
書かれた内容に滝岡が大きく眉を寄せる。
「どうでしょう。事務長が考えてくれた僕を臨時雇いする抜け道をみせてくれたときに僕が追加を思いついたんです」
微笑んで示す箇所に滝岡が眉を寄せたまま唸る。
「…―とんでもないな、…」
「こちらの病院に迷惑はかけません。僕としても感染研の方としても、これでしたら」
滝岡が唸ってボードを手にして睨むようにする。
「みてても、何も出てきませんよ?」
「…おまえな」
そういう神尾に滝岡が顔をあげて睨む。
にっこり、とそれに笑顔で。
「よろしくお願いします」
思いきり滝岡がそれをにらんで。
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