First Contact 2
「何故、うちが選択されたんだ、…」
低く呟くように額を押さえていう苦い声が、音量も高くないのに大きく響いて、驚いて神尾はその声がした方を見つめていた。
事務長について滝岡総合病院内部の模式図を前に説明を簡単に受けた神尾は、二階に案内されてきた処だった。
二階は関係者用の設備が揃っている。その中でも最初に案内されたのが、ここだったのだが。
まずこちらで御挨拶を、と事務長が扉を開けた途端、先の声が聞こえてきていた。
背の高い白衣。
鍛えられた均整のとれた姿勢の良い背に、少しばかり頭痛がするようにして、俯いて額を押さえているのがみえる。
しっかりと立つ背に、神尾がおもう。
―――…外科医さんでしょうか、…?
首を傾げてみる神尾に気付かず、低く声が続けている。
思わず注目しているその前で。
「…何故、うちに直接来る、…」
唸るような声には、室内の誰もが沈黙を守り応えない。
さらに、低く声が続けていく。
「…保健所はどうした?…検疫も全部擦り抜けたのか、…?そんなことが、…―――」
間違ってるだろう、とぼそり、と呟く声が昏い。
神尾が目を瞠って思わず見つめる。
「…入院、…。患者さん達をどうする、――――」
根暗くつぶやいている声が、本当に低く沈んでいる。
静止した空気は、かれが生み出したものだろう。
思わず、のんびりと神尾はその背に声をかけていた。
「…あの、一体何があったんでしょう?」
ほぼ同時に。
いきなり、背の高い白衣の男が顔をあげ、厳しい声で部屋にいる他の者達にいう。
「閉鎖する。いまから、滝岡総合病院は全域封鎖をレベル4で開始する。緊急対応の放送と現時点でこの病院内にいるものはすべて移動を禁止、一般受付にいる患者さん達には職員から説明。警備に連絡して院内封鎖と外部アクセスを至急閉じるように伝えろ」
「はいっ、…!」
助手とおぼしき青年が慌ててパソコンを操作し、内線に飛びついて呼び出しをかけ伝え始める。
「…レベル4、ですか?」
思わずもつぶやく神尾に、気がついていないのだろう。
背を向けたままの男は、矢継ぎ早に指示を与えていく。
「西野、師長は」
「まだです!現在、三病棟二階ナースセンターから移動中!」
「わかった。―――それにしても、…チュニジアというのは、アフリカの何処だったか」
指示しながら、低くつぶやく背に神尾が声を掛ける。
にっこりと。
「北アフリカです」
「――――なに?」
眉を寄せて凄い形相で振り向く相手の黒瞳を、興味深げにみながら、神尾はのんびりと繰り返していた。
人当たりの良いとよくいわれる、とっておきの笑顔で。
にっこり、笑みを返して。
神尾がのんびりと続けるのを、正面から向き直った相手が胡乱げに見返す。
「はい、北アフリカです。チュニジアがあるのは。どうかしたんですか?」
「…どうかって、…きみは誰だ?」
睨むようにしていう相手が白衣の首から下げている身分証に書かれている名字を確認する。
医師で、…この名字は、――。
「いつからいた?…事務長?」
訝しげに問う背の高い男に、事務長があわてて応える。
「は、はい、滝岡先生。いま院内をご案内しておりまして、―――院長からご紹介のあった、神尾先生です。こちらに勤務されるかもしれない、―――」
事務長の言葉に、滝岡が眉を寄せる。
「…院長の?―――来原先生の後任候補か?」
不思議そうに問い掛けてから、滝岡が一度言葉を切る。
「…いや、わかった、それは後で良い。それより、此処へは何処から入った?関係者入り口からか?それとも、表、正面から来たのか?」
真剣に問う滝岡に首をかしげる。
「ええと、多分、関係者用の入口です。中を案内してもらっていて」
「そうか。事務長、此の人は総合受付には?まだ病院の中は案内してない?」
「はい、あの、…ここへは一番に。裏の入口から直接、一応ご挨拶に、――その、何かあったんですか?」
滝岡の真剣な面持ちに押されて少しばかり脅えるようにしながらいう事務長。
初老の事務長を前に、少し落ち着こうとするように滝岡が視線を伏せて、軽く息をつく。
何から説明すればいいのかを考えるように。
神尾が、不思議そうに首を傾げて思わず考える。
…チュニジア?
難民キャンプ繋がりで、何か記憶にあったような、と。
滝岡が、少しばかり座った視線で事務長を見据えて淡々と言葉にしていくのを、神尾は傍観する。
淡々と滝岡が感情を交えずに言葉にしていく。
「いま、内科の高井先生の所に、初診の患者がきた」
「はい、…それが?」
問い返す事務長の前に、神尾は滝岡の視界に入るように、何も考えずに歩を進めていた。
「おい?」
それに戸惑って見返す滝岡に。
神尾が、どこかぼんやりとしながら真顔で見返す。
「―――もしかして、その患者はチュニジアから?」
「…その通りだが」
「それは、つまり、…North Africa Respiratory Syndrome Coronavirus、NARSコロナウイルスの感染が疑われる患者ということですか?」
真顔で問い掛ける神尾に、滝岡も真顔で見返す。
事務長が神尾の言葉にあわてて滝岡に問い掛ける。
「え?あの、…まさか、いま北アフリカで流行している新しく発見された感染症で、いまニュースになってるアメリカやヨーロッパでも患者が見つかってWHOが、あの、その感染症の患者さんが?死亡率80%とかいう、…?」
パニックに陥りかけている事務長を、滝岡が眇めた視線で見る。
「致死率は65%だ、いまの処だが。北アフリカの難民の中から見つかって、集団感染で113人の患者が死亡している。北アフリカからイタリアに難民船で渡る中から死亡者が出て、いまヨーロッパはパニックに陥っている。まだ発見されたばかりで、感染経路は不明。イタリアから移動した患者がアメリカでも隔離されている」
立て続けにいってから、座った目で淡々とくちにする。
「そのNARS疑いの患者だ。流行地のチュニジアから帰国して、発熱があってうちにきた。初診だ」
「…――――」
目が座っている滝岡に、事務長が言葉を失くして見返す。
「あの、その、でも、…」
沈黙して、それから。
事務長がパニックに陥ってくちにする。
「でも、それは、…!検疫所に連絡してから、対応できる専門病院に搬送されてという手順になるはずじゃないんですか?どうしてうちに直接くるんですか!滝岡先生!」
混乱している事務長に滝岡が深く息を吸う。
重苦しい間が、室内に漂う。
「わからん。…―――来てしまったものは仕方がない。…患者さんは総合受付に直接来たんだ。初診でな」
「…――初診、…うちの病院に来たこともなかったんですか?どうしてそんな、…――うちはクリニックじゃないんですよ?総合病院ですよ?それに、…ああでも、ですからね?」
うろたえている事務長に、滝岡が深く息を吐く。
「そうだ。紹介状もなかったそうだ。…とにかく、きみは、総合受付は通ってないんだな?」
唐突な滝岡の問い掛けに、思わず神尾が無言で頷く。
大きくそれに滝岡が肯いて。
「わかった、ここから動くな。外へ出られるのは、――いつになるかわからん。師長」
「お待たせしました。滝岡先生、NARSかもしれない患者さんが来たって、本当ですか?」
入室してきた小柄な看護師長に滝岡が向き直る。
「本当だ。いま一階にいるナースには持ち場を離れないように伝えてくれ。―――西野、保健所に連絡は?」
「つきました!最寄りの保健所からすぐ来るそうです、唯、」
先から、パソコンと内線を駆使して院内各所に連絡をとっていた青年――西野が振り向いて、滝岡の声に応える。
それに、滝岡が眉を寄せて。
「唯、何だ」
「…検体を採取したり、その、患者さんを搬送できるのははやくて二時間後になると、…」
「二時間後、…」
呟くようにいって、滝岡が沈黙する。
事務長がおろおろと厳しい表情の滝岡に呼び掛ける。
「…た、滝岡先生?」
「わかった。とにかく、その患者さんは総合待合い室から初診の待合いに移動して診察室に入っている。――どう移動して、待合の座席で何処に座っていたかなどは、まだわからないな?」
「はい。いま、警備室と連携して、監視カメラから動線を分析してもらってます」
「わかった。何れにしても、空気感染を考えれば、―――総合待合い室の何処に座っていたかに関わらず、待っていただく患者さん達は、同じグループとして一階の別の場所に待機してもらおう。
とにかく、保健所の職員に聞き取りをしてもらうまでは帰せない。ホールに待機所を作ってくれ」
「わかりました。手配します」
西野が手配をはじめるのにうなずくと、滝岡が師長を振り向く。
「師長、ナースセンターから入院病棟には人をやったか?」
滝岡の訊ねる視線に師長がにこやかにうなずく。
「はい、レベル4演習の規定通り、この場合は感染疑いの患者さんとの接触がない看護師を行かせました」
「わかった。ありがとう」
手にしたタブレットに師長が何やら書き込んで追加の指示を入れているのをみながら、滝岡がつぶやく。
「見舞客、…――疑いの患者は何時に来た?」
振り向く滝岡に、西野がパソコンモニタに貼ったメモをみる。
「九時半に受付です」
「わかった、――師長、九時過ぎに中に入ったお見舞いの人には、渡り廊下に一番近い部屋に待機してもらってくれ」
「談話室ですね?」
師長の確認に滝岡が頷く。
難しい顔で滝岡がいう。
「そうだ。くれぐれも、帰らせないようにしてくれ。納得してもらうのが難しいだろうが、―――。保健所の人が聞き取りをしたら、帰ってもらえるだろうから、そう説明してくれ。――見舞いに来られた方の入室経路の聞き取り、それに」
「訪問した患者さんのリストですね?」
「そうだ」
滝岡の言葉を聞きながら、タブレットに同時に入院病棟の看護師への指示としても入れている師長を前に滝岡が肯く。
そして、滝岡があらためて事務長と西野をみる。
「いいか?絶対に、患者さん達を守る」
「はい!」
「はい」
西野と師長が応え、事務長が緊張した面持ちで、無言でうなずく。
「あらためて職員に警備員も、全員、いまいるエリアから離れるなと伝えてくれ」
「はい」
西野が各所への指示を重ねて流す。
それに、重い息を滝岡が吐く。
「あらためて、絶対に、病棟と総合受付のある診療棟を往復しないように徹底するよう伝えてくれ、師長。現在いる病棟から出ないことを守るように」
「かしこまりました」
師長の返答に滝岡が息を吐いていう。
「―――これから数時間、事態がはっきりするまで出入りはできない」
きついとは思うが、という滝岡に師長がうなずく。
「帰りたい子もいるでしょうが、いまは仕方ないですね。…――うちで保育していない子供さん達がいるスタッフに預け先があるか確認します」
「頼む。…――おそらく、うまく運んでも、数時間では終わらないだろう。すまないが、宿泊準備と非常食の確認も頼む」
「滝岡先生、それはこちらで行いますよ。非常食の確認も」
事務長がくちを挟むのに、滝岡が視線を向ける。
「わかった。では、そうしてくれ。各病棟では、――」
「病棟配置の事務スタッフにやってもらいましょう。看護師さん達は、患者さんの御対応を」
「そうですね。そうしていただけると助かります。滝岡先生、こちらに関しては、私達と事務長とで調整してもよろしいですか?」
「わかった、任せる」
「ありがとうございます」
師長の提案に滝岡がうなずき、事務長が礼をいう。
微かに緊張をみせて事務長にうなずく師長に、滝岡が穏やかで強い視線を向ける。
「大変だが、頼む」
「――はい」
「かしこまりました」
事務長と師長がうなずいて視線を交わす。
「―――外来だが、一階エントランスから、総合受付、初診受付までにいる人間は、誰も許可が出るまで外に出ることはできない。
疑いが晴れるか確定するまで、職員は誰もここから出られないと思ってくれ。無論、外来の患者さん達も同じことになる。―――――
師長、入院患者の食事の手配、その他、外部から業者が入る所の報告も頼む」
「はい」
「全員、交替はできない。出勤は止めてもらう」
滝岡の言葉にタブレットにメモをとって頷いて、師長が顔をあげて事務長をみる。
「わかりました、――事務長」
「外来の患者さん達と職員の食事等はこちらの方で手配します。受け渡しはエアロック方式なら可能でしょう。業者さんへの連絡と、これから勤務予定の看護師さん達への連絡は手分けしましょう」
「そうですね。では、私は病棟へ」
師長が事務長にあいさつして先に部屋を出て行く。
滝岡が西野を振り向いて。
「院内の見取り図を、――おい、何をしてるんだ?」
西野に院内の見取り図を依頼しようとした滝岡が言葉を無くした。
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