「遁げ武蔵」8 END


 武蔵の知らぬことだが、このころとうに勝敗は決していた。

西軍は破れ、東軍は勝利の勝どきを天にあげている。

天満山に遁れた武蔵は、軌道をずれ遁れるはずが戦場に既に勝敗の決したこの刻に、かえって東軍徳川家康の陣に向けてひた走りにはしってあったかたちになってしまっていたことを知らない。

家康の陣が動いた為に、より前線――この場合は西軍、つまり天満山――にちかくなり、その先陣に立って指揮をとってあったことなど。その前線の陣に向け、まるで走りに走り矢のように近づこうとしていたかたちになっていたことなど、むろん武蔵は知らなかった。

 まるで敵地から、敗れて一線翻し、敵の総本山本陣の只中を、家康の首ひとつ狙ってひたすら走り目指していたかと見えたのは。

 むろん、しらぬところである。

かくして迎え撃たれたとは、武蔵のまったく知らぬことだ。

 もっともいまだ本陣は遠い。本陣の姿も見えぬ此処でなければ、谷を滑落し骨が既に砕け落ちていようとも、絶命の一撃を加える為に探し出し、骸にであろうとその刃を突き立てていたことであろう。

 武蔵を無明の闇に見送ったしのびは、とうに離れて己が円陣にもどってある。

 戦場は移り、本陣もまた動く。遠く幾重にも張った見えない円陣にて本陣に迫る敵を討ち果たす役割を荷う一点である忍は、名を覚という。家康の忍びである。

 一陣の風の如く、無言のうちに己のいるべき輪に移動していく。

 本陣の移動に連れ、取り巻く輪もまた移って行くのである。

 さて、その本陣家康のある東軍は此度の戦に勝利を収め、天下を確かなものとしていくのだが。

 谷底の闇に消えた武蔵には、なにもかもしらぬことである。

文字通り頭上を通り過ぎていく、時代の激しい轟きであった。






翌早朝。

青いそらが、昨日の雨が嘘だったかのように、さわやかにあかるい風を連れてきている。

武蔵は、目をひらいた。

大の字になって、川原に転がっている。

生傷が、身体のあちこちに増えて肌が真赤だ。

丸い大きな石がごろごろと転がる川原に目を覚まし、武蔵は青空に見入っていた。

風が吹いている。

随分と流されたものらしい。谷底に落ち、さらに雨に増えた水流に押し流されたものだろうか。小雨であったが、せまい谷が増水していたことに援けられたのだ。

河原に流し落とされた身は、乱暴に扱われた為か痺れて自由に動かない。

傷があかく張れて無残なありさまだ。

だが、武蔵は自然と、おおきく笑っていた。

笑い出すと、呵呵大笑と止まらない。

傷を負い、一文も無く、身になにも持たぬ。

川原の丸石を背に、それでも武蔵はあかるく雲の晴れたような、さわやかな心持で空をみあげている。

無一物となり、傷だらけでありながら、武蔵の心はあかるかった。

青空を風が渡っている。

おもえば、風だけはいつも武蔵の友であった。

武蔵は、大きく笑い空をあおぐ。

往くべき道ついにみつけたり。

無言に、空を見あげた武蔵の目は、ついに生涯を賭けみつめる道を得たことにかがやいている。

後に、剣聖と呼ばれ後世に名をしられることとなる青年は、いまだおのれの辿る道を知らず、だがすでに往くべき道をさだめてある。

四年後、修錬の後、まずは京にその姿があらわれることとなるのだが。

天下に名高い一条寺下り松の闘いなど、待ち受ける幾多の闘いのことも、いまだしらぬ。

ただ、青空に過ぎ行く雲をみつめ、風のすがたをみつめている。

この一身になり、むかうところを得たり。

呵呵と武蔵の笑う声が、明るく渓谷に響いている。



                             


                                   了

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氏政&家康二人旅 「南光坊天海誕生」他オムニバス 「遁げ武蔵」   TSUKASA・T @TSUKASA-T

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