「遁げ武蔵」7


ともあれ、武蔵は戦場にある。

めしをくうために、このとき武蔵は関が原に歩をしるしていた。

雑兵として槍を借り、戦場に立った武蔵は闘いにたたかった。槍首をあげること鬼神の如しといえる。このように闘われては、向き合う相手もたまったものではない。

押し合い揉み合いするうちに、戦場は波のように混乱し、血煙と喚きのなかで、煮滾る鍋のようにわけのわからないものになっていく。血の奔騰に沸き立つ波、ひとりひとりの兵に全体がみえるいわれもない。湧き立って躍り上がる波に、武蔵を含め、戦場にあるものたちは皆呑まれている、――――。

武蔵がふと、動きをとめて流れの中に槍を掻い潜り、その相手の腹に低く擦れ違いながら槍をくわせていたそのときに。

波が、くずれた。

大波が崩れるように、東軍西軍、それまで戦場にあるものにとっては、いずれともわからぬ勢いであった駆け引きが、どっとくずれたのが伝わってきた。

これは、どういう働きであろうか。

戦の流れは、指揮を取る大将として一陣を俯瞰するものでもなければ、その唯中に身を浸すものにとって、常に狂奔する流れでしかない。己が命を賭ける最中に、他がどうなどと構ってはおれぬものだが。それでも、いやそれゆえにか、敗亡の流れは一瞬のうちに戦場を駆け巡る。

波の引くようにというが、戦における勝敗の波も、また露骨なほどに攻める勢いと退く勢いにわかれていく。

武蔵は、己のいる陣が、既に敗亡の流れに呑まれたことを悟っていた。これは、武蔵ならずとも、戦塵に身を置くものたちがなにより磨こうとする勘でもある。負け戦であれば、褒美はもらえぬ。であれば、負ける軍から兵は逃げる。にげて、己のいのちを真っ当する。別に難しいことではない。あとは、ただいかに遁れるかというだけのことであった。

敗走する兵に対して、勝利の兵は勢いもつき、槍の功名に燃え立ってもいる。己の組する軍が勝利すれば、一層褒美に弾みがつくというものだ。また、勝つという勢いは、とんでもない勇猛さをも、ひとに与える。

敗れるとわかり逃げ始める兵がすでにあり、武蔵は斃れる兵からその槍を奪いながら、遁れる道を、戦場にみた。

思案したわけではない。ただ、一顧の内に、遁れるべき唯一の道を見出している。押す勢いの東軍に逆らうのは愚か、ならばいかにしていのちをまっとうしてこの戦場から駆け去るか。

戦勝に逸る兵から、武蔵は己がいのちを守り切らなくてはならない。

さらに後ろに敗走をはじめようという景色のある味方もまた、浮き足立ち遁れ込むものがあればこれを敵兵と誤って槍をつけるものもある話だ。

真直ぐに、何処を駆け抜ければ傷を負わずいのちを保ち、この戦場を抜け出すことができるか―――――。

武蔵は一瞬の内に、往くべき道を見出している。

槍をつけた相手が斃れるのを傘として槍を防ぐと、つきかかる相手に片手で投げる。腹に武蔵の槍をくらわせたまま投げつけられた兵の背に槍を打ち損ねて、もどりうってたおれる雑兵を背中に。さっと姿勢を低くしたまま踵を返し、目指す山腹へ駆け込んである。

戦場に、黒い流れを生むが如き見事さであった。

さきまで、戦の始まるまでに陣取っていた山腹を、武蔵は一閃に目指している。

味方の陣は動いたからもうそこに残るものはない。山腹に駆け入れば最早追うものもなく、遁れのがれて走るうちに、戦はとおく背に去るであろう。

時刻はいまでいう午後一時半。

西軍はすでに崩れてそのかたちをなくそうとしている。



かくして、武蔵は遁れに遁れ、走りにはしってあった。

疾風の如き見事さで、武蔵は戦場からの離脱に成功してある。


かくして何の障碍もないはずの山中で、武蔵は己を塞き止める壁に打ち当たったのであった。



山中に黒土の濡れる中に身を潜め、武蔵は己を塞き止めた主の気配に歓喜している。

駆けに駆け、遁れに遁れた。幾ら走っても行き過ぎるということは無く、関が原を遠く離れて草莽の内に分け入ることだけが、いまはいのちを保つ術であった。

山肌を、黒土がすべる。

武蔵は、うすく己が肌に浮上がりそうな歓喜に漸く微かに気づきつつある。

動くことが出来ぬ。

満腔にあふれることが、よろこびであることをようやく武蔵は知ろうとしている。

あざやかな軌跡が脳裏にあった。

見事な、とくちをひらくことができれば、この無口なおとこがいっただろう。

戦に闘ううちにも、挑まれてこれまで請けてきた勝敗のうちにもけしてひそまなかった不可思議なおもいであった。

樹の主が、いま武蔵を殺すなら容易いことに違いない。

そのことによろこびをおぼえている。

いのちの危機というのにそれは何とふしぎなことか―――――。

武蔵は、己を縛り動けなくしている技量の優れたことに、感心をしているのである。己がいのちが危いというのに、感心などしている場合で無いだろうが。

それでも、この一個の奇妙なおとこ、槍働きも厭わず勝負というものをまるで天災が、いやいっそ雨でも降りかかってきたかのように端然と請け止め、唯飯を食えれば万々歳と何ものをも受け流してきたおとこがいま心底歓喜をおぼえている。

いのちを淡々と保ってきたこの武蔵というおとこが。

空に描かれた軌跡の鮮やかな斬隙のさまに、空をえがいて戻った刃の山に這う雑木の細いとはいえ幹ひとつ飛ばしても恐らく刃毀れひとつしておらぬ得物の強靭なさまに。

刃が唯武蔵の頭上を空に過ぎただけでなく、弧を描いてもとの主の手に戻ったさまも、武蔵は落ちる瞬時に目に留めている。

真直ぐに落ちながら目を前に見開き、四囲の限りを見張るままに目に留めていたのだ。

 滑り落ちた際に、留めること敵わぬ相手の刃が弧を描き、幹とはいわねども樹木の枝にでも当り刃を失い相手に得物の無くなることを、瞬時武蔵は期待していたのだが。

 見事相手の放つ刃は、まるで見えない糸に操られでもしたように、樹上の主が手に戻っていた。

 おもしろい。

 いのちが危ないというのに、おもしろいのだ。

 何と仕方もないことか。

 故郷を出た甲斐があったものだ、と。

 はっきりとそう思考したわけではないが、このとき武蔵はうれしかった。

 術というもの、技量というもの。故郷を出て以来、いや、十三のとき有馬喜兵衛に立ち会いその瞬間の勝利に生死の境を覗いて以来、求めていたものに武蔵が出逢ったこれはその瞬間であったかもしれない。

 生死一如。

 生と死が薄紙の如き微かなもので仕切られてある、その不条理。

 戦の場に、勝敗に生死を賭ける場にありながら、ただ闇雲に突き当たることをもとめていた答えが、いま武蔵のまえに姿をみせていた。

 否、武蔵には求めているという自覚すらなく、唯戦乱の世を漂うように生きてきただけのことであった。

 風にひとり向かい剣を振り、何を求めるかを知らず戦雲のなかに生きてあった。

 一個の、巨大な自覚が武蔵の唯中に膨れ上がってきつつあった。

 われ、求める道みえたり。

 生死の境、いま反撃の手段もなく、遁れ行く道さえないこのときに。

 武蔵の目は爛々と輝いている。

 対して、黒土はぽろぽろと足下に落ちくずれていく。

 足許の谷は深いだろう。土塊の零れ落ちる反響が闇に呑まれて返らぬことが、その深甚とした落差をあかしている。

 樹上にしんと黒々と佇む敵の得物、それが常の刀剣でないことは、武蔵は幹を断ち切る鮮やかな音と空切る音に聞き取っている。

斬隙の目に残した映像は鉈に似たが柄が無くこれまで知るなかに類似がない。このとき滑落を無理に支えながらも武蔵は判別はしきっている。程度は見切っている故、動けない。

 小振りの鉈に似た黒く滑らかに鍛えられ闇に沈む鉄塊のさま。脳裏に浮かぶさまを闇に凝視して武蔵はいる。

滑らかな鉄の塊は重さを充分に持ち、円を描く軌道に捕えられれば、何物もそのまえに断ち切られずにいないであろう。

対して。

武蔵に得物はない。

駆け去ると決めたはじめに槍は置き捨てた。

 武蔵の手が、樹の根をつかんだ。

黒土が手の下にぼろぼろと落ちる。足場と云えば、最早空に踏み締めるものとてない。武蔵が動けば、渓谷の果てしない谷底が待つであろう。

 ほろり、と黒土の塊が落ちた。

 飛来する塊が、剣の鋭さを備える投剣、であったことを武蔵が看破しえたかどうか。根を掴む肩目掛けての一投、避けねば深く抉り腕を落していただろう刃を辛うじて武蔵が捻り避ける。

 さける反動が武蔵を宙に浮かせた。

 次の一投を掌に剣先を包み樹上の影は放とうとした。

 ――――次の瞬間。

 空に躍り上がった武蔵が、樹の根をつかむ反動を利用して。

 宙に浮いた武蔵は、闇に向け落下していく―――――。


 暗闇に、果ても無い空隙に武蔵の体躯は落下しつづけていく。


 樹上に、しんと武蔵の落ちるおとを、闇に消えるかすかな音を耳に写し取るため谷底を見つめる眸があった。

 無明の闇に、微かな音が拾われたのは随分と経ったころであった。

 谷底が深く削り取られた闇に落ちていることを、晴れた日ならば陰差すなかにも見取ることができるだろう。樹林にはいまだ小雨が降りつづいている。

 暗闇と常人には映るであろう無明の谷底を見透かし、観察する。

谷底へ落ちた武蔵の姿を、見透かしてでもいるのだろうか。

武蔵の姿を見分けるように闇に向けられていた耳と目が、ついと逸らされた。

無言のうちに、樹上より去っていく。

闇のみが残った。




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