「遁げ武蔵」5
これを皮切りとして、武蔵は幾度かの勝負をおこなった。
一人を倒せば、また一人が挑んでくる。幾人かを倒せば、倒した武蔵の名はあがり、あがればたおす価値というものもあがってくる。
武蔵を倒すことに、幾ばくかの価値というものがつきはじめてきたものであった。
このころ、武蔵は宮本の姓を名乗っている。
とわれれば名も応え、何処の某かと訊かれれば宮本村の武蔵と応えたものであろう。
つまりは、宮本の武蔵である。郷里の村を、問われればそのまま答えた。本来、武蔵には新免という立派な姓がある。
勝負のときに名乗るとすれば、本来はこちらの正式の名であろう。しかし、いかにも武蔵には、父祖の名である新免姓を名乗るのは面倒くさかった。
新免のと名乗れば何処に仕える新免かとなり、或いは何処の新免かということになる。殊に長々しければ、何処其処に住む何の某、或いは父祖代々にこのような功があった何家の某と、まあそれほどに殊更な名乗りをあげるものはそうないが、いかにもこうした名乗りをあげる作法というものは武蔵にとり面倒なことにおもえたであろう。
さきにはじめての勝負において、相手の名乗りをまたず、また名乗ることもせずにいた武蔵である。
いかにも面倒くさかった。
武蔵も己の名につく面倒な正式の名乗りを知っていたものではあろうが。父にも一応のこと、普段は名乗らぬ平田武仁少輔正家もしくは新免に始まるながながしい名があったことを、武蔵も知ってはいただろう。
後に、五輪書を書くときには、新免武蔵藤原乃玄信と長々書き記してもいる武蔵である。或いは正式な書面に記すには、これはきちんとした署名を残している。数少ない手紙などにも、名を書いている。また政名等と名乗ったこともあり、いちおうは己のつかわぬ名のことも知っていたには違いない。だが、後年書状などに書くならともかく、戦場である勝負の場で、ながながと名乗るのはどうにもいらぬことにおもえたものであろう。
また宮本村の、宮本のと名乗ればそうむずかしいことを訊くものもないから、いっそう便利におもえてこの姓をつかったものであろう。もっとも、村の名をつかったことは武蔵の考案ではなく、おそらく郷里に居たころから、通常は宮本のたれと呼ばれていたのをおぼえていたものであろう。通常、暮らしていくにはそれで充分なのである。立派な長い姓名など普段は使わないものであった。
もっとも、これはあまり武蔵自身がきちんとおぼえてはいない点もあったようなのだが。
父祖の家系もなにもかも、そっくり家ごとおいてきている武蔵には、どうでも良いことでもあったのだろう。
ともあれ、宮本の武蔵ときかれればこたえている。
これが通称として定着するほどに、武蔵もまた気に入ったのだろう。
宮本の武蔵となり、戦場をいくつか渡りあるいている。
ところで、武蔵は恬淡とものごとにこだわりなく生きているかにおもわれるが、実のところ当人はそうおもっていない。
恬淡とこだわりなく、とみているのは周りのものであり武蔵にそのようにおもわれよう、というつもりなどさらさらなかった。
恬淡と、枯淡の境地をめざしている―――わけではない。
戦に出れば、必ず褒美というものを貰う。
ただ働きを武蔵はしたことがない。
何となれば、戦には稼ぎにいくもの、くちすすぎの代を得る為にいくのだから、働いて報酬というものはきちんといただくのである。
ただでは、はたらかない。
つねには、何に拘っているかもわからぬ武蔵が、戦となれば槍数を稼ぎ、他の働きを圧倒して褒美をかせぐ。しかし、仕官の取立てなどに頷くものではない、となれば。これは周囲のものどもにはやはり面白くはないであろう。
通常、戦働きをするのは功名の為、おのれで槍ひとつで城をかせぐ、とまではいかなくとも、働きを認められ、よりよい仕官のみちを、とおもうものである。
或いは、今日と何もかわらず、出世の為に仕えている主により認めてもらうために槍働きをするものもある。
命懸けであるところが今日と異なるとはいえ、出世、立身の為であることには間違いなく。より碌を食み、あわよくば一国一城の主となる為に、ひとは戦場にはたらくのだ。
いや、過労死や突然死に到るまでに働く今日のことをおもえば、まったく異なるところがないともいえるかもしれない。
ところが、武蔵である。
武蔵は、主とりをしようとしない。
もっとも、もともと主持ちでないものも多く、戦場を流れてあるくものも多い。また、後世のように一度仕えた主を見返ることはない、という時代でもない。
よりよい主を求めて、おのれの腕を売り歩く、ということはあたりまえの時代であった。
同じ主に仕えて連綿と、というのはこれは珍しい類のことなのである。
めずらしいといえば、家康の最後まで信長のいきてある限りにつくされた忠誠は他に無いほどに珍しいものであり、一旦同盟を結んで以来裏切ることのなかった律儀は家康の評判をおおきくつくった。
徳川殿の律儀といえば、大きな評判であり。その珍しい律儀さが、一度口にしたことは覆さぬという印象を与え、天下を決した関が原の戦での諸将の動きにも少なからぬ影響を与えている。
それはともかく。
さて、つまりこの時代の槍稼ぎをするものたちには、後に徳川の世に色濃くあらわれる忠誠というものなど殆どなかった。
ひとは己の腕に幾らの値をつけてくれるのか、より高く評価してくれる主のもとに、己の腕を売ったのである。
であるから、武蔵がその腕をより高く買う相手を探していた、というのであればひとびとは納得したものであろう。その時代の基準では、戦場を流れ槍働きをするものは、腕自慢のよりよい主、出世の糸口をもとめて歩くものと相場は決まっていた。
しかし、武蔵は仕官しない。
はたらきを認められ、仕官するのはなにも戦場だけのことではない。
戦場があるからこそ、つねに良い家来を大名あるいはその大名達に仕える家のものたちは求めている。
いざ戦となったとき、戦の勝敗を決するのは良い家来がいかに多くそのもとにあるかであり、その質動かすことの出来る人数こそが、そのままその大名、主の力量をも示しているのだから真剣である。
戦場以外にいのちを賭けた勝負ごとが行われ、武芸をみせて歩くものが諸国にあるのも、これはより名を高めよりよい主に仕えようとする為だ。よりつよい主であれば、戦に勝利することも多く、勝つことが多ければ、当然に褒美というものもまたおおきい。
であるから、よりよい主を求めて腕ひとつで世を渡るものであるのだが。
その為には、己の腕を自慢し、大きく出て名乗り、いのちを賭けた勝負もする。―――
いくらか名が知られるようになった武蔵に、だから勝負を挑むものもまたあらわれる。
それらの生死を別ける勝負を、武蔵は一切ことわらなかった。
断らないが、だからといってその勝利によって、いずれかの家に仕官するということもしていない。よりよい主を求めて、というなら話はわかるが、どうやらまず仕官の活動というものを、武蔵は行っていないようであった。
実際、後年になるまで武蔵は仕官というものをしていない。いや、後年五十七歳になってのそれも、仕官というよりは知遇を受けたという方が相応しい待遇である。いかにして後の武蔵が細川氏にその知遇を得ることとなったかはさておき。
まだ若年であるこのころには、武蔵は何処に仕えてもいない。
しかし、槍働きはあり、挑まれた勝負には負けを知らない、となれば。
おもしろくないものたちがいても道理であろう。
そういったものたちが増えれば、自然この武蔵という気に食わぬ小僧を倒してやろう、討ち取って名を上げてやろうというものもまたあらわれてくる。
あらわれれば、また勝負ということになる。
武蔵は、またこれが勝負に負けない。
いのちがけであるのだから当然のことなのだが。
武蔵にしてみれば、闘いを挑まれるのだから受け、受けたからには真剣に、いまでいえば仕事をする感覚で受けたなりに工夫もし、できるかぎりのことを尽くすだけのことなのである。
戦場で稼ぐのも同じことであった。
いや、こちらは勝てばそれに応じた食い代があたるのだから、よりいいとおもっている。戦場にいけば、稼げる。農家に土を耕す手伝いをして、あるいはいくらかの手間仕事をして食にありつくと同じくらいのこととおもっているのだ。
武蔵は、飢えるのが苦手であった。
めしがくえないと、ひとはさもしくなる、とおもっている。
武蔵自身、山を下りて知ったことでもある。
山で猪を捕らえ、鳥を喰らい獣を喰らっているうちはよかった。けれど、里についてしまったら、そうはいかなかった。
里では、銭というものは幾らも出まわっていないとはいえ、かわりに何か交換できるものを持つ必要が出来た。食にありつくには、労働で返すか、米や何か相手に通用するものを持ち歩いて、必要に応じて交換を求めるしかないのである。
山から下りて、冬を体験したことも武蔵にいっそう食い物の大切さをおもわせている。
宮本村では、少ないとはいえ援助があったから武蔵は本当の飢えを知らずにいた。凶作というものを有難くも知らずに済んだことも大きかっただろう。
冬がくれば乏しい蓄えでも節約し、工夫をして春を待った。
春がくれば、山川の恵みを受けることも出来た。
しかし、家を捨てた武蔵には蓄えがなかった。無一物で出たのだから、当然である。そして当然、冬が来たときに武蔵は飢えた。
春夏秋、労働の必要な季節には、武蔵を迎え労働の対価に食をあたえてくれた農家にも、厳しい冬のなかに武蔵にあたえる余禄など持つものはない。大体、対価として行う労働も冬には必要ないのだから、当り前ではある。
何かないかと、冬に訪ねた武蔵に、刈り入れによろこんで手を叩いて迎えてくれた面影はなかった。
―――たくわえはないと困るものだ。
だから、武蔵は飢えたくはない、とおもうのである。貧しいと、さもしくなる、ともおもっている。
冬の飢えはきつい。いや、夏でもいつでも飢えはいやだとおもう。
飯はたらふくくいたいものだ。
いや、腹は八分、戦働きをするときには、五分がいいか、と考えていたりもする。腹をつめすぎてしまっては、動きが鈍くなるから、たしかに詰め込みたいところだが、八分、いや五分で我慢しよう、ともおもうのである。
また、随分と我慢する術も身につけた。
空腹を我慢して、腹が背にひりつくようなというのを耐えて、耐えに耐えて雪の積り氷の落ちる流れのそばに凝っと動きをとめ、流れてきた魚を捕らえたこともある。
あのときは、手にとらえたまま生でかじりついた。
うまかった。
さかなの血をいただくことが、あれほどうまいとおもったことはない。
さかなを喰って、あとに頂いた雪もうまかった。
生のさかなを齧るのも旨いが、焼いて喰うのも武蔵は好きだとおもっている。野の獣も、特に猪など、落としたばかりの生を喰らうのも良いが、血は飲むとしても、血抜きした肉を焼く方が旨い上に保存もきく。
皮をなめせば、村で良い物々交換もできる。塩など、貴重なものはそうして手に入れるのが良い。
だが、いずれにしろ、手に入れる野草にしても、獣の類も、冬という自然の前には姿を消す。冬を越すには、蓄えがいる。ただで、冬は越せない。
戦が無い季節には、刈り入れがあるが、冬には野良仕事も戦も無いのだ。
めしはくいたい。
武蔵の、切願である。
くうためにはどうすればよいか。
己に、問うことになる。
腕をみがいた。獣を狩るには、技量が要る。道具の巧拙もある。捕える罠に、矢を工夫し、木刀にしてもより良い握り心地、手にあうかたちにととのえ、よりよい材をもちいる必要を知った。
戦場の槍働きもまた、腕を磨き、力をつくし生き延びることが肝要なことであった。戦場にでることに戸惑いは無かった。地侍とはいえ、武家に生まれてもいる。農の必要のないときに、戦で稼ぐおとこが普通でもあった。領地にある農民であるなら、領主の下知に伴い出陣をする。流れものであれば、流れるままに戦のあるところに赴き、戦で稼ぐ。
武蔵には、当り前のことであった。
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