七夜 終夜――音
「さて、幾つかお話をして参りましたね。今宵で七夜」
薄闇の庭に雪洞の灯、照らされる庭には白石に座る灰色のベストに白いシャツのひと。
橿原が微笑んで童女を見つめる。柔らかに優しい橿原の微笑に、童女が円らな瞳を向ける。
「いままでのお話は如何でしたか?満足なさいました?今宵が最後でございますけど、どのようなお話がよろしいかしら」
深い不思議な闇の瞳をして、微笑を湛えて話し掛ける。緩やかに響く音楽のような抑揚の声、見つめていると何もかも呑み込まれていきそうな瞳。長い指、高い背。橿原の姿が雪洞の灯に揺れて浮き上がる。
闇に呑まれる挟間の庭、羊歯の影。白く雪の煌めく結晶に似た石の肌。
そう、と橿原の手が置かれ。
「七つの夜のお話に、最後は何がよろしいかしら。これまでおはなししましたのは、嵐玉、うつろ、赤鬼、―――みつめ」
指折り数えて、首をかしげる。
「はて、何がいいかしら。こわいお話、不思議なおはなし、奇妙なおはなし。どれもええ、お話いたしましたけれど。如何いうお話がいいかしら」
こわくて、不思議で、奇妙、―――と橿原が指を繰る。
「なにがよろしいかしら?」
あら、それでは、と橿原が考える瞳になる。
「音、――――という名を、御存知ですかしら?」
首を振る童女に、ひとつゆびをくちにあてて微笑み掛ける。
「では、そのおはなしをいたしましょうか。とても、ぼくには何といっていいか、わからないお話なのですけれど。それでもよろしい?最後のお話ですけれど。あら、賛成していただけます?」
うれしいですね、といって手をあわせる。
「では、おはなしをはじめましょうか」
ゆるやかに笑んで、深い響きの声が闇の庭に降り。
羊歯の葉が揺れて、庭底に落ちていく。
闇に雪洞の灯も消え、星の滴ばかりが降る庭に、手燭の灯が不意と流れ込む。
「あら、まぶしいこと」
瞳を細める橿原の傍らに、無言で真藤が灯を差出す。長身の真藤を傍らに仰ぎ見て、静かに橿原が柔らかな微笑を零す。
「お迎えですか?ひとりでかえれますのに」
無言のままに、手燭を伸べ、微笑して真藤が橿原の傍らにある。
橿原の瞳が前へ投げられ、何もいない縁をおさめる。
「ええ、わかってはいるのですけれどね」
「はい」
短く答える真藤に視線を向けず、ほう、と橿原がためいきを吐く。
「ええ、七夜のお約束」
「果たされましたか」
ええ、もちろん、と頷いて、それからすこし首を伸ばす。羊歯の葉がさやと風にゆれる。
影を渡るのは何物か。夜の風を渡るのは、夜に住まう生き物だろうか。
橿原の手がゆっくりと傍らの上着に伸び、それを真藤の手が取り肩に着せ掛けた。
「あら、ありがとう、真藤くん」
肩に上着の襟をおさえ、しずかに微かに瞳を伏せる。
「寂しいものですねえ。わかってはいたのですけど」
白石に腰掛けたまま、雪洞の無い縁側を見る。何か欠けたような縁のさま、ぽかりと胸に穴の開いたようなとおもうのは、これはお約束の終ったせい、と橿原がくちにひとつゆびをあてる。
「真藤くん」
「はい」
傍らにある変わらぬ顔を眺め、ふうと息を吐く。
「七夜のおはなし、また、来年にはねだられるのかしら?」
期待するように何処かみあげる橿原に、微かに笑んで真藤が云う。
「ええ、来年もお望みになられるのでしたら」
「ああ、そういうおやくそくでございましたね、――――ええ」
云うと、縁のほかりと白い辺りを見る。手燭に照らされて淡い輪が、真藤と橿原を中心にひろがっている。縁のあかるい辺りには、童女の座っていたものか。
円らな黒瞳、赤い着物。赤の鼻緒に、白い足袋。
切り揃えられた黒髪の愛らしい童女がまぶたに浮かぶ。
「ええ、来年、わたしのいのちがありましたら、こちらに伺うことが適いましたら、お逢いしたいものですねえ」
橿原の声が闇に響き、何処かにそっと呑み込まれた。
「ね、真藤くん。ぼくには、むすめがおりませんでしたの」
「はい、存じ上げておりますが」
高い背を折り、真藤が橿原に視線を向ける。
「ですからねえ、むすめのように感じましたの。ええ、そんなお年ではないことは承知の上なのですけれどねえ」
ぼくのような若造が、とくちにして、それからそっと微笑を零す。
「それでも、むすめのように感じましたの」
「――はい」
手燭の灯がしんと白く立っている。照らされる橿原も真藤も、庭に動くことなく影を落していた。
「お逢いできるといいですねえ」
来年がありましたら、と。
いのちが、ありましたなら、と。
この世に、いきておりましたならと。
「いきましょうか?真藤くん」
無言で真藤が頷き、手燭の灯に先導されて、橿原が白石より身を起こし。
ゆらりと影のように、庭から消えた。
夜の庭を歩く頭上に星が降るのは、幻なのかこの庭にだけは魔法が掛かっているのか。降る星を供に、真藤を傍らに。
「真藤くん」
「はい」
橿原が歩くと、真藤も隣りに留めていた歩を進めた。
「しんどうくん」
「はい」
微苦笑を含む真藤の応えに、橿原が苦笑する。
「いけませんねえ。やはり、妖はひとのこころを呑むのかしら」
「そう望まれますときには」
あら、そうかしら、と橿原が応え、庭の始まりに建つ母屋の影をみあげる。
西洋館の古い影絵は、それだけでまた闇に生まれた幻ともおもえる。あとにしたあの庭は、一体何処に生まれたものか。
「お帰りなさいませ」
先に立ち迎え入れる真藤の導くままに歩を踏み入れる。
「ええ、ありがとう。真藤くん」
一歩を踏み入れれば洋館の古い木の香り。
「戻りました、ええ。こちらに」
微笑して見渡す室内に、飴色をしたアンティークの家具と高い天井、木枠に嵌め込まれた硝子のサンルーム。
「ええ、戻って参りました」
ゆったりと椅子に座り、真藤が用意されていた紅茶を銀のポットから白磁に満たした器を受け取る。暖かな澄んだ赤い液体に、香りを瞳を伏せて感じながら。手に器越しの温もりを受けてたのしみながら、隣りに座る真藤を眺める。
橿原の不思議な瞳。
「戻って来たのですねえ。いつもながら、神崎さんのいれる紅茶は、おいしいですこと」
「お褒めに頂いて、神崎もよろこんでおります」
そう、と紅茶を飲んで。
「来年が、あるかしら」
「お望みになれば、きっと」
ええ、そうですね、と橿原が頷いて真藤に微笑み掛けた。古いアンティークの椅子、織りの色合いも落ち着いて肘掛の飴色も優しい椅子に身を寄せて。
「そうですね、けれど不思議ですこと。あの御屋敷は、一体何処にあるのかしら」
橿原の問いに真藤が穏かに笑む。
「さあ。我が家に代々伝わるしきたりですので、あまり深く考えたことはございませんが」
「のんびりしてらっしゃること。でも、それが真藤くんらしいですけれどね」
紅茶を飲んで橿原が云い、それから庭を眺める。
広い芝生の庭は、向こうが森のように見える樹木で外界から遮られている。何処にあるのかを忘れそうな、都市の中にある旧い屋敷。
主である真藤は、何も知らぬ気に唯穏かに紅茶を手にしている。背の高く体格の良い部下を眺めながら、橿原はゆっくりと暖かい液体を喉に落した。
「紅茶にブランデーというのは、暖かくて良いですこと」
「夜ですから」
真藤に悪戯な視線を橿原が投げ、くちにする。
「昼は駄目ですの?」
「あなたはうわばみですけど、昼にはお仕事がございますから」
「固いこと、真藤くんって。本当に固いんだから。すこしは融通を利かせてはくれませんの?」
「お仕事中は駄目です」
「せっかくお願いをきいてこうしてあなたのお家に来ていますのに」
拗ねるようにしていう橿原に、真藤が穏かに礼をする。
「ありがとうございます。この度は、我が家のしきたりに御協力頂いて」
「いいんですけど。かわいらしい方にもあえましたし」
「はい?」
「けど、七夜のおはなし、あれでよろしかったのかしら?」
「ええ、無論」
「聞いておりましたの?それはいけないんじゃないかしら」
「いえ、聞いてはおりませんよ。しきたりでございますから、家のものが七夜語りの客人の語りを聞くことはございません」
不思議そうに橿原が真藤をみて、くちをひらく。
「ではどうしてわかるの?」
「はい。おはなしに満足されていなかったら、客人が帰って来ることはないと伝えられておりますので」
「…真藤くん」
「はい?」
「あなた、そんな危険なことをぼくにさせたの?」
「戻って来られましたでしょう?」
穏かに云う真藤に、橿原が額に手をあてる。
「あなたって、おとなしそうにみえてそうなのだから。ぼくなら平気だと、おもっていたのですか?」
「はい」
高い背に良い体格、鍛えられた力を穏かな瞳に隠してしまう真藤を橿原が見返す。身長も体格も、その気になれば浮かべることも出来る鋭い視線も、いつも穏かな言動に隠してしまう真藤をあらためて見直して。今夜は自宅に居る為か、スーツでは無く上に焦茶のセーターを着て、それでも襟元に結ばれたネクタイの真面目さが真藤くんらしいよね、とか。
「いいんですけど。きみって、本当に真面目ですのに、そういう処、酷いんですものね」
「戻ってこられましたでしょう?」
「いいんです。何ていってもぼく、もう真藤くんに協力致しませんから」
「―――今夜はもう遅いですけれど、もしよろしければおやすみまえに神崎の作ったビーフシチューがあるのですが」
橿原が真藤を見る。とても真剣に。
「あなた、それ、神崎さんがつくりましたの?」
「はい、あなたのお口にあえばと」
「―――神崎さんの作ったごはんがぼくの口にあわなかったことってある?ないじゃない。ねえ、真藤くん、あなた卑怯ですよ」
「そうですか?甘んじてお受けしますが」
額を手でおさえて、橿原がわざとらしくためいきを吐く。
「寝る前にごはん食べるのって、身体によくないって知ってます?」
「はい。けれど、まだ何も召し上がっておいでにならないでしょう?お昼からは」
「どうして知っているのかしら。ぼくの秘書官にわいろ渡した?鼻薬でもきかせたかしら。…神崎さんのビーフシチュー」
「冷えて参りましたからね。温めてございますよ。ああ」
「何です?真藤くん」
顔を向けた橿原に、真藤が悪戯気に付け加える。
「忘れていたのですが、パンを焼いてあるそうです。ガーリックバターを付けて、先程焼き上がっておりましたね。それと」
ガーリックの良い匂いが厨房からきこえてくるようで、橿原が瞳を閉じて唸る。
「それで?まだ何かあるんですか」
「はい、クグロフを焼いてあるそうです。チョコレートソースの掛かりましたクグロフ」
勿論、ベースもカカオの濃い風味で、と付け加える真藤に橿原がうなった。
「悪人。…ぼく、もう高齢なんですよ?それがそんなに濃いものばかり食べたら、――――もう、チョコレート掛けのクグロフに何て、逆らえるわけないじゃないですか」
額に揃えた指をあてて瞳を閉じていう橿原に、真藤が微笑む。
「はい、お手伝いしますよ」
「食べすぎはよくないんですから」
「はい」
微笑している真藤を横に、橿原が庭に面を向ける。
「あら、笑われているのかしら」
ふわりふわりと、浮く赤い灯が遠く近くに庭に踊る。
「来年も、逢えますかしらねえ、こうしてお名残を惜しんでくださるのでしたら。あなたの処のおやしきのかみさま。座敷童子さんかしら。ねえ、また」
お逢いできますかしら?と赤いあかい灯をみつめて。
ゆったりと、ゆびをひとつくちにあてて。
「おなまえは、くちにしてはいけませんものねえ。お屋敷神さまの名は、くちにしてはいけませんもの。また、お逢いいたしましょうねえ。できますものなら」
お約束、とくちに呟く。
「七夜のお話を、またいたしましょう」
ひとの身で、行く先も知れません身ではお約束もままなりませんけれど、と。
ときがございましたら、またおはなしいたしましょう。
「年に一度、七夜のお話を致します客人が、わたくしでよろしければ」
―――さま、と。
また、お話致しましょう、という橿原の言葉に。
ふわり、と頷くように赤い灯がゆれて。
闇にほうと赤い灯が、何処か遠くへと消えた。
了
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