六夜 みつめ 1
雪洞に灯が柔らかく庭を照らす。笹の葉が揺れる影、何処からか水のおと。
「さて、今宵はどのようなお話がよろしいでしょうね?」
訊ねるのは橿原。不可思議な色彩を呑む黒瞳を童女に向けて、やわらかく微笑みをくちもとに刷く。手を白い庭石の肌におき、ゆびを上着の襟から落す。
向き合う童女の円らな黒瞳。赤い縮緬、帯に着物と、白足袋に映える赤い鼻緒に。えらぶ橿原に向かう縁側に、人形のように愛らしく素直にすわる。
「何に致しましょうか。三晩も、ひとつのお話でしたものねえ。今度は、短いお話に致しましょうか。きちんと、今夜終りますお話をね。いいでしょう?」
見上げる童女の黒瞳に、やわらかく。
「そうでございますね。そう、あれは如何でしょうかしら?ええ、御存知でしょうかしら。あの、みつめ、というものを。ごぞんじかしら?」
ふと何かを思い返してか、橿原が瞳を細める。
「奇妙な、そう奇妙なお話でございますよ。ぼくもいろんなことにこの年ですと出会って参りましたけれどねえ」
少しばかり首を傾げ、ひとさしゆびの先を口許にあて、考えるような表情になる。
「あれはねえ、そう奇妙なことでございましたよ。このお仕事も長いのですけれどねえ。もう三十年以上勤めておりますけど。あれはそう、ぼくが三十代の中程くらいのときでしたかしら」
あのころは、と橿原が微かに首を傾けて何かを数えるようにする。
「ぼくねえ、大層大変なときを過ごしておりましたよ。幼いこどもを三人も抱えておりましたの。あら、意外です?」
くすりと橿原が笑みを零した。
「ぼく、これでもひとの子の父親なのですよ。本当です。それから、孫も三人いますの。いいでしょう。とってもかわいいんですよ」
両手を口許にあてて笑み崩れるのを押える橿原の瞳はもう溶けそうだ。
「かわいいんです、本当にもう。いいでしょ?じじなんですよ、ぼく。じじばかも素敵じゃないかしら。ああさて、このころは、ぼくの子達もちいさい、いまの孫達とかわらない年でした。ああ、お話はこどもたちとは関係ないのですけど。すみません、脱線してしまって。あの頃のことを思い返しますと、つい、かわいかったころを思い出してしまいまして。あの子達が、あんなに大きくなってひとの親になったかと思うと、何だかとても不思議でございますよ。あら、それをいえばぼくがひとの子の親というのが一番不思議かしら」
微笑してうっとりとこどもたちを思い浮かべている橿原を、あきれた円らな瞳がみる。
「あら、すみません。ぼく、こどもの話となると暴走してしまう処があるそうなんです。それにしてもあのころの子供達は、大層かわいくて仕方ありませんでしたよ。もう本当にかわいくて。意外です?ぼくがこども好きでおりますこと。いやですねえ、それは子育てはとても大変でございますけれどね。とてつもない混乱の中に暮らすようなものですかしら。毎日が台風の中にいるようなものですかしらねえ」
それもとびきりの台風ですけど、と橿原が笑う。
「ですから、あのころのことを思い返しますと、混乱と予測不能の嵐の只中にいた日々を思い出します。そうでございますね、お仕事も大変でしたけど、私生活ほどではありませんでしたねえ。尤も、楽しい混乱ですけれど。あれはけれど」
ふと、楽しげな表情から一転し冷えた炯が闇に宿る。奈落よりも深い其処に冷えて動くことの無い何かを覗かせる闇色の瞳。橿原の瞳が薄く微笑みを纏うと、指をゆっくりと組み瞳を閉じる。
「ストレンジ、奇妙、――――ええ、充分に奇妙でした。十二分に、といっていいかとおもいます」
それは十二分に奇妙でした、と。
橿原は慎重に繰り返していった。
「奇妙なお話です」
しずかに。
さて、当時ぼくは三人のこどもを育てていたことはお話いたしましたよね?いえ、結局はこのときに、ぼくが三人を育てておりましたことが、事件に少しは関係していたのではないかという気がいたしますの。
あら、申し訳ありません。いつも事件のお話ばかりで。
といっても、これは、どうもねえ。
事件といいますのか如何か。
ともあれ、このときぼくは、高知へ出張していたのでございます。お仕事でしてね。別に、何か事件がありましたとか、そういうものではございません。ご挨拶に伺ったようなものかしら。ともかく、このときのことは特に関係があるわけではございません。
唯高知への出張の帰りに、ぼくはあったのですよ。
あれにねえ。
事件というほどの事件ではなかったといえば怒られてしまうでしょう。けれど、起こりました事件そのものよりも、それに付随した、ついて参りましたことの方が余程奇妙で関係者に奇妙な落ち着かない心持を残したものでした。
ええ、ぼくもね、実は落ち着きませんの。
あのときのことを思い返しますとね、その、そう、胃の腑を裏側から手で撫ぜ上げられてでもいるような、へんな心持がいたしますよ。
いやな心持でしょ?
内臓をねえ、手で撫ぜられる何て。ぞっとしないのじゃないかしら。
それはともかくねえ、出張でございましたよ。当時はまだ身分も軽うございましたから、人が沢山ついてくるということもございませんでした。それでも、実は一人での出張ではなかったこともありまして、結局は列車の座席、お隣も前も後ろも一緒に行った方々でしたの。あら、そうそう、途中から、帰りだけ一緒になりました方もおいででしたけど。
ええ、つまり出張は、帰り列車でしたのですよ。
新幹線で戻りましたの。乗り換えをしまして、途中から。
ええ、おみやげに新幹線のおもちゃ買いましょう、とおもっておりましたからおぼえております。高知ではねえ、おみやげ買う時間がありませんでしたの。
さて、一行は当時七名でございました。ぼくと一緒に高知に行かれました方が四名、高知から来られることとなりました方が一名。それに、当時東京から出張しておりまして、一緒に戻ることになりました方が一名でした。
全員男の方でしたので、彩には欠けるかしら、と思っておりました。怒られますかしら?女性の方に。けど、ぼく女の方好きなのですもの。女性の方ってきれいでしょう?ですけどねえ、何故か、いまも昔もお仕事では女性の方と接する機会がすくないんですの。かなしい現実でございますよねえ。
ああ、そうしたことはともかく。
列車の中で、ですから帰りにぼくは周りが殺風景ですよねえ、と歎いておりました。それから、あとで機会をみて車両で販売されておりますおみやげを買いにいきませんと、と決心しておりました。何号車でしたか、、新幹線のおもちゃが売っておりますの。おみやげに買っていきましたらよろこびますでしょうと、そればかり思っておりました。
そうしてねえ。ですから、気付いたのかもしれません。
いえ、新幹線のおもちゃを買って帰ろうと思って入り口をみていたのですけどね。乗っております車両を確認して、販売している車両に行くにはあちらですね、と思っていましたの。
女の方が、入って参りました。
走行中の車両ですからといって、人の出入りがまったくないということは無いのでございますよ。ええ、結構人の出入りはあるものでございます。車内販売の方ですとかね、あと御不浄に行かれる方ですとか。結構扉は開いたり閉まったりいたしますので、そうそう人の出入りに注意している方はいないのではないかしら。実際、注意している方がそんなにいなかったことは、あとからわかるのですけれどね。
それから、何となく女の方がどの席に座るのかを見ていたのは、やはりぼく、周りが殺風景だと思っておりましたから何でしょうねえ。つい、目で追っておりましたの。
黒髪の長い、赤い服を着た女の方でした。赤いつばひろの帽子を被られて。随分目立つ方だとおもいましたよ。けど、華やかなのは好きですけれど。
首に黒い丸玉の連なったネックレスをしておりました。手に持っていたのは、黒い小さなバック。手に黒いレースの手袋をしておりました。レースに黒く模様がございました。あれは、薔薇の花かとおもいましたよ。
あら、随分と細かい処をみていたのですって?
ええ、見ておりましたよ。でも本当に見ていたといえるのかしら。
袖に隠れかけた時計が、四角い金属の文字盤のものだとか、みてはおりましたけれどね。枠の金がちかりと光っておりました。
さて、女の方は、ぼくたちから斜め左の前方に座りました。当時グリーンではございませんでしたから、座席は三、二で五列になっていましたの。女性の方は、その三列になりました方の真ん中に座りました。窓際は空いているようでした。通路側には男の方が座っておりまして、ぼく、お連れの方かしら、運のいい方ですねえ、と思っておりましたよ。このときは。
さて、ぼく、何とか周囲を説得しまして、車両販売に向けて席を立ちました。お隣の方が融通がききませんでねえ。頑固なんですの。ぼくが席を立つこと、御不浄でも断ったのじゃないかしら。ともかく、ぼく何とか買いにいきますのに、仕方ありませんから一人御一緒に立って頂いて、行くことになりましたの。何を大袈裟にと思われるでしょう?ほんのいくつか車両を動くだけですのに。でも、一人で行きますのは駄目ということでしたから、ぼくお一人付き合って頂いて行くことになりましたの。本当にねえ、ぼくが、何処かで迷子になるとでも思っていたのかしら。
あら、いえ、それは確かに、同じ新幹線の中でも、迷わないっていう自信はございませんけど。だって、車両の中って、同じような座席が並んでいるだけでしょう?それに時々二階席とかあって、大変なのですもの。
ともあれ、このときは一階だけでしたから、そんなに心配されることはないと思うのですけれどね?
あら、そんな信用の無いおかおをして。
いいんですけど。
ええ、そうして、ぼくは買い物に出掛けたのでございます。席を立ちましたのは、お昼前でございました。ついでにお弁当も買って帰りましょうか、と思っていたので憶えております。
戻りましたのは、思ったより時間が掛かってはおりました。おみやげになににしようかと、ぼくが夢中になってしまいましたの。それで、腕一杯におみやげを抱えて戻りましたときには、ぼくの後ろであきれた顔をして、お弁当をさげた方がついてきてくれておりましたよ。
ええ、ぼく買いすぎて、お弁当が持てませんでしたの。
でもねえ、こどもたちのよろこぶかおを思うと、つい買いすぎてしまって。三人おりますでしょ?ひとりにひとつでも三つですもの。もっともそれをいいわけに、ついつい買ってしまうのですけれどね。
新幹線に今度こどもたちを乗せてあげようかしら、などとおもいながら、ぼくはゆっくりと通路を歩いておりました。揺れますのでねえ、急いでは歩けませんの。
女の方が座られた座席も通り過ぎたでしょうねえ。もっとも、ちゃんと歩くのに一生懸命で、座席なんてろくにこのときはみておりませんでしたけど。
ええ、見ていなかったのですよ。そのことが後々大きくなってきますとは、ぼくこのとき、まったく考えてもおりませんでしたよ。頭の中は、おみやげを渡したときのこどもたちの反応で一杯でした。
揺れる通路を歩いて何とか座席へと戻って参りました。けど、ぼく席を間違えたのかしらとおもいました。方向音痴ですものねえ、ぼく。
違う方が、席に座っておられたのです。
ぼく、如何したらいいかしら、とおもいました。通路を挟んでお隣をみますと、――こちらには、一緒に帰ることになりました出張しておられた方が座っておられたのですけど―――その方は、ねむっておられるようでした。
あら、とぼくは思いましたよ。
困ったことになりましたねえ、とぼくはおもいました。それから、座席番号を確認致しまして、ぼくと一緒に来てくださった方の座席に、間違いないことを確認いたしました。
あらあら、如何しようかしら、とぼくはおもいましたよ。
窓際のぼくの席は空いておりましたけどねえ。だといって、座るわけにもいきませんものねえ。ぼくたち、こうして立ったままかしら、というのがぼくの心配でございました。
立ったままですとねえ、腕が痛くなりますでしょ?
後ろの方が不審気にぼくをみておりますから、如何しましょうかと思いながら、仕方ありませんのでねえ。
振り向いて小さく囁きますと、息を呑んだ表情になりました。
ぼく、思わず、お弁当、といっておりましたよ。だって、その方せっかく買いましたお弁当を、落しそうになっているのですもの。ぼくの呟きに無意識に手でお弁当を支えて、それからあらためてこの方はぼくに視線を向けました。疑いと緊張がないまぜになりました表情でございましたよ。高知ではぼくのこと、大層疑っておいででしたけどねえ。
あ、それはいいのですけど。
ともあれ、このときぼくの言葉を、すぐ飲み込めはしなくても、疑う気にはなれなかったのでしょうねえ。実績がございますから。
ぼく、新幹線のおもちゃを落ちないように支えながら、出来るだけちいさな声でくりかえしました。あまり、騒ぎになりましてもいけませんものねえ。
ですけど、座れますのかしらねえ、というのがぼくの一番の心配でございましたよ。
ねえ。
ぼくの買い物に付き合われた方は、ぼくの背越しにそちらを見て、すこし青くなって納得されました。
やっぱり座るのは無理ですかしら。ぼく、そう観念致しました。仕方ありませんよねえ。付いて来てくださった方が車掌室に行こうとされましたとき、向こうから丁度歩いて来られた車掌さんが見えました。ぼく、観念致しましたよ。空席、殆どありませんでしたし。
え、なにがありましたのですって?
ええ。もうお察しになっておられるでしょうけど。
ぼくが買い物にいっております間にねえ。
死体が二つ、出来ておりましたの。ぼくが座るはずです窓際の隣にお一人分と、通路を挟んで隣の席に、ひとつ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます