五夜 赤鬼――後夜ノ二 2
後ろから、背の高い増永さんの影がぼくの見ている前に伸びました。潜るような声が致しました。ひとりなのかと聞きますから、ええ、ぼくこたえました。
ひとりでございますよ、と。
ぼくはじっと影を見ておりました。背の高い方でございましてね。八十を越えられましたけれど、まだまだ力の強い方ですの。
ぼくねえ、数をかぞえるような心地で、ぼくの影と増永さんの影、みておりましたよ。
石ころがありましたねえ。小さいの。土塊に映ります影がでこぼこになりましてね、すこし歪んでいますの。低い竹垣を越えて影は庭に入り、ぼくと増永さんの影は、庭の土に映っていたのですよ。
ひとが全然通りませんでしたねえ。
両脇に建つ家も、木蓮の庭にも、何処にも。誰もいないようでした。ぼくと増永さんの二人だけ、影を長くして立っておりましたよ。
如何してでしょうねえ。
ぼく、ちいさく唄を唄い出しておりました。こどもの頃、ねえやにならった唄ですの。
――ひとつめのおには、やさかにかえる、ふたつめのおには、おやどにかえる、みつめのおには、けんどにかえる、おにがでやしょでよいこはねやしょ、ねずばおにごにつれられる、と。
ええ、ねえやに寝かしつけられるときにならった唄でございます。意味は、そうどのようなものでございましょうねえ。寝ない子は鬼に連れていかれるといった意味の唄でしたでしょうか。
ぼく、かおをあげて木蓮の家を眺めました。腰板の嵌められた硝子戸に日が反射して、赤い日が反射して、――――。
ぼくは、赤い鬼をみました。
硝子にねえ、赤い日が反射して、日に染められた増永さんの顔は、真っ赤でございました。かなしい目をしておりましてねえ。歪んだ影の、ええ、歪んで形を変えておりました影の、先端が映りましてね。歪んでおりましたのは、大振りの鉈の影でございましたよ。
ぼくの背に、頭上に振り被って立っておられたのですねえ、じっと。
凝っと、ぼくの背にいたのでございますねえ。
増永さんの目が、赤い鬼のように真っ赤にぼくを凝視していましたよ。
赤い鬼だと、おもいました。
硝子に映る赤い鬼の目と、ぼくの視線が合いました。なたを振り下ろす手は、音を引き摺るほどにはやいものでございました。
ぼくは斜めにかがんで避けて、
何だか、随分と物事がゆっくりと進んでいたように感じたものでございます。振り下ろされますなた、鈍い耀きを乗せますその表面とか、重い鋼のようすとか。砥がれて随分ながく思えますその表面とか。
鉈が竹垣の上に斜めにはしって刃がとまった。
喰い込んだ刃が抜けずに力任せに二度、三度と揺れて持ち上げられた。竹芝が宙に散って、刃が鈍い光をかえして抜けました。
握っている手に血管が浮いていて。
向き直った相手の前に、ぼくは正面を晒してしまいました。
痛いのきらいなんですけど。そう、おもってしまいましたよ。ぼく、痛いのは好きではないんですけどねえ。逃げられないと思いました。正面から向き合って、相手のリーチは割りと長いですし、剣道の有段者でもございました。リーチと申しますのは、腕の届く距離でございますよ。簡単にいいますとね。
手を伸ばせば届くような距離でございました。正面に向き合うぼくと赤い鬼は。
鬼の手に、鉈がございました。
切れ味はいいかしら、とおもっておりましたねえ。鉈は、重みで切るものですから、いくら切れ味がよくても、痛いでしょうねえ、とおもっておりました。骨が折れるかしら、と考えておりましたよ。きれいな傷には、ならないでしょうねえ。
鉈の傷って、結構無残でございます。骨とかは、叩き折られますの。いやなものでございますよ。とても無残で、哀しいものでございます。
力まかせというのは、いやなものでございますねえ。
ぼく、ともあれ腕を一本叩き折られるのと、このまま胸に打撃を受けて肋骨と肺をやられるのとどっちがましかしら、と考えておりました。
腕をかざして叩き折られれば、そのあとにつかまって頭とか胸とか背中とか滅多打ちにされそうですし。胸を先にやられましたら、もしかしたら一撃で昇天できるかしらとか。ああでも、次に頭に一撃を受けて、死体の顔面崩れてたりするのかしら、とか。刃の位置からして胸にきそうですけど、やっぱり残された家族のことを考えますと、遺体の確認には結局顔がきれいな方がまだしもですよねえ、とかおもいまして。顔はきれいなままにした方がいいかしら、とおもいました。でしたら痛いのが長びいても防御創として腕を差し出すべきかしら、とか。防御創といいますのは、こうしたときに咄嗟に腕をあげたりしまして、抵抗して残る傷のことなのですね。ええ、典型的な防御創が残るかしら、とぼくおもっていたりしました。
随分いろいろ考えておりましたけどねえ、時間としては一瞬でしたのではないかしら。
ぐらりと。
このとき、地震が来たのでございます。ええ、ちいさなものでしたけれど、―――。鉈を手にしたまま、赤鬼は揺れました。硝子に遠く映るぼくと赤鬼の姿を、妙に客観的に眺めておりましたよ。
ゆれて、手許が狂った。足を滑らせて。
ぼくは、赤鬼が消えているのをみました。もう、増永さんの顔は赤くなかった。胸に刃が刺さって、増永さんは斃れていました。
息はもうなかった。
短い地震が、赤い鬼を消して、増永さんが其処に斃れてた。
ぼくは目をとじて、それからひらいていた枝折り戸を押して中に入った。庭に足を踏み入れて、茫然としておりました。
木蓮の庭に、半世紀振りにぼくは足を踏み入れました。それから、屋根を振り仰ぎました。日本家屋の低い屋根が、目に入りました。
目に見えるようでございました。
白く一面に雪が降りました夜に。
屋根に、吊るされました死体が。
傷口から血が流れ、風に飛ばされて散る。
赤い花が咲くように、白い雪に血が。
死体が屋根にありましたのは、一時的なことでございましょう。別に赤い花を咲かせようとして行ったわけでもございませんでした。おそらく唯、死体を始末しようとしていたのです。
木蓮の家は、野中の一軒家ではございませんでした。狭い町中の家でございましたよ。平屋でございましたのでね、低い屋根をしておりました。屋根から屋根へ、隣りと軒を接する箇所もございましたのでね。ええ、そんな古い町並みでございましたよ。
ええ、おそらく犯人は、死体を屋根伝いに運ぼうとしていたのでしょうねえ。あるいは、まだ、生きていたのかもしれません。犯人が死んだとおもっておりましても、まだ生きていて、其処で留めを刺されたのか、或いは。何れにいたしましても。
運ばれる途中に、血が落ちて花が咲いたのです。
赤い花が咲いたのでございます。
庭に足跡は残るはずはございませんでした。死体も、あるはずがありません。
ええ、そうして死体は如何したのですって?
はい。
ほら、大人になったら見えるものがあるといいましたでしょう?
よくみえましたよ。
木蓮の家は裏手に、寺があったのでございます。裏手といいましても、斜めにでございますが、塀の向こうは墓地でございましょう。死体を、其処まで運ぶ目的でしたのですねえ。尤も、消えた死体は其処には眠ってはいないでしょうけれど。運ぶことには失敗したのではないかしら。
もうひとつ。裏手には、一軒の家もございました。寺に落そうとして、間違ってこちらに落したのではありませんかしら。それで埋めてしまったのでしょう。また運びなおすことは、おそろしくてできなかったのですねえ。
あら、何故そう思いますのかって?
ええ、裏手の家を、ぼくは知っていたのでございますよ。この日、訪問した家、増永さんの家が、其処でしたのですねえ。帰り道、ぐるりとまわってつながっておりましたの。ぼくが方向音痴ですから、辿り着いたのでしょうねえ。
車でなく、歩いて来ましたから、あれから初めて木蓮の家に着くことになりましたのでしょう。
木蓮の家の裏手が、増永さんの家でございました。裏庭に落ちた死体を埋めたのでございましょうね。その当時、増永さんが死体の捜索をしておりましたから、埋めてしまった場所をもうみてしまったと、みつからなかったといってしまえば。増永さんだけが隠すことができましたからねえ。そうして、死体を隠した裏庭を背に、ずっと住んでいたのですねえ。
死体と一緒に、増永さんは生きてきたのでしょう。
随分とぼくには、恐ろしいことに思えますけれど。
増永さんは、赤い鬼になってしまったのですねえ。
赤い花を咲かせた、赤い鬼に。
ぼくは、茫然と庭を歩いておりました。罪が罪であった長い間、罪が罪で無くなってしまった長い間。罪が無くなるまでのあいだより、罪が罰せられることが無くなってしまってからの方がずっと、ずっと増永さんにとっては長かったのではないかとぼくには思えました。ええ、本当に。結局、どうして罪を犯したのか、答えをしることはもう出来ませんでした。解答は永遠になくなってしまった。
事件について、何故今頃になりましてから訪ねていったのかということですか?
はい。ええ、それは、―――。
単純なことでございました。或る御方が不治の病に罹られましてねえ。ある事件の決着をつけたいと希望されたのです。一人の娘さんが当時行方不明になりましてね。或る御方というのは、その関係者の方でございました。地位も名誉もある方でございます。
その行方について、死を目前として改めて、その方は調査なさったのですねえ。そうしましたら、その答えが、とうに時効にはなっておりましたけれど、別の元政府高官への疑惑となったのでございます。
ええ、気がつかれました?
増永さんというのは偽名です。仮のお名前をつかわせていただきました。
本当はどの方になるのか?ええ、それは勘弁してくださいましな。勿論、推測されることはできるかとおもいますけれど。勿論、死は事故ということになりました。それに、本当に或る意味事故といいましても間違いではございませんでしたものね。
あの地震は、不思議なことではございましたけど。
ですからねえ、本当は、事実がわかりまして、御遺体をせめて返して差上げていただければと、そういうお話でございました。時効は済んでしまっておりましたもの。
けれど、もしかしたらとおもいますよ。
時効など、無い方が良いのかもしれませんねえ。だって、時効が来てしまったから。罪が罪としてなくなってしまいましたから、増永さんは赤鬼になってしまったのだという気がするのですよ。
終らない罪が、増永さんを赤鬼にしたのかもしれません。
ぼくはそんなことをぼんやり考えながら歩いていました。いつのまにか、母屋より外れた方に歩いていました。低く刈り込まれたつばきの樹、下草に。ああ、いつのまにか随分と近くまで歩いていたのだとおもいましたよ。
そして。ぼくは目をひらきました。
声を出すことも思いつかなかった。
手を咄嗟に伸べて、抱き止めていました。
茫然と、ええ本当に茫然としたぼくの腕に、こどもがおりました。気絶している、こどもは、――――間近にあるお手水の建物から、窓から落ちたに違いありません。ですが、見た窓は閉じておりましたが。
こどもの重さを腕に、この子は五つくらいかしら、と思いながらぼくはふらりと歩いておりました。つばきから歩き出したときに、其処で遊んでいたこどもと、慌ててやってくるねえやの顔を見た気がいたしました。
ですが、瞬きもできませんうちに何もない地面だけが前にございます。
ぼくは、竹の枝折り戸とつばきの間から木蓮の方へと歩き出しました。こどもを起こさないようにしながら、そっと木蓮の根元に、すぐに見つけてもらえるように置きました。そのとき、前に足を出して座らせた格好。
そういえば、乳母やが話してくれた通りの格好で。
ぼくが瞬きました瞬間。
こどもは、何処にもおりませんでした。ぼくは、一人で木蓮の根元に立っておりました。振り仰ぎました傍らは、ついさきほど見たよりも幹が太くなりましたような木蓮がございました。
ええ、何処を見回してもこどもはおりませんでした。
ぼくはひとりで庭に立っておりましたよ。
きつねにつままれたような心地でございました。
ぼくが、それでは昔木蓮とお話したいと思っていたこどもの頃のぼくを助けて、樹の根元に置いたのでしょうか?
何もかもがいまは幻でございます。
ぼくは、木蓮に手を置きました。五十年をあれから生きました木蓮の幹に手を置いて、それからしばらく、唯佇んでおりました。
夕焼けが暗くなっていく。
ぼくは応援を呼んで、立ち尽くしておりました。
ぼくはこうして赤い鬼をみたのですよ。
赤い鬼を、見たのでした。赤鬼を。
ええ、おやすみなさいましね。
今宵はこれまでにいたしましょう。
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