五夜 赤鬼――後夜ノ二 1
「あら、そんなにむくれないでくださいましな。ね、こうしてあやまっているでしょう?」
両手をあわせて、ごめんなさいましね、とおがむようにしてみせているのは橿原。いつもながらにベストに上着を庭石に置いた姿で、微笑しながら謝っている。
「本当に申し訳ありませんでした。けどね、ほら、昨夜はもう遅うございましたでしょう?あまり夜更かしをしてはいけませんもの。ね?ご機嫌をなおしてくださいましな。―――あらあら、如何いたしましょう」
困った風にいいながら、その口調には少しもこまった処がみえない。くすくすと微笑しながらいうさまに、童女の黒瞳がちらりとにらむ。
「かしはらさん、ひどい」
「あら、ひどいですか?でも、夜更かしはお肌によくありませんよ、ね?」
微笑んでみせる橿原に、童女が拗ねるようにして円らな黒瞳でみあげてくる。それに、橿原がやさしく微笑んで。
「怒らないでくださいましな。困ってしまいます」
両手をあわせてくちもとに寄せ、首をかしげていう橿原に、童女がちいさく黒瞳を向ける。
「おはなし、つづけて」
「あら、おゆるしいただけますの?」
童女を見つめて、不可思議な微笑を湛え、そうしてゆるりとくちをひらく。
「ええ、それではおはなしいたしましょう。赤い鬼の、赤い花の。如何して花が咲きましたのか、そのお話をいたしましょう」
闇よりも深い奈落の底。多分其処から聞こえてくると思えるような、多分其処からみているとおもえるような、瞳と声がかたりはじめる。
赤い花の咲きました訳を、と。
ぼくが何処を歩いていたのか、詳しいことは申せません。ですが、あのとき帰り道を歩いておりましたそのまえ、何の為に行きましたのか、申すことはゆるされますでしょう。何より、それを申しませんことには、このお話に起こりましたことが、総て理解することができないのですよ。ですから、寄り道をゆるしてくださいましね。
さて、ぼくがある事件の為にある家を訪問していたといいましたら、意外に思われますでしょうか。どうでしょう。尤も、ぼくが直接出掛けますことなど、近年では滅多に無いことは確かでございます。それでも、その日は出掛けておりました。とてもデリケートな、昔の事件に関しての、訪問でございました。所謂後始末というものでございます。
枝葉を捨てて纏めますと、ぼくはとても昔の事件が、穏便に片付く為に、足を運んだのでございます。プライベートの時間ということに致しましてね。ですから、警護の方も一名しかおりませんでしたし、運転手の方もあわせて二名しか、あのときぼくは連れておりませんでしたよ。それも、玄関先に待たせましたの。
ええ、残るのは御二人共不服のようでしたけれどねえ。ぼくの命令には従っていただきますから。
あら、こわいですって?いやですねえ。階級社会なだけのことです。
さて、ぼく、その方には結構プライベートでもお逢いしていたのですよ。ですから、このお話を纏めるのに、ぼくが訪問することにもなったのですけれどね。
訪問先の方は、ぼくよりお年が上の方でしてね。そう、二十五も上になりますかしら。ですから、もう八十は越えておられるのではないかしら。
確かもう八十三、でもかくしゃくとした方でございますよ。背もぴんと伸びてね。剣道をなさってるのですけど、いまも稽古を欠かさないでおられるそうです。
そんなお話もいたしましたねえ。お茶を出してくださるものですから、藤のソファに座りましてね、こう差し向かいに。ええ、藤の丸い背に白地に何ですか、南方の樹や何かを描きました布を張ったね、そんなソファでしたよ。同じ藤の楕円につくられたテーブルに天が硝子で。其処にこう、白い紅茶のカップを置きまして。はい、随分といつもながらまめなお方だなあ、と感心しておりましたよ。ええ、はじめてお会いしましてから、約半世紀。あいだは抜けましても、お仕事でお会いするようになってこれは、それでも三十年は経つのかしら。
ええ、このときぼくが向き合っておりましたのは、増永さんでございました。
お仕事の大先輩でございますよ。
はい、ぼく、この方と同じ職業につきましたの。ええ、当時はぼく、知りませんでしたけれど。こどもの頃にはわかりませんでしたけど、増永さんはね、法を守る為に働く方でしたのですよ。あの折も、その為にぼくのおうちに迎えにきて、お屋敷で質問していったのでございます。
それはともかく、訪問の目的でございました。
半世紀も前のこととなりますとねえ。はっきり憶えている方は随分と少なくなるものでございます。そのうえ、記憶と申しますのは、ひとにとってはかわるものですの。あら、不思議でございましょう?けれど、本当でございますの。ひとの記憶といいますのは、姿を変えるものなのでございますよ。
ええ、ひとはけして、見たままを記憶に留めることは出来ないのです。
記憶とは、形を変えるものなのですよ。
形を変えていく記憶を留めることはひとにはできませんの。ええ、出来ないのですねえ。何故なら、ひとは記憶をしますときに、みたものに意味をつけてしまうからなのですよ。
ええ、此処にりんごがあるといたしましょう。りんごが好きな方は、美味しそうなりんごとおもうかもしれません。そしたらその方には、それは美味しそうなりんごを見たという記憶になりましょう。けれど、お嫌いな方がみましたら、何だか嫌な、嫌いなものをみたという記憶になるかと思います。ええ、あまりきらいでしたら、ちゃんと見ることをしないで、りんご、ではなく何か嫌なもの、と憶えてしまうかもしれませんよ。そういう風に、記憶というのはかわりますの。あとになればなるほど、大きらいなりんごのことなど思い返したくもない気持が強ければ、いつかはもう本当にいやなものを見た、という記憶だけになってしまって、もともと大好きな方の見た記憶とは、まったく違う記憶になって残るようになってしまうのですよ。
ああ、でもどれほど経っても、ひとの心におなじように鮮やかに残る記憶というものはございます。どれほど変形しても、本質の失われないほどに鮮やかな記憶というものは。
ええ、そうしてこのときわたしが訪問しておりましたのも、変わらない記憶というものの為でございました。色褪せることの無い記憶といいますのは、ある意味呪いのようなものなのかもしれません。記憶の中では、鮮やかに匂いも嗅げそうなほど現実でしても、それは思い出の中だけに、けして現在の世界に存在するものではないのですからねえ。尤も、そうして記憶があることも、わるいことばかりではありませんけれど。
さて、前置きが過ぎてしまいましたねえ。
いけませんこと。
ともあれ、最初はゆったりと思い出話などしておりました。話題はいくらでもございますからねえ。互いに記憶しているだけでも、三十年分はございます。
それでも、このときは話題がそのうち尽きてしまいました。本当はわかっていたのでございましょうねえ。わたしが、何の為に訪問いたしましたのか、わかっておいででしたのでしょう。
増永さん、とわたしはいいました。わたし、随分と前に退官なさいました大先輩に向き合っておりましたよ。当時から、半世紀。けれど、これほど生々しいものでございますのでしょうかねえ。
何も終ってはいなかったのかもしれませんね。ええ、当然でございましたでしょう。確かに終ってはいなかったのでございます。
何のお話か、もう察しはついておいででしょう?
赤い花の咲きました謎の。
その解決は、ついてはいなかったのでございます。ええ、それだけのことが、おそらく五十年も前の事件を眠らせずにいたのでございますねえ。風化させることがなかったのでございましょう。終った、終わりのあった事件ではなかったからでございます。
もし罪が償われておりましたら。償うことは出来ずとも、せめて罰があたえられておりましたなら。これほど、まだ血を吹くほどに、なまなましい力は持たずにいたことでございましょう。
増永さん、とぼくは訊ねました。
ええ、こう訊ねましたよ。
どうして殺したのですか?と。
他に、気の利いた質問も思いつかなかったものですからねえ。
増永さんは凝っとぼくを見ておりました。荒々しい苦悩を秘めたような、つらい視線でございましたよ。ですからぼく、ああ、やはりこの方が犯人だったのだ、と確信してしまいました。
犯人の目というのがあるものなのでございますねえ。
ええ、確かにございますよ。長年この商売をしておりますと、わかるようになると申しますか。わかりました。ですからぼくは、これでおいとまいたします、と席を立とうといたしました。これでもう、訪問の目的は殆ど済んだようなものでしたからです。
そうしましたら。
ええ、もう―――ぼくは、帰ろうとしておりました。
そうしましたら、ね。
ぼく、どうしてねえ、みてしまいましたのかしら。
玄関を出ましてね、ぼく、待っていた運転手の方と護衛の方に、かえっていただきました。ひとりで歩きたかったものですからねえ。
ゆっくりと、歩いておりました。道の両側に古い家が並んだ辺りを眺めながら歩いておりますと、何もかも忘れられていくようでしたよ。
ええ、歩くというのは良いものでございます。ぼく、結構散歩は好きなのですの。
そうしましてねえ。
木蓮の家が、目の前に現れたのでございます。
はい、ようやくここへと参りました。
ぼくは、ゆっくりとよろこびの中におりました。それから、気がついたのでございますよ。大人になりました目線で家をみましたときに。
木蓮のおうち、白い庭にどのようにしてあの赤い花が咲いたのかを。
みるようにして理解いたしました。
まるで、目の前に見えるように致しましてねえ。
理解致しました。ですから、こう話し掛けておりましたの。
あなたが、どのようにして赤い花を咲かせたのかわかりましたよ、増永さん、と。
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