四夜  赤鬼――後夜ノ一 1

「あらあら、随分とご機嫌斜めですこと。随分お待ちになりました?ぼくも、お仕事がございましてね。遅くなって申し訳ありませんでした」

闇の降りる庭先に、雪洞の灯に薄やかに照らされて橿原が童女に詫びをいれる。白く結晶の煌めく庭石に腰かけて、長い脚を伸ばしてのんびりと云う。

「ごめんなさいましね。あら、そんなかわいらしいお顔をこわくするものではございませんよ。ね?せっかくとても美人さんなのですもの、ね?ええ、ああ、ご機嫌を直してくださいます?おや、前置きはいいからはやく話せというのですね。では、はじめましょうか。そう、どこまで話しましたか?」

上着をいつものように脇に置き、グレイのベスト姿に白いシャツ、カフスの銀が鎖を緩やかに揺らしている。

 童女の赤い着物と帯を眺めて、円らな黒瞳にむきなおる。

「ええ、そうでしたね。赤い花が、咲いたのでございました。いつもは木に咲く白い花だけでございますものを、あのときには、庭一面に赤い花が咲いたのでございます」

ゆったりと低く、不可思議な抑揚を持つ橿原の声が庭を渡る。

 浅く緩やかに流れる水音にも似たような、橿原のささやく声。

「一面、赤い花でございました。――――」

雪洞に赤い着物がふと闇に浮き上がる。

「ぼくは、ゆっくりとときが流れるような気がいたしましたよ。ねえやがぼくを抱え上げ、庭から引き離すようにして廊下を、奥の部屋へとかけていく時間は。随分とゆっくりと流れたような気がいたします」

と、橿原の瞳が不可思議な闇を抱いてゆっくりと。

 ゆっくりと、微笑む。



 ええ、それからぼくは、ねえやのひとりにしっかりと抱きかかえられて、わけもわからず立っておりました。ねえやはひどく怯えておりましてねえ。ぼくを抱く手が震えておりました。辺りが急に騒がしくなりまして、ぼくはじっと周囲を眺めておりました。

 乳母やの張り詰めました顔、駆けていくねえや。ぼく、赤い花が咲いたから皆がおかしくなってしまいましたのかしら、と考えておりました。

 いつもこのおうちに咲く花とは違いますものねえ。

雪の降った翌朝でございますから、空気は大層冷とうございました。それでも部屋に火は入れられず、ぼくはねえやの着せてくれたあれはかいまきだったのかしら、暖かな綿入れを着ていましたので、それであまり寒さも感じておりませんでしたのを憶えております。それにしても、普段は大層過保護なくらいにぼくの身の回りを気遣ってくれますねえやたちが、部屋に火をいれるのを忘れているのですから、これは大変なことなのだろうとぼんやりとおもっていたりしましたよ。

火は入れられませんでした。かわりに、ぼくは抱え上げられるようにしてまたねえやに連れられて、車に乗せられていたのでございます。

黒塗りのいつも乗りますのよりは小振りなお車でした。こわいかおをしたお髭の大きなひとが降りてきて、ぼくとねえやを睨みました。

 ぼく、どうしたらいいのか。ちょっと見つめ返したのを憶えています。初めてみる方でしたし、ねえやは怯えていますし。それでも、乳母やが出て参りましてぼくとねえやに頷きますと、―――ますながさん、おぼっちゃまをよろしくお願いいたしますと、―――ええ、そうはっきりいいまして頭を下げたものですから。ええ、本当に妙なことを憶えておりますねえ。ねえやはまだ震えておりますけれど、ぼくの手をしっかり握って、そうしてお車に乗りましたのです。

 車から降りてきたこわいおとこのひとは、増永さんというようでした。驚いたことに車は増永さんが運転してるのではなくて、増永さんは狭い助手席に―――増永さんには狭いようでした――入り込むと、運転席にいた男の方が車を発進させました。

 後部座席で、ねえやは震えをおさえてじっとぼくの手を握っております。

 何処へいくのかしら、と思いました。

 赤いお花が咲いたから、散る前に別の御屋敷に移るのかしら、とおもいました。

 ええ、ある意味それは正しかったのですけれどね。

 白い花が咲いたおうちの庭に、けれど赤い花は咲いたと同時に散っていたのでした。あの赤い花は、咲いたのであると同時に散ったものでした。

 血は、とても大量であったそうですよ。

 人でしたら、それだけを流しましたらきっと生きてはおりませんというようなね。大量の血であったそうでございます。ですから、あの赤い花は命の散ったときに咲いた花でもあるのでした。

 さて、当時のぼくはそんなことはすこしも知っておりませんでした。白い庭に咲きました赤い花を見てはいても、それが何を意味しますのか、わかるほどには大きくなかったのでございます。花が何によって咲いたのか、わかってはおりませんでしたよ。

 わかりましたのは、車に乗せられて、多分またおうちをうつるのだということ。

 増永さんという方が、乳母やにぼくのことを頼まれていましたこと。

 ええ、乳母やは滅多にぼくのことをひとに預けたりはいたしませんでしたから、これはよほどのことなのだとおもいましたよ。

 御屋敷に、―――それは、父様のお屋敷のことでしたけど――戻りましたときにさえ、ぼくの身の回りを誰かに託すことなどいたしませんでしたのに。

 あら、とおさまというのがおかしいですか?ええ、恥ずかしいですけど、当時はそう呼んでおりましたの。父様と。

 ええ、そしてですから、車の向かいました先が、父様の屋敷――ええ、父の当時住んでおりました屋敷の一つでございます――に着きましたときには、ぼくはとても驚いておりました。

 こんな風に急に、父様の屋敷に向かうことなど、かつてなかったことですもの。

 尤も、父は屋敷に居りませんでした。それが当然でしたと思います。急な訪問でございますし、普段から一つ処に居たことの無い父ですもの。ぼくもこのとき、もし父様に迎えられましたら、その方が驚いたことでしょう。

 ぼくとねえや、それに増永さんと運転手の方を乗せた車は、静かに車寄せへと入っていきました。しずしずと車は小径を通って車寄せに着き、ぼくはねえやと一緒にお車を降りました。増永さんという方もついてきて、ぼく、どうなるのかしらと思っていました。中へ入りますと、ねえやが少しばかり肩の荷を下ろしたようにして息を吐きました。それから、ぼくはお着替えをすませて、応接間へと連れていかれました。

 父様がいるのかしら、とおもいましたけど、そうではありませんでした。

 応接間の幾つも並びました椅子の間に、困った風にして立っているのは増永さんでございました。ぼく、不思議になりましたよ。この方はなにをしておられるのかしら。御屋敷に着きましてからお着替えとかはねえやがしてくれたのですけれど、いま一緒に入ってきましたねえやは、増永さんのかおに怯えているようでした。

 どうしましょうかと思いましたよ。ねえやがこわがるような方なのかしら、とおもいました。確かに、お髭は恐い感じでしたけれどね。

 さて、ええ、増永さんのおかおはおひげだらけでした。口髭はありませんの。ですけど、くまさんのように強いひげが沢山生えているのですよ。

 ほらね?こわいでしょう?

ねえやはこの方のおひげがこわいのかしら、とぼくおもっていました。

 ぼくが椅子に座りますと、増永さんはぼくの前に膝をつきました。目をあわせてぼくの顔をみますので、ぼくはどうしたのかしら、とおもって増永さんを見返しました。

 増永さんは、こわいことはないから、質問に答えてくれるかな?といいました。

 ぼく、何だか大きなくまさんが会話しているようで、とてもおかしくてくすりと笑いました。増永さんは片方の眉をあげて怪訝そうにぼくをみますと、それから質問に移りました。外を見たとき、何が見えた?と増永さんが聞くものですから、ぼくは首をかしげてこたえようとしました。そこへ、ねえやが――ねえやはぼくの隣りに、椅子の横に立っていたのですけど――真っ青になって増永さんを止めようとしました。

どうやら、ねえやはぼくにそんな恐ろしいことを思い出させるなんてとんでもないといっているようでした。けど、ぼくとしてはねえ。それがなんのことですか、恐ろしい目にぼくあったのかしら、と不思議でした。それに、ねえやのようすがあんまり可哀相でしたのでねえ。何ですか、必死で。ねえやの方こそ、とてもこわいめにあったのではないかしら、とおもうと。

 そうおもうと、ぼく、くちにせずにはいられませんでしたよ。

 ねえやたちは、おにわにあかいおはながさいたから、こわいの?

と、そう、ぼくはとても怖がっているねえやたちの原因が、あの赤い花なのかしらと聞きたかったのです。

 赤いお花?と増永さんはいいました。それでぼくは答えておりましたよ。庭に赤いお花が咲いているのをみたの、とねえ。ええ、なにもぼくが他のものをみてはいないことを聞き出しますと、増永さんはお話を終わりにしたのでした。あとはねえやとお話をしたようでございます。その頃、もうぼくはねむくなってきておりまして、椅子にこっくりと眠りかけていたのばかりを思い出します。

 父様はその晩帰ってはこられませんでした。

 ぼくはお屋敷ですとベッドに眠ることになるのですけど。ふかふかしたベッドに入って赤いお花のことですとか、白いお庭にもう戻らないのかしら、とかいろいろなことを考えていたのですけれど、いつのまにか眠ってしまっておりました。

 良い気持でしたねえ。お屋敷の寝台は、ぼく大好きでしたのです。お蒲団より弾むのですとか、好きでしたのですよ。

 あらさて、そんなことはどうでもようございますね。

 さて、それから何事も無く幾日かが経ちました。ぼくはなんにも聞かされませんでしたけれど、それでもようすは伝わって参ります。皆がみな、口を閉じているわけではございませんものねえ。誰もぼくの耳にはいれなくても、ひそひそ話を聞いていましたら、いつのまにか伝わって参ります。

 そうするうちに、わかってきたのは、木蓮のおうち――と、そうぼくは呼んでおりましたけれど――のお庭に、雪の上に大量の血が、そう赤い花のようにして落ちていたのだと、いうことでございました。

 けれど、落ちていたのは血だけ。

 ええ、それで皆が騒いでいたのでした。庭に沢山の血を落としていったものの姿はなかったのです。

 ひとならとっくに死んでいておかしくない量の。

 ねえ、なのに死体は無いのですよ。血だけを残して消えていたのです。あれほどの血を流しましたなら、遠くにいくこと処か、その場で事切れていなくてはおかしいくらいのものなのだということを、皆がひそひそ話しておりました。

 そして、――それにもうひとつ。

 白い庭に赤い花が咲いたようでしたといいましたけれど。

 庭は新雪に真っ白でございました。ええ、雪は一晩で世界を真っ白に染め上げておりました。そう、そのまっさらな雪の上に、赤い花は、まわりに足跡一つなく、美しく咲いていたのでございますよ。

 ええ、そうでございます。何処からも来た跡が無く、去った跡もございませんでした。一体どのようにして赤い花は咲きましたことか。血だけが、残されていたのでございます。

 赤い花は咲き誇っていたのでございますよ。

 一点のしみのない白いキャンバスの上に、堂々と。


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