三夜 赤鬼――前夜 2
さて、ぼくは木とお話をするために、何とかすることにいたしました。ああそう、このころは、ぼく、ひととお話するのは、ねえやや乳母やとでしたから、勿論ひとのお友達というものがありませんでした。同い年の方とお話するっていう機会が、このころまでは殆どありませんでしたのですよ。ですからね、やさしいねえやや乳母やたちにはわるいのですけれど、ぼく、自然と大きな木とか、おもちゃとか、そうしたものをお友達にして話し掛けておりましたよ。こどもは、そうしたものなんですってね。いろんなものと、お友達になるのですね。
ねえやたちはやさしかったですけれど、お友達ではありませんものね。
あら、ぼくがどうした工夫をしたかというお話でしたね。ぼくはですから、当時の大切なお友達に会う為に、工夫することにしたのでございます。
どのような工夫ですって?
あら、そのようにきいていただけますとはずかしいですけど、本当に工夫といったものではございませんでしたからね。お手水はおわかりになります?ええ、御不浄でございます。きれいな話ではありませんけど、そのころ、その家のお手水は庭に向けた角にございました。少し細い廊下を伝って、母屋からまいります。もちろん、そのときにもねえやがひとりついてくることになっておりました。ええ、必ずひとりにはならないようになっておりましたのですよ。五つにもなろうというのに、お手水にねえやがついてくるなんて恥ずかしいですけど、このころはこれがあたりまえでございましたねえ。ですからともかく、ぼくとしては、それでもこのときに何とかするのが計画でしたのでございます。
ええ、このときねえやはひとりになりますものね?三人より一人の方が機会がすこしは増えますでしょう?それに、戸を隔てましてとはいえ、ぼくがひとりきりの空間にいることになりますのは、このときだけです。
ですからね、ぼく、お手水にいきたいといって、午時が終りましてしばらくしたころに、ねえやにお願いしました。ええ、お午食が終りましたあとしばらくは、何ともいえない倦怠感がございましょう?とろりとした空気ともうしますか。その頃合を計って、ぼくはねえやにお願いしたのでございます。
あら、随分と悪知恵が働くなんていわないでくださいな?ぼくとしては、うまくいかせるにはどうしたらいいか、それは知恵をしぼってのことでしたもの。それでも四才でございますからねえ。大した知恵ではありませんでしたのですけど。
ともかく、ぼく、お手水にねえやとともに参りました。ねえやも、いいお天気によい加減で、お午も食べたあとでございますから、すこしあくびなどをしておりました。本当にねえ、いい天気でございましたよ。空が大層青うございました。
さて、想像されている通りでございます。ぼくは、外へ出る為に、まず壁の向こうのねえやの気配に耳をすましましてから、そうっと行動をはじめました。お手水の蓋を壁に立て掛けまして、庭に向けている窓にむけてよじのぼったのでございます。
ええ、工夫なんていいましてもはずかしいと申しましたでしょう?
それでも、当時の一生懸命の工夫ではございましたよ。
ぼくはそうして、高いところにあります窓枠に、どうやらしがみつくことができました。どうしてやりましたものですかねえ。なんとか頑張って、としかいうことはできませんよ。本当に唯あがいて、でもあんまりながいとねえやが気がつくかもしれませんでしょう?それに、大きな音ひとつ立てても外にいるねえやに気付かれますし。ぼくとしても気が気ではなかったのですけれど、そのうち木枠につかまることに全神経を集中しておりました。ええ、四才のちいさな身であの窓枠まで辿り着きますというのは、それは大層な難事でございましたよ。ちいさな指に全神経を集中させて、必死でつかみましたものです。それから窓枠に身をひきあげた力といいますのは、――――何処からきたものでございますか。そのときには、目的の木にあいますということも忘れ、目の前の、木枠によじのぼるという一事に夢中でございましたよ。ええ、そうでなくては登れたものでございません。
あら、それにしても、本当に頑張ったものでした。
何とか、ええなんとか木枠に身を乗せたときのことは憶えておりますよ。不意に見えている空が近くなって、それから、ええそれからぼくは、庭の垣根と草木をみて。
くらりと、天がゆれるようにおもいましたのは、それはぼくの方が頭から落ちていたからでしたのですねえ。
ええ、木枠にどうにか身体を乗せたのはいいのですけれど。その次の瞬間、ぼくの身はきれいに頭から地面にむけて落ちておりました。身を庇う暇もありませんでしたよ。
草が近くに迫るのが見えた、とおもいました。
地面の色までもよく憶えておりますよ。
ちょっと暗い色でしたねえ。ぼく、あそこに頭をぶつけるのかしら、と考えていたのを憶えております。頭を下に、ねえ、きれいに落ちていきました。
ですからねえ。
それからあとの記憶が、とんでいるのではないかとぼく思うんですよ。
どうしたのですって?ええ、ぼくが気がつきましたのはね、木蓮の木の下でございました。ええ、目が覚めましたら、木蓮の下に座っていたのでございます。両足を前に向けて、まるでお人形のようにちょこんとすわっていたそうでございますよ。これは、ぼくの姿を見つけました乳母やが、あとで教えてくれたことでございますけれどね。
ぼく、目を丸くしました。ええ、だってぼく、お手水の窓から落ちたところでしたのに。どうみても、すぐの処に木蓮があるのですもの。気を失っている間に、誰かに運ばれたのかしらと思いました。それがどうかも、ぼくはおぼえていなかったのですけれどね。
それともあたまをぶつけたから、しらないうちに自分で歩いてきたのかしら、と考えたことを憶えています。あたまをぶつけたら、そういう風にへんになってしまうことがあると、教えられていたのです。ですから、あたまをぶつけちゃいけませんよ、と乳母やが前に教えてくれてたんですの。
ぼく、でもあたまが痛くはありませんでしたし、こぶもできてはいないようでした。木蓮の傍にすわって、それから、機会をいかすことにいたしました。
ええ、考えていても仕方ありませんもの。少しでも機会を生かすのが、そのときのぼくにできることでございましたよ。それに、時間がないのはわかっておりました。
ねえやのひとりが庭を見れば、すぐにわかってしまいますもの。狭い庭でございますものね。
木蓮の木は、冬に備えてもうとてもねむそうでした。ぼくは、最初に木にふれて遊べなかったことをあやまって、それから、いくつかおはなしをしました。
もう本当にねむそうでしたよ。
それでも、木蓮はぼくのおあいてをしてくれました。手をあてて、おはなしをして、ぼくはそのうちねむくなってしまいました。まぶたがおりて参ります。
ゆっくりと、ねむけが襲って参りまして、ぼく、ことりとねむりに落ちてしまいました。
木の傍にありますのが、とても安心でございましてね。本当に如何してだか、ぼくむかしから、木というものが大好きでございましたよ。
みつけた乳母やたちは、気が遠くなる思いだったそうでございますよ。お手水の前にいましたねえやが先に気付いて、ほかの乳母やたちも呼んで騒ぎになって。ぼくが脱出しました細工、といっても蓋を壁に立て掛けて足台にしただけのことでございますけど、などをみつけて大騒ぎになっていたようでございます。なにやら、お手水の外に、草の踏みつけにされたようなあとがあって、ぼくが落ちたのではないかと騒ぎになりましたとか。それから何処へと探しましたら。ねえやのひとりがいいますことには、ぼくをお手水からいないといって騒ぎ出しましたころには、木蓮の根元にはぼくはいなかったそうなのでございます。
ええ、ぼくがよく木をみておりましたから、ねえやも反射的に木を、庭をみたというのですね。けれど、そのときにはいなかったというのです。
そうして、みなでさわいで、どうしようかというときになってふと見たら、―――ええ、そこに、見たときにはいなかったはずの其処に、ぼくが寝ていたというのです。
胆が消えたといわれましたよ。乳母やに、大層怒られました。
はい、反省いたしましたよ、ええ。とても反省いたしました。
でもねえ、ぼくとしては、木蓮のねてしまう前にお話もできましたし、確かに窓枠から落ちたとは申しましても、あたまにこぶも出来ておりませんでしたし。土汚れもなかったことは、ねえやが確かめて話してくれました。どこかわるくしてはいないかと、ねえやたちは大変な騒ぎでしたけど。どこも打ってもわるくもしてもいないことは、ちゃんと確かめてくれました。
それはそれで、とても不思議なことでしたけれど。
ねえやたちに大層釘をさされて、でももう木とお話もいたしましたし、それからお庭に出ずにお家にいるように諭されても、ぼくは構いませんでした。もうお外に出なくちゃいけないということはありませんでしたもの。
ええ、すこし淋しくはございましたけれどね。風が一層強くなって、木枯らしの吹く季節が本当に始まろうとしていました。こんなときには、おうちの中で、ねえやたちのいうとおりに暖かくしているのも悪くはございません。ぼく、それにもともと、結構家の中にいるのもきらいではなかったのですよ。ええ、本当に。
そうしてぼくは、おうちの中でおとなしくしておりました。木蓮の根元にいつのまにかいた不思議な出来事も、もうすっかり忘れていた頃でした。
ねえやたちも、安心しておりましたでしょう。それきり、奇妙な出来事はひとつも起こらずにおりました。針仕事をしているねえやの姿が落ち着いておりました。乳母やも黒豆を煮たり、細々とした家事を片付けている後姿が安堵しておりました。わたしはといえば、そうしたことを深く考えたわけではございませんけれど、皆の安堵を、安心して穏かな空気を感じておりましたよ。こどもというのは、そういう雰囲気にはとても敏感なものでございます。
ぼくは安心した暖かな空気にまもられて、移り変わる空を見ておりました。おもちゃで遊びながら振り仰ぐ空は、一層薄くなっていって、いつか透明になってしまうのではないかとぼく、考えていました。お空のいろが硝子みたいになってしまうのではないかしらっ、て。そうしたら、なにが向こうにみえるのかしら、と不思議なような期待しているような気持でいたものです。
さて、そうして随分と穏かな日々が過ぎました。
空が一層高くなっていく。
しんと冷えた朝、ぼくはねえやたちが起こしてくれる前に目がさめました。ねえやは部屋の隅にのべた蒲団の上でよく寝ています。ぼく、そっと起きて外を見に参りました。
ええ、期待したとおりです。
寒いさむい空気も気にはなりませんでしたよ。
白一色に、世界はかわっていたのでした。
眠っているあいだに、雪が降ったのです。ぼく、うれしくて硝子戸に張り付いて、腰板から少しでも外を覗けるように、精一杯背伸びして庭を見渡しました。
きれいでしたねえ。
庭の木蓮も、薄く雪化粧しておりました。白い花のように枝に塊の雪が処々咲いております。
ええ、そうでございます。
木枯らしの季節に咲きます花というのは、こうしてつもる雪の咲かせる花でございました。大層美しゅうございますよ。雪は何もかもを白く染め尽くしてしまっておりました。うっとりとしてぼくが眺めておりますと、空は何処までも薄青く、擦り毛のような雲が白く染めて、風が何処までも高く舞い上がっていくのがみえるような心地がいたします。
白い垣根も、いつもと違う表情で、つばきも白く染められておりました。
ぼくは、うっとりとながめていて。ですから、最初はつばきの花なのだと思いましたよ。
ええ、つばきの花だとおもいました。
白い庭に、一点のあか。
赤い花が散ったのだと、思いました。
つばきの花だと。
しんと音の無い世界で、ぼくは白に散った赤を見つめていました。どうしても目を引きますものねえ。後ろに、ねえやのおきてきた気配がいたしました。戸の開く音がして、ぼくに呼びかける声がいたします。ぼっちゃま、と―――はずかしいですね。けど、当時はそう呼ばれておりましたのですから、仕方無いでしょう?
ぼく、返事をせずに、赤をみつめておりました。
ぼっちゃま、そんな格好ではお寒いでしょう、とねえやの話し掛ける声がいたします。上に羽織るものをかけてくださいますねえやの手を着物が肩にのせられたのを、ぼくは感じたのをおぼえております。
庭に散った赤は、一点ではございませんでした。
ねえやが息を呑んでわたしを抱え込みました。
抱え上げられました一瞬に、みえたのでございますねえ。
硝子戸の腰板が、ぼくの目からみえなくしていたのでした。
目に焼き付きましたのは、白に散る一面のあか。
赤が見事に、庭一面を染めておりました。
いつもこのおうちには、白い雪の花が咲きますから移るのでございますけれど。
このとき、赤い花がさいたのでございますね。
白に一面散る赤い花。
散る赤が、血であることはねえやの慌てて引きつった顔をみなくても、わかっていたのかもしれません。
血でございました。
この冬にぼくが居りましたおうちでは赤い花がさいたのでした。
ぼくは、ねえやに部屋の奥にと連れていかれました。
それから、―――――。
あら、いけない。
気がつきませんでした。随分と遅くなってしまいましたね。
今宵はこれまでにいたしましょう。
え、続きを話してとおっしゃるのですか?いけませんよ。もう遅うございます。
明日の晩、つづきはお話しましょうね。
はい、お約束いたしますよ。
ええ、それではおやすみなさいまし。
ゆっくりと、おやすみなさいましね。
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