三夜  赤鬼――前夜 1

 雪洞の灯が庭に影を生み出す。ゆるりと生まれる影は、初めから其処に座っていたのか、あるいは影が投掛けられたときに生まれたものか。

 橿原が品の良い笑顔を向けて、縁側に座る童女に対していう。羊歯に落ちる闇、白く輝く岩肌。腰掛けて白に指を滑らせる橿原の低くて不可思議な響きの声。

「さて、今宵は何にいたしましょうか?あら、昨夜のお話は座りがわるくてきらいとおっしゃるのですか?それは困りましたこと。けどねえ、あれはあれで、あったことをそのままでございますからねえ。引いても足してもおりませんもの。座りが悪くても仕方が無いというものですよ。結末をきっちりおさめるなんて、できませんものねえ。なかなか、現実にあるお話では、きちんとした結末なんてつきにくいものですよ」

ああ、さて、では今宵は如何いたしましょうか、と首を傾げる橿原の。

 向かいで、童女が円らな黒瞳をきちんと橿原に向けている。

「あら、そうですね。では今度は、ぼくがちいさかったころのお話をいたしましょうか。きちんと結末がついたお話がご所望でございますものね?当時は唯々、不思議なお話でございましたけれど、それがいまになりまして、ある種の解決と申しますか、一種の結末がついたお話でございます。ええ本当に、子供時代のことだけでしたら、解決のつかない、糸の切れた凧のように行方の知れないお話でございましたけれど。多分これでしたら、お気持に適うかもしれませんよ」

ええと、と橿原が首をかしげた。

「すこし、まってくださいましねえ。随分昔のことでございますから、――――ええ、あれはもう、半世紀も前のことになるのかしら。ぼくがまだ、五つになろうかというときでございましたから。ええ、そういうことになりますねえ。あらいやだ、月日の経つのははやいですこと」

ゆったりと笑んで、橿原が不思議な闇を抱く黒瞳を細めた。

「ええ、随分と前のことでございますよ。ですから、――記憶に関しては、いくらか曖昧な処がありましてもゆるしてくださいね?ええ、本当に、もう随分前のことでございました。それでも、ねえ」

不思議な抑揚の声が、ゆっくりと庭をわたっていく。

「最近になって、あのときの事件が解決のつきました折には、――――ええ、随分と鮮やかに思い出したものでございますよ。ええ、ほんとうにあざやかに。ひとというのは、おかしなことに、随分と忘れないものでございますねえ。本当に、忘れないものです」

あざやかに、記憶に残ってございますよ、と橿原が微笑む。

「あかおに、って御存知ですか?文字通り、赤い鬼、でございます」

風が、ゆっくりと庭を通り雪洞の灯を微かに揺らした。





 あれは、そう冬のとばぐちといった処でしたかしら。木枯らしの吹き始める、容赦の無い冬が訪れる頃でございました。

 ぼくが住んでおりましたのはね、当時もいまも東京でございますけれど、当時はそう、理由は忘れたのですが、父親の住む屋敷にではなくて、別の処に住んでおりましたのを憶えています。

 あら、驚かないでくださいな。ぼくにだって父親くらいおりますよ?それはもう生きてはおりませんけれど、何れにしたって生まれてきました以上、両親というものはあるものですからね。一緒におりますかどうかはともかく。ぼくだって人間なのですから、木の股から生まれはいたしませんよ。そんな意外そうなお顔をされますと傷つきます。 

 酷いですねえ。

それはそうと、ぼくは当時、父親と暮らしてはおりませんでした。時々会いはしましたけど、ぼくの方はいつも家を幾つか移っていたのを思い出しますよ。母もおりましたが、あまり一緒にはおりませんでした。ぼくは何時も幾人かの乳母ややねえやと一緒に幾つかの別荘や家を移っては暮らしていた記憶がございます。

 どうしてですって?さあ、実はぼくにもよくわからないのですよ。あの頃の記憶というのはぼんやりしていて。おうちを移るのも、そういうものだとおもって暮らしておりましたから、たずねることもいたしませんでしたしねえ。唯時折、どうしてまた、目黒のおうちから、市谷のおうちにうつるの?とかばあやたちに聞いてはいましたけれど。その度に答えが、あちらのおうちで梅が咲きましたから、とか、あちらのおうちで木蓮が咲きましたから、とかいったものでしたので、ぼくはこども心におうちというのは、季節によって、―――花が咲くに連れて移るものなのだと思い込んでいましたよ。

 そうでないのを知ったのは、あれはいつでしたでしょうねえ。随分と驚いたものですよ。咲いていた花が散るのに、別のお屋敷に行かなくてもいいのだと知ったときにはね。

 ああさて、脱線しましたねえ。

 ともあれ、ぼくが今回のお話に出会いましたのは、まだおうちというのは、花と共に移るものだと思っていた頃の事でございます。

 木枯らしの吹く季節には、一体何の花が咲くから移るのか、ですって?

 はい、教えてあげましょう。

 でもそれは後程に。ええ、先にお話を進めましょうね。

 随分脱線してしまいましたもの。

 ぼくは、ですからおうちのひとつになる庭に、一人で遊んでおりましたよ。ええ、一人でした。

 家の中にはねえややばあやがおりましたから、本当に一人ではきっとなかったのでしょうねえ。一人遊びのつもりでも、庭を見守っているひとが必ずいたようでございますよ。もっとも、当時はそんなこと意識もしておりませんでした。

 ええ、きっと、あたりまえでしたのでしょうからねえ。気にしてもおりませんでしたよ。ぼくとしては、すっかりひとりで遊んでいるつもりでしたのです。

 庭に大きな冬枯れをした木蓮の木があって、ぼくはその根元で遊んでました。木切れでしたか、木の葉でしたか。そんなものをおもちゃにして、随分と遊んでいたことをおぼえています。何をしていたのでしたか。

 熱心にあそんでおりましたねえ。

大きな人影が、左後ろに立ちましたのを見たのは、そのときでございました。

 ぼくが影のある方をみあげますと、大きなひとが立っていた。そうおもったのですけれど。あわててかけつけた乳母やとねえやに、ぼくは攫い込むようにして抱き上げられて、あっというまに木から遠ざけられてしまいました。目をみはっているうちに、でございますからねえ。やはり、見張っていたのでしょうねえ。一人遊びではなかったのでしょう。

 ぼくは慌てたねえやたちから、しばらくおうちの中で遊ぶようにといいつかってしまいました。少し困りましたけど、ね。ねえやたちが本当にこまったかおをしていうものですから、ぼく、なかで遊ぶことにいたしました。ねえ、本当に困ったかおをしていたのですもの。

 え、なにがこまったのですって?

 いやですねえ、鋭い方ですこと。

実はその頃、ぼくは木の傍で遊ぶのが大好きだったのです。大きな木が大好きでした。木の葉や棒を使って遊んでいるのですけどね。朝も一緒に遊ぼうと木と約束してたのです。けれどねえ。ぼく、硝子越しに木蓮の木を眺めて、ここからあやまったらゆるしてもらえるかしら、と考えてました。

ねえやたちはとても神経質になっていて、ぼくをけして縁側から先にさえ出してくれなかったのですよ。実際縁側処か、あのおりは寒さと風をしのぐ為に、雨戸との間に硝子戸が入っておりましたから、締め切った硝子の向こうから木に謝るしかありませんでした。

遊べなかったのはとても残念でございましたよ。

木枯らしは一掃寒くなって参りまして、あまり寒ければそれもまた外には出してもらえませんものねえ。遊べる日はもともとすくないものですから、ぼくはとても残念でございました。でも、ねえやたちを困らせたくはありませんし。

みな、とてもやさしいひとたちでしたからねえ。

ぼくは、木をながめて縁側に置かれました椅子に座ってました。硝子戸は腰板の部分からは外が見えませんから、ぼく、椅子に座ってお庭をながめていたのです。椅子にいくつもお座布団を重ねましてね。ぼくの背でも庭が眺められるように、乳母やたちが工夫してくれていました。テーブルにはおもちゃがありましたけど、ぼく、はやくお外に出たくて仕方ありませんでしたよ。庭ばかり眺めておりました。

冬枯れの庭でございましたねえ。

それほど広いお庭ではございませんでしたけど、木蓮の他に、つばき、竹を編みました垣根に枝折り戸と、ひっそりとしてはおりますが良い庭でございました。

そういえば大きな影は、枝折り戸とつばきの低く植えられました辺りからあらわれたのでございました。つばきの後ろにでも隠れていたのかもしれません。

さて、ねえやたちからいつか遊ぶのをゆるしてもらえないかしら、とぼくは待ち続けていたのですけど、なかなかゆるしては貰えませんでした。

ぼく、待っていては何にもならないんだって学びましたのは、このときのことになるとおもいますよ。ええ、黙って待っていても報われることはないということをね。

ええ、本気でございますとも。おとなしく待っていたのでは、何も起こらないということをぼくはこのとき学んだのです。

だって、ねえやたちは全然ゆるしてはくれませんでしたもの。

いつまでも、唯待っていては駄目だということがよくわかりました。

あら、それがいまのわたしを造っているのですかって?ええ、勿論ですとも。いまのわたしがありますのは、待つことをやめたからでございますよ。

ええそれで、このときのわたしはどうしたのですかって?

わたし、決意したのですよ。

待つのはやめました。それは、ねえやたちは大切ですけれど、木もとても大切でしたのです。もうすぐもっと冬はさむくなります。そうなりましたら、木というのは寝てしまって、次にこの家に来るときまで、遊ぶことは出来なくなりますもの。それに、いくつか家を移りますうちには、またその家に行くことのなかった家もございます。

このお庭の木蓮と、またあえますのはいつのことか。

ですから、ぼくは庭に降りて木蓮にあいさつをすることにしたのです。

さて、そうするとなりますと、問題になるのはいつどのようにして庭に降りるかということでした。あら、難しく考えすぎるっておもいます?

でもねえ、ぼくが庭を眺めておりますでしょう。そのときには、必ず遊びの相手をしてくれたり、針仕事をしていたり、そうしたねえやが必ずひとりは傍にいたのでございますよ。ええほんと、大袈裟でございましょう?こどもひとりを相手に、何をしていますものやら。

昼間はそのようでしたし、三度のごはんは勿論でございます。お食事のときには三人がついていたとおもいます。お給仕をしてくれるねえや、作法をおしえてくれて、お食事をするのをたすけてくれる乳母や、細々とした世話をしてくれるねえやです。

ぼく、おぼっちゃまでしたのですねえ。

夜は、おはなしを読み聞かせてくれますねえやがいて、蚊帳のそとにはいつも人がいたようでした。

困りました。どうしたら木とお話ができるかしらとなやんでおりましたよ。

あそべないのでしたらねえ。

木が眠ってしまう前に、お話だけでもしたかったのです。

そうこうしている内に、風は冷たくなって参ります。今度のようなことがなくとも、いつもお家の中に閉じ込められる季節がすぐにも到来いたします。

空は青く澄んでおりました。こわいくらいに遠くまで澄んでおりましたねえ。筋雲が白く刷毛のように青空に彩りをくわえておりましたよ。風の天高く空を舞う、その舞うさまがみつめられるような冬空でございました。ぼく、空をみるのが好きでしたのです。

あら、いえ、いまも好きでございますね。

オフィスの唯一良い処は、空が見渡せることですもの。閉じ込められるのは好きではありませんから、ぼくとしては本当は仕事場はもうすこし自由な感じの方が好きなんですけど。いまもむかしも、ひとが周囲からいなくなるということがないのですよねえ。

いけませんね、脱線いたしました。




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