二夜 うつろ 3
星に照らされた村がありました。黒々とした家、迫る山肌の持つ闇。誰もいない村道。
道にも何処にも、誰もいませんでしたよ。
音も、ぼくの手が離れて戸が鳴ったのでした。
このときのぼくの気持を何といったらいいでしょう。誰もいないような気がいたしました。同時にそんなばかなともおもったのです。星明りの悪戯ではありませんかと。
眠るのが早い村人が、戸を開けた音くらいで起きてこなくても、深い眠りの中にあれば当然ではありませんか。ぼくは、もう一度土間をみました。星明りに薄暗い土間は、朧な影を抱いてひんやりとしています。どうしたらいいのでしょう、とぼくは考えました。何れにしても誰か村人に起きてもらわなくてはなりません。
だから、声をあげようとしました。
手を下ろして踵を返したのが何故かは、―――申せません。なぜかと申しますとね、そのときどうして自分がそうしたものか、いまになってもわからないからですよ。
いえ、正直に申しましたら、わかる気もいたします。
ぼくは、―――。
ぼくは、こわかったのですよ。其処で声をあげるというのがね。
如何してでしょうか。それはまだわかりません。ですが、ぼくは荷物を下げたまま、その農家もまた後にいたしました。
月の無い夜ですが、星が煌々と夜道を照らしておりました。村道を登り、ぼくは一軒一軒を訪ねて行きました。
どの家も、かわりはありませんでしたよ。ひんやりとした土間、音のしない引き戸、薄く凝って闇と同化してしまいましたかのような農作業の道具やこまごまとした品物。
誰一人、夜中に戸を引き開けるものに対してかおをみせようとはいたしませんでした。夜気がしんと冷えた中、ぼくは一番最後の家まで歩いて行きました。どうして一番最後とわかるのですって?ええ、その家はね、一番立派で、一番最後に、―――山の取っ付きに建っておりましたよ。村の一番高い処にありました。
それにしてもしずかでしたねえ。
村の一番高い処にある農家に向けて足を運びながら、ぼくはゆっくりと考えていました。荷物を手にして、どうしてまたぼくはこれまで見つけた農家の何処か、どれかの隅にでも身体を横たえて眠るということをしなかったのかしら、と。夜半はとうに過ぎていたでしょう。冴え冴えと天空を飾る星も随分と姿を変えています。
北斗を中心に傾く星は既に時が三時を過ぎたことを示していました。ぼくは何だか、時間の感覚を無くしていました。
最後に庭先に立った農家は、随分と立派なものでした。あら、と思ったものです。どうしたらいいものでしょうか。それでも、特にどうしたらいいともね、これまでと同じにするしかないでしょうと、ぼくはゆっくりと庭を入って行きました。
前庭から、玄関にまでいくのは、特に何事もかわるものではありませんでした。広い戸が並ぶ玄関に、ぼくは手を掛けてゆっくりと引きました。
戸は簡単に開きました。ぼくは、石の上り框を越えて、ひんやりとした土間にはいった。どうして中に入ったかは、聞かないでください。多分、もう最後だとおもっていたのです。これまで訪問した家総てが音も立てずに静かでいました。誰も姿をみませんでした。
ぼくは、土間から座敷を仰ぎました。炉が切られていて、自在鍵に鉄瓶が下げられています。
そこでぼくは、はじめてのものを見ました。
行灯に火がありました。何だか酷くほっとしたのを憶えていますよ。はじめは見たものが信じられなかった。
灯の傍には、一人分の膳が設えられていました。ぼくは歩み寄っていました。手にした荷物を置いて、ぼくは座敷に座りました。何となくですが、膳はぼくの為に用意されていた気がいたしました。単に、お腹が空いてただけのことかもしれませんけど。
膳は綺麗な塗りで、蒔絵まで施されていましたよ。四足のお膳にも、器の一々にも美しい金の蒔絵が闇に沈んで輝いてました。ぼくは右手に荷物を置いて、膳に向かうと、ありがたくいただくことにいたしました。
え?行儀が悪いですって?それはそうですけど、ぼくお腹が空いていたんですもの。ずっと山道でしたでしょう?夜中にものを食べるのって消化によくないとはいいますけどねえ、こればかりは仕方ないのじゃないですかしら。
え?そういうことではありませんの?とにかくぼくは、おいしくお膳をいただきました。それから左手を見ると、黒塗りの引き戸が、――――先程までは開いておりませんでしたのに、薄く開いておりました。
ぼくは立って引き開けると、其処には誰もいませんでした。かわりに、蒲団がのべられていました。綿の厚い絹張りの立派なものでしたよ。
ぼく、ねむかったですから、ありがたくいただくことにしました。
え?図々しいですって?
いやですねえ。ぼくを誰だとおもってるのです?こんなときに遠慮するわけがないじゃないですか。
ともあれ疲れておりましたので、お食事を頂いて、床までのべて頂けたのでしたら―――あら、ですから誰の為かもわかりませんのに、不謹慎ですって?それはそうですけど、あの。ともあれねえ、食事と寝床の誘惑にはぼく、弱い自信があるんですよ。
ぼくは荷物を頭に置いて、横になることにいたしました。きちんとした睡眠って、とても大切なものですよ。ぼく、眠れるときに寝ておくようにいつもしているんです。ご飯も一緒。
あ、さてそうして、ぼくはぐっすり眠りました。
よく寝ましたねえ。
気持良く目覚めて朝を迎えましたのは、日の出とそうかわらない時間ではなかったかしら。薄く日が闇に射しましてね、美しいものでしたよ。日が射す方から薄明るくなってきて、まだ闇が底に沈むように沈殿した夜の残りが、ゆっくりときらめく光に消えていく。
ぼくは目を覚ましました。庭に出てみたときには、朝の大気が清々しくすべてを透明にしていくようでしたよ。暗い部分はまだ暗く、日に照らされた部分はそれはまたあかるくなって。
村の様子がよく見渡せました。昨夜訪れた一軒一軒が朧の底から浮き上がってくる。一つ一つを数えてから、ぼくは庭から座敷へと戻りました。土間から見あげて、もうわかっていた。
荷物はなくなっていました。
膳も片付けられていて、お蒲団ももうありませんでしたよ。きれいに土間は静まり返っていました。まるで、昨夜食べたお膳も、寝たお蒲団も幻でしたかのようでしたねえ。
何もかもが片付いてしまっておりましたよ。
炉は切られたままでしたけれど、自在鍵と鉄瓶はございませんでした。
朝の光で拝見しますと、立派に見えた農家は、随分と人が住んでいないのがよくわかるものでした。それから、ぼくは全部の農家を、もう一度訪ねました。
来るときと同じように、土間を覗き、家畜を飼っていた小屋と納屋を覗きました。
家畜はいませんでした。牛も鶏の一羽もおりませんでしたよ。
飼っていた小屋はありましたのにね。
朝の中で見た家の中に誰もいなくても、ぼくはもう驚きませんでした。
そんな気がしていたのですねえ。
そのままぼくは山道を下り、無事にそのまま残っておりました車で麓まで行く途中に、大きな御寺がありましたので寄らせていただくことにいたしました。
ご住職様が親切な方で、突然の訪問にも快く対してくださいましたよ。
思ったとおり、この御寺は近在の在所一帯をおさめる御寺でございました。そこで過去帳を拝見いたしまして、ぼくは知りたかったことを突き止めました。
ええ、お考えになっている通りですよ。
過去帳には、村の名が記してありました。なまえは、ここではようございましょう。ぼくが前の晩に立ち寄りました村は、随分と前に廃村になっておりました。
はい。誰も住んではいなかったのですよ。誰の返事もないのは当然でございました。それでは、一体誰があのお蒲団と食事を用意したのですって?そうですねえ。確かに誰か、いたはずですもの。
けどねえ、それは、もしかしたらぼくが見た幻かもしれませんよ。お腹が空いてて、ねむかったからみました幻かもしれません。そんなことを、住職さまからお話を伺いながら、ぼく、おもっていたりしましたよ。
ともあれ、ぼくは住職に御礼をいって寺を離れ、戻って上司に報告に参りました。
それですべてが終わりでございましたよ。
それだけのことでございました。
こわいものなど、何処にも出て参りませんでしたでしょう?
あら、夜も更けて参りましたこと。ええ、不思議な夜でございましたよ。
うつろ、という妖を御存知ですか?
特にねえ、正体も無い妖だというのです。
何も正体のない、ねえ。何だかそんな、得体の知れない何かなんでもないものに、出会ったような気がいたしました夜でございましたよ。はい、不思議な夜でございました。
ええ、そうして、ぼくはこわかったのでございますよ。
誰もいない土間を開けましたひやりとした瞬間。誰もいない村を歩いておりましたとき。
形ばかりは残っております村がうつろで、―――ええ、これがうつろというものかもしれないとおもいました。
何にもないのに、形ばかりが残りますというのは、―――うつろなものです。
ああ、―――荷物はどうなったのですって?
ああ、それですけれどね。荷物を届ける先は、その廃村になっていたのです。ですからぼくも、住職に村の名をすぐ告げて、廃村であることを過去帳から知ることができたのですよ。
最初から、無い村に届ける荷物でしたのですね。まあ、ですから、荷物は届いたといってもいいのではないでしょうか。朝起きたら、荷物は無くなっていたのですからねえ。
無人の村で荷物が消えたことにも、上司は特に何も申しませんでした。
それから?それからと申されましても、それだけでございますよ。ええ、それだけのお話ですよ。
はい、それだけのお話でございます。
あらあら、いつのまにか、随分と夜も更けてしまいましたこと。今宵は、これまでにいたしましょう。
おやすみなさいまし。
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