二夜  うつろ 2


 ぼくは、あのとき仕事で山に登っていたのですよ。

 あら、似合わないといわれます?そんな、くすくす笑わないでくださいな。そんなことをいっても、当時は下っ端ですもの。あら、わたしにだって新入りのときがあったのですよ。信じていただけないかもしれませんけど。

 信じないんですね?いいですけど。

ええ、それはともかく、ぼくは似合わない山登りというものに精を出していました。仕事でしたしねえ、やらないわけにはいきませんもの。ぼくも組織で働いているんですよ?

よろこんでじゃあなくても、やらなくてはいけないことってありますでしょ?このときは山登りがそれでした。お仕事ですからねえ。仕方無いというものです。

あ、山登りなんて何故お仕事になるのですって?

ええ、実は山登りが目的ではありませんでね。山を登って、その先にある山里に行くのが目的でした。何しろ相手が山にありますものねえ。登らないと着けないというわけですよ。車は無かったのですかって?それがねえ。途中まではぼくも確かに車を使いました。けど、舗装された――ほら、不恰好ですけど、最近の道は殆ど車の走りいいように、硬く表を固められてしまっているでしょう?あれを舗装というのですけど。不恰好な仕様ですよね?ともかくそんな車にいいように舗装された道は、あっというまに終ってしまっていました。ぼくが麓からそんなに車を走らせる間もなかったのじゃないかしら。

あら、ぼくが車を運転するのって意外ですか?

それはねえ、いま運転したら如何なるかといわれますと保証の限りではありませんけど。最近は人の運転する車にばかり乗っていますから。

車はね、でも一応運転できるんですよ。当時だってうまい方ではありませんでしたけどねえ。けど、練習でうちの塀にぶつけた以外は、道では安全運転でやってきたんですけど。無事故無違反で貰えるゴールド・カードっていうの、知ってます?ぼくもってるんですよ。みせてあげましょうか。

あら、いらない。いいんですけど。

とにかくね、ぼく、早々に車は降りました。ええ、ね?そうでなくても山道でしたのに、本当、カーブとかいったものの恐ろしいことといったら。

何れにしても、道が車の通れるものではなくなっていたからには、降りて歩かないわけにはいきませんでしたよ。気の早い薄なんか道端に生えてね。草茫々の山道でしたけど、お仕事ですからねえ。ぼく、登ることにいたしましたよ。真面目でしょう?

本当にねえ、ぼくは随分と自分が真面目だと思いましたよ。荷物を手にね、青空の下を登って行きました。天気が崩れやしないか気にはなりましたけど、行く先には村があるわけですしね。何れにしたって、ここまで来た以上は品物を届けてしまわなくて戻れるわけもありませんよ。

ええそう、ぼくのお仕事というのは、ある品物を届けることでした。使い走りのする仕事ですって?それはそうですけど、実際そのころのぼくの立場というのは、使い走りをする新人でしたもの。ぼくにだって、そういうときがあったのですよ。

山は歩くにつれて、段々とぼくが予想した以上のペースで暗くなってきました。歩きながら、困ったとおもったものですよ。どうしたらいいものかとねえ。本当に困ったものです。道はなれない山道でございましょう。おまけに、とうに御理解いただけているかとおもいますけど、ぼく、肉体労働は不得手なんです。まして山歩きなんてねえ。

そうこうする内に日は翳って参りますし、ぼくとしては歩きながら不安にならないわけにはいきませんでした。こんな山の中で野宿というのは頂けない話ですし、第一段々と道が合っているのかどうかも怪しくなって参りました。

暗くなりはじめた山道を独りで辿るというのは、正直に申しあげてぞっとする体験でございますね。しかも見知らぬ道で、足は疲れて、気がついたら空はもう薄墨色。いつ本当に真っ暗になってしまうか気が気ではありません。気がはやるほどには足は進みませんし、荷物もありますもの。捨ててしまうわけにも参りませんしねえ。そんなことをしたら、ここまで仕事に登ってきたのが全部無駄になってしまいますよ。ええでも、正直にいえば、荷物なんて捨ててしまいたいのが本音でございましたねえ。

とにかく一刻もはやく村に着きたかった。それがどんな処かは存じ上げておりませんでしたけど、着けば休む場所もあるでしょうしねえ。何より、このくそいまいましい荷物を手離せるのですからね。本当に待ち遠しゅうございましたよ。

荷物を一刻もはやく届けて、―――下山は無理でしょうから、何処でもいいから、納屋の片隅にでも宿を借りるつもりでおりましたよ。ええ、野宿よりはましでございましょう?ともあれ、そのときはそう思っていたのですけど。

一歩一歩、引き摺るようにしてどうにか足を運んだ成果か、遠く上の方に固まった集落が見えて参りました。ぼく、あのときは落胆したのか喜んだのか、自分でもよくわかりませんでしたよ。遠く、あんまり遠く上の方に―――こんなに登りましたというのにねえ―――村はあるようにみえましたし、傾斜は随分と急でございました。それまでも、坂は随分ときつかったのですけど、これから聳える道に比べたら、急峻な崖と平野をつっきる道くらいの差がありましたよ。

本当に、こわいくらいの壁でございました。村までの道は、坂というよりは壁といった方が似合うようなものでございましたよ。登りながら、いつ転がり落ちてもおかしくないと思っていましたもの。

ええ、それでもぼくは登ったのですよ。道程のおそろしさもありましたけどねえ、先にいいましたでしょう。よろこびといいますのをね。目標を見出した喜びというのが確かにございました。それまで陰も形もみえていなかったものが、目の前に姿を現したのですからね。少なくとも、道が間違っていないことは顕かになりましたから、ぼくとしては随分と元気が湧き上がってきたものでした。

ぼくが殆ど無謀にも思えます壁昇りを続けて村へと接近していく間に、山はとうとうとっぷりと暮れてしまいました。本当に急に暗くなって、しんと冷え込んできたものですから、ぼく、自分がいつもの袖の長い暑苦しい服――このときは杉綾のスーツでしたけどね――を着て来てよかったと思いましたよ。それくらい冷え込みはきついものでした。

静かに山に闇が降りて、一気に世界は闇の手に落ちてしまいました。ぼくは、空が晴れていて星明りが美しいことに感謝しつつ壁のように思える坂道を登って行きました。

痛いほど星が近くて綺麗でした。けど、見惚れていたら坂を転がり落ちていたでしょうねえ。ぼくは、必死になって壁だけみるようにして登っていましたよ。

土塊が坂をそっと転がり落ちていきました。ぼくは慎重に足を掛けながら、足場を固めながら登っていた。雨が少ないからかしりませんけど、土は乾いていてね。下手な処に足掛けしたら、ぱっかりと割れて一緒に落ちそうでした。ぼくは慎重にやりながら、登って行ったのです。だから、信じられないくらいでしたよ。

坂を求めて足を伸ばしたら、つんのめって転びそうでした。道がいつのまにか、ほんのすこし平らに、それからまったくの平に造られた場所に足を降ろしたことにそれで気がついたんです。村にようやく辿り着いた。それだけがわかりました。

とにかくほっとしたのを憶えてますよ。足をねえ、両足を地面について、膝を押えてしばらく息を整えてました。情けない話ですけど、足をとめた途端、もう一歩も動けない心地になりましたよ。もっとも、そういうわけにはいかなかったのですけどね。

荷物を渡さないわけにはいきませんでした。

ぼく、自分が物凄く真面目だと思いますけど、本当にね。何処の庭先に潜り込むにしたって、渡すものを渡してからでなくては眠れませんもの。本当に真面目でしょう。

ともかく、ぼくは息を整えて、顔をあげました。真っ暗な村が目に入りました。山里ですからね。何処にも灯がみえていなくても、ぼくは不審にも思いませんでした。田舎の朝が早くて夜がまた早いのはよく知られていますもの。一応ぼくだって知っていましたから。

ですから、困ったとは思いましたよ。本当にねえ。困りましたとも。相手がもう寝てましたら、起こさないといけないでしょう?はやく荷物は渡したいのですけど、相手が寝てしまっていては、戸締りもされてしまっていたら、そう簡単には起きてこないかもしれないと不安になったのですよ。そうでなくとも、物音ひとつしませんのにねえ。

ええ、何にも音がしませんでしたよ。物音処か、もう山全体が静まり返って恐ろしい静寂に包まれてしまってました。それは押し潰すような、まるで重さを持った静けさでございましたよ。澄んだ空気と夜気のつめたさと、星々のおそろしいくらいの美しさ。針のように降る白い光が星だなんて、如何して信じられるんでしょうねえ。少なくとも都会でみるあの光の弱った細い代物と同じだなんて、誰も信じないんじゃないでしょうかとおもったくらいです。

星の白い光に照らされて、黒々とした家々が幾つもぽつんと浮かんでいました。あるいは、背景になる山に溶け込んで輪郭を無くしてより一層黒くなってました。

ぼくは、勇気を持って足を踏み出すことにしました。ここまで来て無駄足は踏めませんもの。

ある一軒の農家を目指してぼくは歩き始めました。深い理由があった訳じゃありません。ぼくから一番近い処に建っていたんですよ、その家は。

深い切り妻屋根の、古い古い農家でしたねえ。闇に近付いていくにつれて、屋根が家が、黒々とした塊にみえてきましたよ。量感と質感が一層濃い。

よく踏み固められた土を足の下に感じながら、ぼくは玄関に向かいました。しんと土間は冷えていて、ぼくが戸を引き開ける音さえすぐに静けさに呑み込まれていったようでした。

引き戸を押したまま、ぼくは手をついたままにして立ち尽くしていましたよ。

しんとしていた。音一つしませんでした。引き戸は滑らかでね、音が呑み込まれたといいましたけど、本当は最初から物音はしなかったのかもしれません。ええ、戸に鍵は掛かっておりませんでした。もっとも、こうした処ですから、鍵というよりは、内側からのつっかい棒が立っているか如何かということなのでしょうねえ。何れにしても、戸は抵抗することなく静かに開きましたよ。

土間はしずかだった。

敷居を跨いだまま、ぼくは片足を踏み入れて、まだ片足は後ろに残したまま、中途半端な姿勢で立ち尽くしてました。どうしてだかはしれませんけど、手を戸についたまま、ぼくは中に入る途中で動きを止めてしまっていた。

家人は誰一人出てきませんでした。暗い土間に星明りが微かに踏み台や、桶なんかを黒い塊にしてみせています。ぼくは、じっとしたままそれを眺めていた。手をね、そっとついてそれから、足を抜くようにしてそうっと後ろに下がったのは、何があったから何でしょうか。

多分、何もなかったから、なんでしょうねえ。

ぼく、開いたままの引き戸から一歩離れて土間をみてました。

このとき、凝然として何を考えてたかもうぼくには思い出せません。

何かねえ、何でしょう。

星明りを背に、引き戸の向こうにある土間を前に、ぼくはゆっくりと右を向いて、振り返らずにその農家を後にしました。村の間にある道に出て、そのまま右手にある農家へ行った。庭先を入り、同じような造りの農家の玄関先に立ち、それから、―――――。

それから、ぼくはきしむ戸を引き開けました。

暗い土間が広がっていました。なにもかも殆ど同じでしたよ。

闇が落ちていて、そくりとさむいものが背を落ちた気がいたしました。

 戸が、軋むような音を立てたのはそのときでした。


 ぼくは、――――ゆっくりと、振り向いた。


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