二夜  うつろ 1

「今宵は何から始めましょうか?」

訊ねる橿原の口許に不思議な微笑が零れる。童女を前に、朱の帯、朱の鼻緒、切り揃えた黒前髪もあいらしい、円らに黒い瞳を前に。

 前夜とおなじ宵闇の降る庭先で、かわりもせぬようにして腰掛けて。庭石の、白い結晶の灯を返す表面に手をおきながら、ゆるりと橿原が微笑んで云う。

「そうですねえ、以前、やはりわたしが行き会ったおはなしにいたしましょうか。いえ、昨夜のようにこわいものは出てまいりませんよ。死体とか、そうしたこわいものは出て参りませんとも。わたしが信用なりませんか?」

ああいえ、でも、と橿原が微笑む。

「確かに、そうかもしれませんねえ、―――こわいおはなしには違いないかもしれません。こわいものなんて、なにも出てはきませんでしたけど、…確かに、とても怖うございましたよ。ええ、本当に」

雪洞の灯が薄明るく庭と縁側を照らし、長身の橿原が座る姿が、庭の奥に陰を曳く。

「どうしてあれほどこわかったのですかねえ。いまでもよくはわかりませんけれど。そう、あれは、ぼくがねえ、まだ独り身の頃でしたよ。ええ、先のお話よりはあとのことです。あれの一体何処がこわかったのか、いまだにぼくはきちんと説明することが出来ません。いえね、確かに説明することが出来ないからこそ、恐怖というのかもしれませんね」

ほんとうに、と橿原は語り始めた。

「ほんとうに、ぼくはあの種の恐怖を、感じたことはありませんでした。あれは、ぼくが独身でいました最後の夏のことなのですけれど」

本当に、怖いと思いましたよ、と。橿原はゆったりと思い出すようにして目を細めた。







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る