一夜 嵐玉 5
ぼくは朝日で目が醒めました。
最初に目にしたのは、割れた硝子の破片だった。妙なことを人間憶えているものですよね。廊下の寄木細工―――ええ、見事に磨かれた年代物の―――に、割れた硝子の破片がいくつも光を、朝日を反射して輝いてました。
嵐が、風が強く吹いて散らかしたのでしょうね。きれいに飛散っていた。ぼく、眺めていました。しばらくは身体を動かすことも出来ずに、横たわっていたんです。あら、驚きました?
ええ、あのときのぼくは、動くことすらままならなかったのですよ。
だから眺めてました。
美しい硝子の破片、太陽の光。
良く晴れ渡った空、嵐が吹き払ったあとの美しさ。
見ずにはいられませんでしたね。そして、不思議だったんです。どうして、生きているのかが。
とても不思議でしたね。
犯人はどうしたのかしらとおもいました。
どこへ消えたのかしら、とね。いつのまにかぼくは、あのかおの持ち主を犯人だと考えていたのですけれど、それは当然の反応ではあったでしょうねえ。ふたつも死体があって、その場に居合わせた人物ですもの。尤も、本当にそうは限らないことくらい、一応わかってはいたはずですけどねえ。ともかくぼくは、そう、夜が明ける前にどうして殺されていなかったものかと、それがとても不思議でしたのです。
ねえ、不思議でしょう?
あのかおの持ち主が犯人でしたら、妙な処に来合わせたぼくを生かしておくなんて殆ど在り得ないことですもの。
ねえ、本当に。
白々と射してる光がね、きれいだったなあ。全然関係ないけど、きれいでしたよ。あれほどきれいな夜明けは、ある意味初めてでしたかしら。
それまで、あんまり夜明けとか、そんなきれいなものを意識してみている余裕がありませんでしたねえ。それから、意識してみるようになったのですけど。こうしてみると、あれもまた何かの転機というものになっているのかしら。夜明けとか、自然とかがこんなにも美しいものだっていうことを、ぼく、当時は忘れていたような気がいたしますよ。いえ、正確にいいますとね、正直にいってしまえば、本当に見ていなかったのでしょうねえ。それまでは。
ぼくはゆっくりと身を起こしました。倒れ込んだのですし、何処か打ち付けてやしないかしら、とおもっていたのを憶えています。手で頭にさわったりして、痛い処も腫れてる箇所もないのを確認したりして、まだ座り込んでましたね。
動こうにも力が抜けてて、何だか如何にも、如何にかして随分危ない処を生き延びたんだ、―――――という不思議な感慨から抜け切れませんでした。
おそろしいかおに行き会ったことを抜かせば、そう大したことをしたわけでもありませんのにね。それでも、命を拾ったのだ、――――あやうい処を生き延びたのだという気持がなくなりませんでしたよ。
そして文字通り、漸く生き延びた脱力感にひたって、白々と溢れる光に埋まった廊下を眺めていた。
ああそうか、とおもいました。
横になったそれは、―――死体でした。
いくらなんでも、一晩立ち続けということはなかったのですねえ。
横になって、ぼくの方に頭を向けてるので表情とかわからない死体を眺めてからぼくはあらためて左手の方をみました。ええそう、ぼく、頭を左手に、つまり居間の方に、足を廊下と入り口の方に向けて倒れてたのですね。そうして起き上がってでも最初に見たのは、破れた窓と、窓から射し込む光―――いくつも廊下に並ぶ丈高い格子窓からのひかり。
入り口の死体を最初に見たのは、やはり居間を向くのを敬遠してたのでしょうね。ええ、勿論居間にあった死体のことではありません。最初にかおをみたのが、そこでしたから、目をあけてすぐにもそちらのほうを向くのを避けていたのですねえ。こわいものにあうのがいやだったんですよ。
けれど、目を向けたぼくは、別の意味で驚くことになりました。
かおはいなかった。
けど、――――死体が、白い血の抜けたその死体、先に立っていると思った死体が、まだそこに立つように、立っているようにしてあったことにおどろいたんですよ。一晩経ってまだ死体が立っているのかと。
違いました。ぼくは思い違いに気がつきました。明るく照らした日が、光が細工を暴いていました。
紐がさがっていた。
夜に誤魔化されて前の晩はぼくにはみえなかったのですねえ。
死体は、立っているように見えましたけど、それは天井から吊るされていたのでした。丁度、足が台のように踏み締めていましたソファに囲まれた低いテーブルにつくようにしてです。
床から立つように見えていたのは、ソファの背に足許が遮られていたのと、無論ぼくがよくみていなかったせいでした。首と頭を、―――そう、輪のようにして頭の上をね、髪と同じ色の紐で縛って、かおが項垂れないようにささえていましたよ。ああそう、日のなかで見たこともいいませんとね。闇の中で、真っ白だとおもったといいましたでしょう?ええ、日のなかで見てもまた、白い姿でしたよ。紐は白でした。髪も白かったのですよ。多分それが、一層真っ白な風に感じさせたのですね。
ぼくは吊り下げられた死体を見つめて、それから息を吐いて壁に背を凭れさせました。急に疲れた気がした。犯人が意図したものを見せられてしまった感じでした。さぞ得意なのでしょうね、とおもいました。廊下に斃れてる方はともかく、居間に吊るされた方には随分犯人の意図が、みえましたからねえ。思い通りにできて、うれしかったのではないかしら。項垂れないようにみせる工夫なんて、随分ねえ。
ぼくは、交番の方に来てもらわないと、と考えてました。とにかくこうして、死体がありましてはね。昨夜のことは、ぼくの見た幻かなにかっていう決着は付けられませんから。困りましたよ、当時は。
それでぼくは交番へ行こうと屋敷を出たのです。それが、すべてを解決させる答えを導いてくれるとは知らずにね。
いつもおもうのですよ。
状況が動かないとおもうときがあるでしょう?なやんでしまって身動きがとれないように感じられることとか。こまりはてて行く先を見失うことってありません?
ないかしら。
すくなくともぼくはね、このとき以来考えることになりましたよ。どうにも答えが見えないような、くるしいときにね。その場にいたら、みえないことが、ほんのすこし視点を変えましたらみえることもあるのだ、ということをね。
その場に留まっていたらみえないことも、動いて別の角度からみれば、あるいは、ほんの少し動いてみたというだけのことで、解決することもあるのだということをね。みえるのですね。あるいは、単に場所を移動したというだけのことでも、事態を動かす力があるのかもしれない。ねえ、それ以来、考えるようになりましたよ。留まって考え込んでいては何もみつからないのだということをね。ええ、ほんとうに。
だって、ぼくは屋敷を出た途端に、解答を得たんです。解答といいますかしら。ぼく、実は何故なんて本当に考えていたわけではなかったのですからねえ。それでも、無意識の内に考えていなかったとは申せません。
でなくて、あしもとに見たものを、それを見た瞬間に、謎の解答が、――――すべての解答がひらめくようなことはなかったでしょうからね。
屋敷に残して来たお二人分の死体、そしてあの、―――かおの謎。
ぼくは実際にはきちんと考えていなくても、無意識に考えてしまっていたのでしょうね。
みてしまいましたよ。
あしもとにころがっていたのは、死体でした。
三つ目です。
二つと違って、全身がきちんと揃ったとは云い難い死体でした。ぼくが足を踏み出した玄関先に、首のちぎれた死体がひとつ。
首は、丁度大きな力に薙ぎ取られたようにして、水平にちぎれて死体の横にころがっていました。ほんの半歩も離れていなかった。
そして、ぼくはすべての解答を得たんです。
交番へぼくはいきました。明るい太陽のもとでは、随分容易なことでしたよ。立派な門を潜って、あかるい街を歩いてぼくは交番から二人、あと応援もお願いして来てもらったんです。驚いてましたねえ、お二人とも。それから、あと警察署の方とか、県警の方とかもいらっしゃいましたね。ええ、なんだか一気にひとが多くなりまして、ぼくはそれで、お手伝いをしました。お話をして、それからお迎えが来て、あ、そうそう、半日病院にも入れさせられましたねえ。一晩泊まるようにいわれましたけど、抜け出してしまいました。ぼく、病院ってきらいなんです。
ああ、事件ですか?もうあまりお話することは残っていませんよ。つまらないお話です。ほら、夜の闇でみたら、とってもこわいおばけでしたのに、昼のあかるい陽射しの中でみましたら、全然こわくなかったってことはございません?ね?
そういうものですよ。
ね、本当に。
ですから、このあとのことはいわば蛇足というものですよ。語るに足りるものではありませんけど。それでも?
ああ、それでもお聞きになりたいのですか。
では、もう全然がっかりした、なんていわないでくださいましね?
本当に、お約束していただけます?
何だかがっかりするような解決なのですから。
ほんとうに、おやくそくしていただけます?
はい、―――では、お話いたしますけれども。
わたしが渋ったことはおぼえていてくださいましね?
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