一夜  嵐玉 4


 さて、先にぼく間取りがわからないといいましたけど、まったくというわけではありませんでした。屋敷に飛び込む前に、薄闇に照らされる屋敷の一部を、先に観察してはいたのです。もっともその一翼だけですし、ぼくとしては何もわかっていないのと同じでしたけれどね。立派な玄関から入り、左右対称に広がる棟の右手側にはいってすぐに、悲鳴をぼくに届けさせた死体がありました。順路を逆に辿れば、出ることも出来るでしょう。いましばらく待てば、明かりも点くかもしれませんし。

だから、動かないで此処で待つか、もとの順路を辿って逃げ出すかがぼくの選ぶ事のできる道でした。少なくともそれが無難なことだけはぼくにもよくわかっていたのですがねえ。

 ええ、選択肢はまだ他にあります。

 第三には、そう、先へと進むこと。

どう考えてもひとりっきりのこの状況では無謀な考えなんですけどねえ、三番目は最悪の選択かとおもうんですけど。でも、当時ぼくが選んでしまったのは、三番目の選択肢でした。

 ええ、ぼくは先に進んだのですよ。明かりも無い中を、いつ犯人が出てきて襲うかもしれないというのに。やはりどう考えても、あのときのぼくはまっとうに考えてはいなかったのだとおもいます。

 でなくて、ひとを撃ち殺した犯人がいるかもしれないお屋敷を、何処がどうなっているかもわからずに奥へ入り込んでいくなんてこと、しやしないでしょう。

 もしかしたら、単にいつもの方向音痴の癖で、先へ進まずにはいられなかっただけのことかもしれません。戻るより進む方が好きなのですよねえ、性分でしょうかしら。

 壁にもともと近く立っておりましたから、ぼく、壁に手をついて、ゆっくりと歩き始めました。犯人がまだ近くに残っているだろうとそのときぼくは思っていました。ですから一層解せないのですがねえ。一体何を考えていたのやら。死の危険を賭してまで、ねえ。

 犯人がついさきほどまで其処にいたのは確実でした。

 ぼくは壁を伝ってあるいていました。

 轟、と叩き付けるような風がいきなり屋敷を打ったのはそのときのことで、ぼくは目を見開いて、―――――みていました。

 わかっていたのかもしれませんよ。

 ぼくにはわかっていたのかもしれません。格子模様の広い硝子窓が震えて、耐え切れないように一部がぱりんと割れました。途端に吹き付ける激しい風が廊下に吹き込み、ぼくは飛ばされないように壁に手をついて必死で身を屈めていました。激しく吹く風に、一瞬落ちる雷鳴に照らされる室内。

 白い雷光に浮き上がる室内の―――――

ああ、多分ぼくにはわかっていたのですよ。そんなことになるとわかっていたのです。でなくて、ぼくがそんな無謀な行動をとるわけありませんもの。ぼく、自前の自己保身本能というやつに、一目おいてるんですから。

 白い彫刻のようでした。

 浮き上がったのは。

 まったくねえ、あんな風にひとがなるものかしら。

そこにはね、まるでほら、白い彫像のようなすがたが、居間の中央に浮き上がっていたのですよ。あ、あしはついてましたけどね。浮き上がっていたというのは、雷光にそうみえたという話です。白くねえ、彫り上げたみたいにしろくみえました。

 二人目の死体からは、血の気がまったく失せていたのですよ。

 そう、居間の中央に立っているのは、―――また死体は立っていたのですけれど―――死体でしたよ。ちゃんと死んでました。死ぬふりとかじゃなくね。

 死んでいたんです。

 雷に白く見えたのですが、実際にも血がかなり抜けていました。死因は、失血死だという話でしたよ。あとで聞きましたらね。

 血が抜けてしまってましてね、ですからあんなに白かったのです。

 ぼくはね、そろりと居間に近付きました。そのときには、ぼくの背には一番目の死体、先には二番目の死体、という状況でしたのです。あんまりありがたくない状況ですよね。

 居間は一瞬光に照らされただけでしたけど、随分と広いのはよくわかりました。中央にはテーブル、いまはその二番目の死体を取り囲むようにソファが配置され、ていました。縞柄のゴブラン織りでしたね。色合いは草色を基調としました処に黄色で織目が入っているものです。

 部屋が無人でしたのは、雷光が短くて確認しきれたわけではありませんけれど、ぼくは前に進むしかないと思いました。

 どうあっても無謀なんでしょうねえ。

 いえやっぱり、ばかだったのでしょうねえ、本当に。

 居間の死体は白い服を着ていて、一層白くみえました。

稲光がいま一度部屋を照らして、そしてぼくは、其処に、――――。

 死体ではない、部屋の反対側に通じる扉に、その傍に。

 おそろしいかおを見たんです。

 黒目がみひらいて、いまにも泡を吹きそうな、おそろしいかお。

 こわいかおでしたよ。

 狂気が瞳にみえるというでしょう?あれは本当でございますね。本当に狂気が瞳に映っていて、あの黒瞳は焼き付いてもう忘れられないようなというものです。

 こわかったですとも。

ええ、ぼくだってこわいことはございますよ。何もこわくない大人というのはいないものです。そうして、当時のぼくが青二才でしたとはいえ、一応は大人の端くれでございましたからね。ええ本当にこわかったですとも。

 そのかおは、おそろしいことに追い詰められてもう自分自身というものを無くしてしまったような、そんなおそろしいかおをしていましたよ。

 何がおそろしいってねえ、恐怖にみひらいたような、それでいて何処か放心しているような。あれくらいおそろしいかおにはぼくはあのとき初めてあっていたのですよ。こわくて身が震えていました。それでいて、実際にあのかおと向き合っていたのはほんの数秒に過ぎなかったのでしょうね。

 だって、ね。稲光が消えると闇がいれかわるその瞬前。かおは、消えていたのですもの。消えてしまったのです。まるで獣が飛退くようにして、一瞬のうちに。

 動く処ではありませんでしたよ。見ているのが精一杯でした。向こうの部屋に続く扉の影に、―――そう大人の立つよりは随分と低い位置から見えていたのが、かおがこわかった理由でしょうけど―――ひとがいたのが。

 旋風が巻くようにしてかおが裏をむいて消え、ぼくは唯凝視してました。ええ、情けないですけど、他のことは出来なかったのです。

 追いかける?ええ、もう全然ですよ。そんな勇気のもちあわせはありませんでした。在庫があったとしても、あの居間の入り口にまできた段階で何もかもが消えてしまっていたのでしょう。

残ってはいませんでしたねえ。

風と雨が、激しく廊下の奥に吹き込み始めていました。風が荒々しく部屋を駆け巡り、冷たいのか暖かいのかわからない風と雨が、ぼくの背を押していました。

 居間の死体は、ナイフを刺されている。かおに釘付けになっていたぼくの脳裏に浮かんでいたのは、限られた情報だけで、周囲をほんの少し見渡していればわかるはずの情報がきれいに抜け落ちてました。本当に情けないものですよ。

 かおは消えました。

 闇に風と雨が叩き付けてくる。

風雨は嵐の激しさをましていく。硝子が震えて、泣くような音が反響して。

 ぼくはそろりと抜け出そうとしました。いま思うと、一体何処を如何するつもりでしたのか。一体何処へ抜け出すつもりだったのかも定かではありませんでしたけど。

 若造ですよねえ。室内にある死体の方を見て、これは死体なんだから、少なくともいきなり襲い掛かってきたり、銃口をぼくにむけたりはしないですよね、とおもったりしてたんですから。

 死体だからって安心していいと思ってるのかしら。

 あ、ともあれ、ぼくは仰天して目を疑いながら、右手中央に立っている死体の傍に空の金庫も何も転がってないことを目蓋の裏に思い返してました。

 物取りでないと思ったことを憶えてます。

 少なくともどうしたって普通の物取りではない。

 殺すことだけが目的だったのでしょうと、おもいました。

 こわいことですけれどね。

雷光が、また室内を照らしました。そしてぼくは。

 ぼくは、さきほどのかおが、ぼくのすぐとなりで、ええ、真横で目を見ひらいているのを見たんですよ。

 雷光が闇を切り裂くほんの一瞬。

ぼくは、脇に目をむいているかおを、―――黒目を、狂気と放心を同時にみせているその目を間近にしていたのです。

 息をのみました。

 心臓が、とまるかとおもいました、多分本当には一瞬止まっていた気が致しますね。

 きっと本当にとまっていましたよ。

 ああ、すこしやすませてくださいね。

 本当に、――――あの目は、二度と見たくないものですよ。これまで生きてきましたけれどねえ。あれは本当に二度とみたくは無いものです。

 ぼくはね、脇にあの目があるのに、動くこともできませんでしたよ。

 我を忘れるというのは別の意味でしょうけど、そのときは本当に頭が真っ白で、どうしていいものかとさえ考えるあたまがありませんでしたよ。

 目、見ひらいてみてました。

 白目のくるりと黒目を巻いたさま。すこしだらしなくあいたくち。たるんだかお。年齢は、性別もわからないでただ、ただかおだとしか。

 かおだとしかね、わかりませんでしたよ。

轟々と嵐が吹きつけるのがわかりました。雨は随分と激しく屋敷に侵入してきていました。

 黒目がそばにあるんですよ。

 稲光に浮上がったまるい白目。

 だらしなくあいたくちから、一筋よだれが落ちてましたね。妙なこと憶えているものですけど。

 忘れてもいいようなことを人間っておぼえてるもんですねえ。

 風がぬるかった。

ぼくは、声を呑み込みました。悲鳴をね、あげるところだったんです。

 暗闇がおとずれました。

稲光は瞬間で、闇がぼくのまわりを濃く取り巻きました。

 もうだめだとおもいました。

相手はこの屋敷のことをよくしっているのですよ。だのに、ぼくときたら身動ぎもできないで傍に相手が来るのを止めもできないんです。

 なんてことだか。

 本当に、なんてことだか。

闇に身動ぎも出来ないでいたぼくが、つぎになにもできないでいるときに。

 再度、白く稲妻が部屋を切り裂いたときに。

 かおは、ぼくの正面にありました。


 ええ、ほんとうに。

 ぼくは、もう命がないとおもいました。

 だってねえ、もうぼく、うごくこともできませんでした。

 虚ろな眼が正面からぼくをみてるんです。

 ああ、本当にあれほどおそろしい目は。


 少し、息を継ぐ間をくださいな。


 ああ、そしてねえ。

 闇が、再び訪れたのですよ。容赦無く―――――一白光に暴き出された世界から、真の闇へと転換して。ぼくはまるであたまから闇に覆われたみたいに一筋の光すらない中に取り残されたんです。

 相手の気配すらわからない。

 見えないのにぼく、目をみひらいてましたよ。せめてなにか聞き取れないかとおもって、せめてなにかみえないものかとおもって。

 見えませんでしたね。

 聞こえませんでしたよ。

風の音だけが聞こえてました。荒々しく風が窓硝子を打ち付けている音が聞こえてました。

 でもね、歩く音すら聞こえなかった。無理もないくらい絨毯が靴底に厚かったのですけど。

 暗闇に落ちた目の前に、あのかおがある。

 ぼくは。

 うごけなかった。

 あのかおは、まだ正面にあるんでしょうか?

 それとも背中に、―――――。

雷鳴が轟いたのは、そう考えた瞬時でした。

 息をつかまれたかとおもいました。

 息ができなかった。

稲光を見て雷鳴をきいた。

 ぼく、つぎの瞬間気絶していました。

 なにもかもですから見えなくなって、―――聞こえなくなったんです。

 ああ、これが自由かしらとおもったのを憶えています。

 何もかもが溶けたように消えてしまった。閉じた目に、何だかいろんなものが映った気がしましたけど。

 そして翌朝、――――。

 ええそうです、翌朝ですよ。

 

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