帰宅と初デート【美濃暁】

 それを聞いた時、俺は最初、幻聴か何かだと思った。自分の耳を疑ったのではない。自分の耳を、嘘吐きだと断じたのだ。

「え? 今、なんて言ったの?」

 聞き返すと、享奈は不満気に眉を顰めた。

 何というか、その、破壊力が凄まじい。

 たまに友人(長田ではない)が、アニメか何かのキャラクターを見て「顔面の破壊力えぐっ。」だの「殺人的な可愛さだ……っ!」だの言っているのを聞くが、俺は今一つその意味を理解していなかった。

 だが今、俺は身に染みて理解した。これはやばい。人を殺せる。

 享奈は、支離滅裂な思考に足を取られている俺の顔を、軽く睨んでいた。しかし、飽きたのか、数秒もしないうちに口を開いた。

「もうすぐ兄さんの誕生日で、プレゼントを選びたいんだけど。明日の放課後、一緒に選んでくれない?」

 なるほど。どうやら俺の耳は壊れてしまったらしい。ただ壊れるだけならまだしも、自分に都合のいい幻聴を繰り返すとは。

 壊れてしまったものは仕方がない。その幻聴に付き合ってやろう。いや、付き合いたい。

「もちろんいいよ。」

 期末試験が終わって、今日と明日はテスト返却である。明日は確か、練習はないはずだ。例えあっても休むぐらいの気持ちではいるが、流石にサボタージュは難しい。部活がなくてよかった、と思ったのは、多分これが初めてだった。

「ありがとう。」

 享奈は頭を下げ、そこで何かの振動が、二人の空間を揺らした。

 享奈は、その発信源――彼女のスマホを見て、唇をへの字にした。

「ごめん、ちょっと待ってて。」

 彼女らしい淡々とした言葉を残して、享奈は足早に教室を去った。

 あそこまで聞かせたくないとなると、何だろう。ボカロ関係だろうか。

 俺は、彼女の仕事を知っている。とは言え、ここには俺以外の人間も確かにいて、彼女の行動は至極当然のことだ。

 当然のことなのだが、俺は少し寂しくなった。まるで、俺と彼女の間にある壁の厚さを、まざまざと見せつけられたようで。

 よし、何か別のことを考えよう。そうだ、昨日のブンデスリーガの試合。あのフォワードの、土壇場でのトリックは凄かった。真似をしてみよう、と軽々しく言える領域ではないが、あれが出来るようになれば――

「よっ、美濃。」

 何だ、長田か。別のクラスにまで足を運んできて、こいつは暇なのだろうか。

「んっ、お前今、『長田如きはお呼びではない。さっさと鎌苅さんに代われ』……とか、そんなこと思ってるね?」

 二重鉤括弧の部分を、長田はやたらと声を低くして発音した。不正解だから、無駄に神経を逆撫でするだけである。

「いや、思ってない。長田は暇でいいな、とは思ってるが。」

「おいおい、この長田を舐めてもらっちゃあ困る。ちゃあんとこの後予定があるんだな、これが。」

 長田は、どこかの俳優を真似して、笑顔を作った。どこの誰が元ネタかは知らないが、到底テレビに出せそうな顔ではないから、模倣は失敗しているのだろう。

「一応聞くが、その、予定って何だ?」

「女の子とカラオケ。」

「……男女比は?」

 バレたか、と長田は舌を出した。

「十九対十五だよ。クラスの打ち上げなんだ。」

 打ち上げか。

「クラスの仲がいいんだな。」

「まあ、結構。中学の頃はなかったからな、こういうの。」

 そうか。俺もない。

「ところで、テストの点どうだった?」

 いそいそと鞄の中身を漁り始める長田を尻目に、俺はこっそりとほくそ笑んだ。

 どうせ、美濃の方が点数が低いに決まっている――長田は、そう考えているのだろう。要は、自分より下を見て安心したいのだ。

 だが、俺を中間までの俺と思っているなら、それは大間違いである。

「平均は全部超えたぞ。」

「えっ、嘘ぉ」

 その顔が見たかった。長田の反応はなかなかに礼を失しているが、まあ許してやる。

「何点? 見せて?」

 俺は鞄の中から、テストの束を敢えて無造作に取り出して渡した。

 どうだ長田。下に見ていた男に裏切られる絶望は。

「――あ、ギリギリ勝った。」

 くそう。俺は、机の天板を軽く殴りつけた。

 すまない享奈さん。この傲岸不遜な男を打倒するには、俺の力は足りなかった。

 たん、と、床を踏み鳴らす音。

 噂をすれば、ちょうど享奈が戻ってきた。纏う空気が違う、というのはこの事なのだろう。彼女がいるだけで、まるで図書館の中のような、独特な緊張感が辺りに漂う。

「お、じゃあそろそろ、美濃暁くんを返却しましょうかね。」

「お前に借りられた覚えはないぞ。」

 はいはい、と、長田は掌を雑に振りながら、教室の外に消えた。

 しかし、返す返すも残念だ。勉強の目的は長田を上回ることではないとは言え、あれほどの努力の結果が敗北だとは。

「……何か話してた?」

「あ、ううん、全然。」

「そう。」

 享奈と話し始めた途端、俺の落胆はどこかに消えてしまった。自分でも嫌になる程、現金な性格である。

「じゃ、明日テストの返却が終わったら、ここで。――それでいい?」

 淡々と迷いのない、まるで、俺が否と答えるはずがないと確信しているような言葉。享奈らしい、不器用な尋ね方だった。

「いいよ。荷物持ちでも、何でも任せて。」

 そして、俺が否と答えるはずはないのだった。自慢じゃないが、俺はちょろいのだ。

 享奈はそれを聞くと、息を吐くついでに軽く笑った。

「荷物持ちまで、させるつもりはないけど。じゃあ、明日はよろしくね。それで……」

 言葉を濁し、享奈は目線を右下に向けた。

「ごめん。さっき、呼び出しがあって。」

「呼び出し? ああ……」

 本業に関わることか。今日は一緒に帰れない、ということだろう。

 謝るようなことじゃないのに。やっぱり、享奈は律儀な少女だ。

「分かった。行ってらっしゃい。」

 享奈は頷くと、荷物を持って足早に教室を去った。

 さて、では、俺も帰るか。

 明日に備え、準備をしなくてはならない。折角享奈が誘ってくれたのだ。服に関してはどうしようもないが、とりあえず頭ぐらいは整えておかなければ。

 ――あれ?

 誘ってくれた? 享奈が? 俺を、デートに?

 ただの買い物では――否、俺と享奈は(一応)恋人同士なのだ。二人が一緒にどこかへ行くのだから、これをデートと呼ばずして何と呼ぶ。

 彼女から誘ってきたのは、これが初めてだ。少し、俺に対して積極的になってくれた、ということでは。

 享奈が、俺を好きになってくれる日も、結構近いしのか? いやいや、思い上がるな、美濃暁。享奈はそこまで軽薄な人間ではない。

 そう思いながらも、湧き上がってくる興奮を押し殺すのは難しかった。


 多少涼しくなった頭を撫でながら、かなり涼しくなった財布の中身のことを考え、俺は少し憂鬱になった。

 知らなかったのだ。ちゃんとしたところで髪を切ると、こうも金がかかるとは。

 ネットで調べて、ポンと払えるギリギリの額で、口コミの良いところを選んだ。ヘアスタイルの仕上がりについては文句はないが、それにしても、高い。

 高校生にとって、五千円は大金である。ましてや、それに千円プラスされるとなると、尚更だ。

 隙間を縫って行っている短期バイトの賃金が、これで半分ほど吹き飛んだ。自分の血肉が削り取られたような心持ちである。だがこれで、享奈の心象を少しでも上げられるなら、俺は構わなかった。

 ドアノブを引くと、鍵のかかっている手応えがしなかった。

 泥棒ではないな。ほぼ抵抗なく開く扉に、俺はそんな事を考えていた。

 でも、ある意味、泥棒の方がまだ良かったかもしれない。

 扉を閉めると、中から「おかえり」というレプリカの声がした。それで、俺は自分の予想の正しさに絶望した。

 手を洗い、リビングに入ると、中にいたのはやはり母親だった。顔を上げて何かを話しかけようとした彼女は、重心をピンで留められたように固まった。

「――髪、切ったの?」

 頷く。俺よりも頭ひとつ背の低い彼女は、俺を見下ろすように見上げた。

「何で?」

「長くなってきたから。」

 俺は、用意していた原稿を読み上げた。素直に答えたら、享奈との関係まで話さなければならない。

 この人――この人たちに、享奈の話はしたくなかった。

「いくらしたの?」

「六千円。」

「え?」

 母親の纏う空気が変わった。また、自分勝手に怒りを吐き出そうとしている。

 そう思うと、耐え難かった。

「何で髪切るのにそんなしたの?」

 母は、怒る時に声は荒らげない。ただこちらをきっと睨み、早口で動機を問い糺すのだ。

「……ちょっと、カッコよくしたかったから。」

 少し小声になって、そう呟くと、彼女は眉尻を吊り上げた。

「カッコよくしたい? それに六千円もかかるの? それって必要?」

 必要なのだ、俺には。だが、その理由は言えない。

 沈黙を保っていると、母は更に激した。

「何とか言いなさいよ。それって必要なの? 必要じゃないの?」

 これは質問ではない。必要ではないと言わせられる、これは強制だ。

 そもそも、何の権利があって。そう思うと、無性に腹が立った。

「必要って、何にだよ……。」

「そりゃあ、」

「サッカーって言いたいんだろ⁉︎ 俺にはサッカー以外必要じゃないって、そう言いたいんだろ⁉︎」

 母は、唇をわなわなと震わせた。先程まで享奈の事を思っていたせいか、俺にはそれが、恐ろしく醜く見えた。

「俺がちょっとサッカーできるから、仕方なく俺を養ってるんだろ! だったら俺のやることに口出しするなよ!」

「誤魔化さないで――」

「誤魔化しなものかよ! そんなにサッカー選手育てたいなら、ユース行って誰か養子にしてくりゃいいじゃないか!」

 母は、口を閉じた。よかった。これでまだ何か言おうものなら、頬骨に拳を繰り出してやろうと思っていたから。

 これ以上、同じ空間にいたくない。俺は、階段を駆け上がると、自室に入り扉を閉ざした。


 自慢ではないが、俺は昔からサッカーが得意だった。

 小学三年生で、プロのジュニアチームにスカウトされ、セレクションに合格した。その後の最初の試合では、味方も敵も高校生だった。

 今思うとかなり凄いことなのだが、当時の俺はあまりものを分かっていなかったから、とりあえずボールが触れればいい、というぐらいに思っていた。

 サッカーは好きだった、というより、唯一の趣味だったから、練習も音を上げずに取り組んでいたし、それで実力も上がっていった。どうやら注目もされていたようだが、やはり当時の俺は無自覚だった。

 それが良くなかったのだろう。

 十二歳の頃、俺は誘拐された。

 真夏の真昼間のことだった。近所の公園で、何となくボールを蹴っていると、突然腕を掴まれて、車に引き摺り込まれたのである。

 倉庫のような場所で目を覚ました俺は、恐怖と混乱に言葉を失った。猿轡をされていたが、それは全く不要だった。

 俺は冷え冷えとした打ちっ放しのコンクリートの床に倒れ伏すと、短い悲鳴すら上げずに涙を流した。

 奇跡的に――人質の生還率を調べて、俺はそれが何の誇張でもないことを知った――生還した俺は、パトカーから降りるなり母に抱き締められた。

 三十六度の温もりの中で、俺はただ茫然としていた。自分が解放されたということを、まるで実感できていなかった。

 そんな俺に父は、張り詰めた形相で尋ねたのだ。

「足に怪我はないか」と。

 していない、と答えると、両親は街に辿り着いた遭難者の息を吐き、「よかった……っ!」と、更に強く俺を抱きしめた。

 その言葉が、母の体と俺の間に、あのコンクリートの床の冷たさを染み込ませた。

 帰ってきたのは、俺の両足だけだった。なら、それにくっついている俺は、どこにいるのか。

 今でも俺は、この家に本当の意味で帰ってくることが出来ないままでいた。

 家族との間にあるコンクリートを破る気も起きず、かと言って両足を切り捨てることはできず。サッカーから逃げ出したい俺は、それでもサッカー以外のところに自分を安置できないでいる。

 享奈は、俺をどこかに帰らせてくれるのだろうか。俺は、彼女にそんなことを望む資格など持ってはいないのだろうが。

 六千円を無駄にしないように、俺は静かにベッドに寝転がった。

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むべ山風をあらしといふらむ 相良平一 @Lieblingstag

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