「ムンクの叫びの人って、叫んでないらしいよ」「じゃああの人なんて呼べばいいの? 『の』?」
夏目漱石の『こころ』を最初に読んだ時、私は先生に共感することができなかった。無二の友人が、恋をしていると打ち明けてきたのだから、彼はそれを笑顔で応援するべきだった。決して、自らの為にそれを砕いてはいけなかった、と、彼を詰った。
あるいはそれは、間接的とはいえ『殺人』に対する、私の忌避感の発露だった、というだけなのかもしれないが。
今、私は先生そのものだった。浅ましい嫉妬と独占欲から、友の恋を送り出してやることができない、人の形をした、ただの塊だった。
目が覚めたとき、窓の外には、空に大地の影が映っているのが見えた。二度寝はもうできないだろう、と思い、私は渋々、上体を起こした。
動画投稿サイトを開いたが、面白そうなサムネイルには行き当たらなかった。お座なりに、一つ開いてみたら、享奈のイントロが聞こえてきたので、歌詞が流れる前にブラウザバックした。
何をするでもなく、蔵書を読み返していると、いい加減に日が登ってきた。手早く朝食を作り、食べる。目玉焼きは、黄身が破れて涙目になっていた。
弁当は昨日の残り物で済ませる事にした。親子丼だったので、卵の消費が激しい。
ラップを外し、中身を移し替える。ラップを捨てる時、ゴミ箱の中に、昨日食べたカステラの包装があった。
私にとって、カステラは北原白秋だった。
両親は、私に甘いものを買い与える余裕を持ってはいなかった。私自身、三度の飯より読書が好きな文学少女だったから、駄々を捏ねて何かを強請った覚えもない。
そんな幼い時分の私にとって、大半の洋菓子は活字の中にあるものであり、具体的な視覚的情報を伴わない映像だった。
享奈が初めて家に来た時、ちゃんと準備できなくて悪いんだけど、と彼女が持ってきたのが、私の初めて口にしたカステラだった。バサバサしてはいなかったし、手触りが渋くもなかったそれは、ただ、舌が溶けるほど甘かった。それ以来、カステラは鎌苅享奈である。私には甘すぎるそれは、彼女を思い出させるという一点で、私の好物の一つだった。
制服を着ると、柔軟剤の香りが鼻についた。どんな香りも、いずれは消えてしまう。私の恋が消えるのは、私が消える前がいい、と思った。
粗末な位牌と、その上に置いた、古い白秋の詩集に手を合わせる。もはや、語りかける言葉も失った今でも、その動作だけは習慣に染み付いていた。
学校に行こう。休んだら、享奈が心配する。それだけが、今、私を動かしている原動力だった。
今日の掃除当番には、私も含まれていた。帰りは遅くなるが、遅くなったところで、不都合が生じるわけでもない。いつもは鬱陶しく思っている仕事も、他に考えることができるから、今日ばかりはむしろ都合が良かった。
「雑巾がけ、終わったよ。」
「分かった。バケツ持つよ。行こう?」
享奈は、両手でバケツの取手を引き上げた。重みで腕の筋肉が震えて、水がぱちゃぱちゃと音を立てた。
流しに辿り着くと、享奈はバケツを床に置き、息を吐きながら両腕を力無く振った。非力で可愛い。他の人間には見せたくない光景だ。
享奈がバケツを傾けると、汚水が勢いよく流れ出した。あまりの勢いに、彼女の腕が、またぷるぷると震えた。
中途半端に残った水を、彼女はバケツを持ち上げて投げ捨てる。その様子に、激しい既視感を感じ、私は雑巾を擦りながら首を傾げた。
「……あっ」
答えが分かり、私は思わず声をあげた。享奈が、「何?」と訝しむ。
「いや、バケツを持ち上げる享奈の格好、どこかで見たことあるなー、と思ってたんだけど。分かった、フェルメールだ。」
「牛乳を注ぐ女、って?」
しょうもな、と享奈は呟いた。
「フェルメールで、思い出したんだけど。」
絞った雑巾を、享奈の持つバケツの中に放り込む。まだ少し濡れているが、まあ、そのうち乾くだろう。
「何を思い出すの、フェルメールで……」
「別にダリとかでもいいんだけど、こう、有名な絵画、ってあるじゃん。」
「そうだね。」
「ああいう絵って、見て確かに凄いんだけど、ぶっちゃけ、何がどう凄いのかとか、ちっとも分かんないよね。」
「はい解散」
享奈は、踵を返してすたすたと歩き出した。
「ええーっ⁉︎ ちょっとは反応くれてもよくない?」
「反応しようがないでしょ、それ。『うん、そうだね』って言えばいいの?」
享奈は、手に持っていたバケツを、ブン、と振った。水はもう入っていないので、享奈でも片手で持てた。
「そりゃ、そうだけどさ……。でも、流すのはひどくない?」
「無視しなかったのを、温情と思いなさい。」
そういう話は振らないで、と享奈はぐちぐち言った。
それでも、教室に戻ってしまえば、享奈は私だけのものではなくなってしまうではないか。私はただ、二人だけの時間を、それがどんなに不毛でも、できる限り長く伸ばしたかったのだ。
乙女心とかいう、綺麗な修飾ができるギリギリの、それは私の独占欲の発露だった。
「や、でも享奈だって、ゴッホのマイナーな絵とその辺の美大生の絵が、並べて置いてあったら、どっちがどっちか分からないでしょ?」
「まあ、そりゃあ、私の専門は音楽だし……。造詣が深くないんだから、仕方ないでしょ。」
享奈が、少し拗ねたように、自身を正当化する。やはり可愛らしい。永遠の時の中に封じ込めてしまいたいぐらいだ。
「ほら、クラスのみんなを待たせてるんだから、無駄話しないでさっさと戻ろ? 嵐って、時たま自分勝手だよね。」
私の手を引き、享奈は早足になった。我が校の習慣では、掃除の終了は、全担当メンバーの集結を以て宣言される。彼女の言い分は、一分の隙もなくもっともだった。
でも私は、自分の本当にやりたい事(拉致監禁拘束)からは、一億歩ぐらい譲歩しているのだ。だから、自分勝手などという評価は不当だ。不本意だ。やはり女神様は、人の心が分からぬのだ。
心の中で、そうぶつぶつと不平を漏らしながら、私は享奈に引きずられて行った。
担任の教師が教室を後にすると、他の掃除委員と入れ替わりに、ポメラニアンのような表情をした美濃くんが飛び込んできた。
「享奈さん、掃除お疲れ様!」
「暁くん、サッカー部はどうしたの?」
「まだ始まってないよ、練習。だから抜けてきたんだ。」
そう言う美濃くんは、なるほど確かに、透き通るような白のユニフォームを着ていた。
「どうしてそんな……、部活あるのに、私の掃除を待ってるとか、何考えてんの。」
享奈がそう言うと、美濃くんは、悪戯がバレたポメラニアンのような表情になった。
「ごめん……。今日、あんまり享奈さんと話せてないな、って思って。」
「暁くん……」
中休みの三分十一秒と、昼休みの八分五秒を、こいつはなかった事にする気か。甘い空気を醸し出す暫定カップルに、私は腕を振り上げて威嚇したくなった。
「山風さんも、お疲れ様。なんかごめんね。無視してたつもりじゃないんだけど。」
感じのいい男だ。享奈の前でのポメラニアンっぷりが、嘘のようだ。これだから私は、彼らの仲を引き裂くことができないのだ。
「そうだ。享奈さん、期末に向けて、勉強教えて、って話、どうなった? 俺、理数系苦手なんだよなあ。」
奇遇だな。私も理数系は苦手だ。ついでに、文系も苦手である。
「ああ、そういう話だったか。私はいつも、期末前は嵐と勉強してるんだけど、それでもいいなら。」
享奈、それはいかがなものか。ほら、美濃くんが、餌を取り上げられたポメラニアンのような顔をしている。女神様の、あまりの上位存在ムーブに、私は流石に同情した。
「享奈、私も、カップルの間には入れないって。二人で、勉強会やりな。」
「いや、いいんだよ山風さん。」
待ったをかけたのは、意外にも美濃くんだった。お前は凄い。私はそう思った。
「山風さんだって、成績やばいんでしょ? 享奈さんから聞いてる。」
おい。何を言った、享奈。
「まあ、美濃くんがいいなら……」
「よし。じゃ、この三人で勉強会、ってことで。嵐はいつでもいいだろうし、それじゃ暁くん、いつ空いてる?」
私の呆れと、美濃くんの諦念に、全く気づいた様子もなく。享奈は、さもそれが名案であるかのように言い切った。
「部活は、一週間前からなくなるから、その間なら。」
「分かった。来週の今日、『グールド』に集合。いい?」
「享奈さん、『グールド』って?」
「行きつけの喫茶店。」
「分かった。場所、教えてね。」
「地図のリンクを送っとく。」
いつの間にか、カップルに私を添えた勉強会の予定が、とんとん拍子に決まっていた。ここは一歩引いて、享奈と美濃くんの仲を深めてあげるのが一番だ。だが、それを切り出すには、もう色々な事が想定され過ぎていた。
「あ、そろそろ、練習始まっちゃう。享奈さんじゃあね、また明日。勉強会、楽しみだね。」
「うん、また明日。嵐、帰ろう。」
美濃くんは、爽やかに去っていった。私と享奈も、荷物を持って教室を出る。
享奈たちの勉強会に同席できると聞いて、どこか安心している自分もいた。それが、この話を固辞できなかった、一つの大きな理由だ。
邪魔をするつもりはないが、私はやはり、知らぬ間に、彼女たちが深く繋がってしまうことを恐れていた。そうやって、右手を左手で押さえながら、享奈たちをじっと観察していては、享奈を邪魔しているのと同じだ。
だが、私は自らの内の恐怖に抗えない。これからも、多分ずっとそうだ。
隣で楽しそうに笑う享奈を、無二の親友を、私は密かに裏切っていた。
ああ、真実、恋は罪悪である。
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