恋といつわり【鎌苅享奈】
後ろを惚けた顔でついてくる男を見て、私は醒めない悪夢の中にいるような心持がした。
サッパリと切り揃えられた黒髪は、日光を控えめに反射し、穴の空いたような瞳がじっとこちらに向けられている。
健康的に日に焼けた、小麦色の肌。精悍な美少年のイメージ図を書けという課題が、もし授業で出たら、彼はモデルとして四方八方から引っ張り寄せられるはずだ。
そんな、大概の女子の憧れらしい存在が、今、私の後ろでだらしなく半融解している。『大概の女子』の中に、嵐が入っているかは知らないが、もし入っていたなら、こんな男やめとけ、と、是が非でも引き留めたい。
「享奈さん、最近、どう?」
話しかけてきた。最近は、主にお前のせいで散々だ、と言いたかったが、グッと堪えた。
「……何が?」
口に出てしまって、私は背中に冷や汗をかいた。いつも話す声より、三割増で冷たい声だったからだ。
「学校とか。友達、出来た?」
心配は無用だった。この色惚け野郎は、私の声の調子にも気づかず、むしろだらしなくにやけそうになっていた。流石に自制心が働いたのか、途中で固められたその顔は、しかしそれでも、やはり気持ち悪かった。
「嵐以外の友達はいらないし、暁くんに心配される筋合いもない。」
つい、と顔を背ける。そうだ、嵐は今頃どうしているだろう。美濃などをを優先してしまって、気分を害してはいないだろうか。
「うぇ、あ、あの……」
美濃が奇声を発した。何だ、と思って振り返る。目が合った瞬間、美濃は型を外したゼリーのように振動した。
「なんか、嫌なことでもあった?」
現在進行形であるのだが、正直に言う訳にもいかない。しかし、そこまで顔に出ていただろうか。反省しつつ、私は誤魔化しの文句を考えた。
「嫌なことはない。ただ……」
「どしたの?」
「いや、嵐が、秋野さんと一緒に帰る、って言ってたじゃん。あの子、あんまり他人が好きじゃないから……。秋野さんと一緒で、大丈夫かな、って。」
ごめん嵐、勝手に名前使っちゃった。今度、カステラでも買い与えてあげよう、と私は決意した。
美濃は、ほんの少し、深刻そうに考え込んだ。根は善良なのかもしれない。眉根を寄せる彼と、あの日、私に告白してきた彼が、どうしても上手く重ならない。前に嵐が、男はみんな狼だから気をつけろ、と言っていたが、こういうことなのか。
この悩みは、一から十まで創作、というわけではなかった。嵐は、私以外の人間と関わりを作りたがらないが、会話ができない、というわけではない。現に、件の秋野などには、話しかけられれば普通に応対している。
だから、嵐の対人関係について、私は不安を抱いてはいなかった。
私が恐れているのは、彼女が再び、他人によって傷つけられることだ。
すぐに、美濃は言葉を見つけたらしい。眉間の浅い皺が消えた。
「今まで、山風さんが享奈以外と一緒に帰ろうとしたこと、あった?」
「なかったから心配なの。」
反射的に、口をついて出てしまった言葉は、自分から見ても、はっきりと孤独の色をしていた。
「だからさ、山風さんだって成長してるんじゃない? 心配しなくても。」
彼の声は傲慢にも、私のことを芯から気にかけていて、陳腐だが、少しは心に響いた。確かに、そうかもしれない。ならば、他人を恐れて、徒に牙を晒しているのは、むしろ私か。
美濃暁は、クラスの馬鹿話を引用するなら、「優良物件」である。秘密裡に作られた、学園のイケメンランキングの不動のトップであり、一年生ながら、サッカー部の主戦力の一人として、注目されるほどの身体能力の高さも併せ持つ。さらに、困りごとがあれば、快く手を貸してくれるほど性格もいい。――と、いうのは、そのランク表を持ってきて、私に投票を迫った蘆屋が、頼んでもいないのに一方的に捲し立ててきた情報に拠る。ちなみに私は、あまりにも関心がなかったので、嵐に一票を投じて追い払った。
本来、繋がりようのない二人の間に、生まれてしまった接点。それは、先週の出来事だった。
嵐と別れ、自宅に辿り着いた時、私は、ポケットの中にスマホがないことに気づいた。
授業が始まる前、机の中に入れたのが、最後の確かな記憶だった。私立校で、校則はかなり緩い。制服さえ着ていればいい、という具合だ。だから、こんなことも許されるのだ。
いつもなら、明日の朝まで放置していた。家では専ら、パソコンを使っているので、手元になくても困らないのだ。
だが、その日に限っては、私はスマホを取りに向かわないわけにはいかなかった。
描いてもらった新曲のイラスト、その報酬について、説明がある日だった。いつも担当してもらっている人と、イラストレーターが別だったので、そういった話が必要だった。
スマホの置き忘れなどというヘマ、そうそうするものではない。何故、こういった大切な時に限ってやらかすのか。私は自分を呪いながら、学校に急いだ。
流石に誰ともすれ違わなかったが、日が沈むか沈まないか、という時間帯では、部活動の大半は活動を続けている。若きスポーツマンたちの活力が充満し、見慣れた校舎も、私にとっては新鮮な顔をしていた。
通告されていた時間が迫っていた。私は焦り、三階分の階段を、一息に駆け上がった。
壁に手をついた時、自分の着信音が聞こえた気がした。はっとして、教室に駆け寄ろうとするも、足がもつれて体制を崩す。数歩、酔っ払いのような足取りで進むと、教室の扉が開いているのが見えた。
電話は切られてしまった。今からかけ直せば、まだ間に合うか。教室に飛び込んだ私は、すぐに目的のものを見つけてしまった。
見知らぬ男が、私の机の中から半らばかり引き出し、覗き込んでいたのがそれだった。
「新曲……?」
私のスマホを戻しながら、男がそう呟くのを聞いて、私は頭が真っ白になった。
机に足がぶつかる。その物音で、こちらに気づいた男を押しのけ、慌ててスマホを回収した。ホーム画面には、「新曲『ムーンボウの夜に』のイラスト料金について」という通知が、はっきりと表示されていた。
私は絶望した。この曲は、ネット上でもそれなりに評判が良く、あの男が白髪Pを知らなくとも、調べればすぐわかってしまう。彼が見逃して、忘れてしまうことに賭けるには、私の度胸は不足していた。
「見た?」
彼が頷く。
「……今見たことは、黙っててもらえる?」
懇願するつもりで放った言葉は、自分でも驚くほど凍りついていた。
彼は、訝しげな顔をして唇を歪めた。私は、胸騒ぎがして、ただ彼の顔を見つめるだけだった。
「何故、隠す必要が?」
彼はそう嘯く。何の理由もなしに、黙っておくつもりはない、と、そう言いたいのか。
「口止め料を寄越せ、と?」
そう聞いても、彼は無言で、形容し難い、気味の悪い表情を浮かべるだけだった。この男は下衆だ。私は、そう確信した。
「何でもするわ。何が望み?」
私は腹を括った。私の正体が明かされることに問題はないが、嵐を衆目に晒すわけにはいかない。
何をされるのだろうか。恐怖に歪みそうな顔を、何とか保って、私は毅然として彼を捉え続けた。
しばらく迷っていた彼は、体をこわばらせながら口を開いた。
「……鎌苅さん、俺、貴女に、告白してもいいですか。」
断ったら、どうせ秘密をバラすに違いない。弱みを握った途端に得意になりやがって。やはり、彼は碌な人間ではなかった。
「鎌苅享奈さん、ずっと前から好きでした! 俺と付き合ってください!」
しかし、彼の告白を受ける以外の選択肢を、見つけられなかったのも、また事実だった。
「……いいでしょう。その告白、お受けします。」
苦々しく、そう頭を下げると、彼はニヤつき、すぐ後ろを向いた。
こんな形で彼氏ができるだなんて、嵐が聞けばどう思うだろうか。でも、一番大切な親友である嵐を守るためなら、私は何だってできた。
美濃が、私たちの関係を公表しないのは、私にとってもありがたかった。嵐を、無駄に心配させたくなかったからだ。当人は何の気無しに、私たちのことを揶揄ってきているが。
彼のアドバイスに、返答するのを忘れていた。
「そうだね、そうかも。」
私がそう言うと、満足そうに、彼は頷いた。
電車の中では、彼が学校の話を振ってくるのを、私がいい加減にいなしているうちに、時間が過ぎた。本当は、こんな関係など今すぐ断ち切ってしまいたいのだが、彼の機嫌を損ねるわけにはいかない。嵐を守る為には、彼の恋人役を、しっかりと演じ切らなければ。
「じゃあ、また明日。」
最寄駅に着き、私は安堵して、飛び出すように電車を後にした。階段に隠れて、電車が見えなくなると、私は解放感から、どっと息をついた。
また明日、なのだ。明日もあるのだ。あるいは、その先も。
その事実が、私の心に重くのしかかっていた。
早く、嵐に癒してもらいたい。今から家に行けば、会えるだろうか。とりあえず、コンビニでカステラでも買っていこう。
少なくとも、彼女の家に着くまで、私の頬は苦痛に引き攣っていた。
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