恋のはじまり【美濃暁】

 隣を歩いている美少女を見て、俺はまだ夢を見ているような心地でいた。

 先端で少しウェーブのかかった緑の黒髪は、後ろでまとめられて肩の辺りまで伸び、透き通った琥珀の双眸は凛とした光を湛えている。

 すらりとした小ぶりな鼻筋と、形の整った桜色の唇が、丸いカンバスの上に奇跡的なバランスで配置されていた。まるで、世界中のおよそ美というものを、全て一人の人間に彫り込んでしまったようだ。

 こんな、奇跡のような存在が、今、俺の隣を歩いている。手の甲を抓ってみたが、痛みを感じたのでどうやら夢ではない。頭が、どうにかなってしまいそうだった。

「享奈さん、最近、どう?」

「……何が?」

 いつもつっけんどんな態度だが、それでも毎回、律儀に応対してくれるところが実に優しい。声すらも、水晶の花のような上品さと美しさを感じさせた。

 彼女の声を聞けたことに、内心で欣喜雀躍しながら、俺は必死に表情筋に力を入れた。

「学校とか。友達、出来た?」

「嵐以外の友達はいらないし、暁くんに心配される筋合いもない。」

 そう言って、享奈はついと顔を背けた。その可愛らしい表情に、少し翳りが見えた。心臓が跳ねる。

 何かあったのだろうか。聞いてみたい。だが、過干渉と見られて嫌われてしまわないだろうか。そうなったら、ショックで二週間は寝込む自身がある。正直まだ、俺は享奈との距離感を掴みかねていた。

「うぇ、あ、あの……」

「?」

 躊躇の末、口から漏れ出たのはそんな情けない声だった。ぱちくりと瞼を動かしながら、享奈がこちらを振り返る。やばい。破壊力がやばい。普段は、鋭く冷たい態度を崩さない彼女だから、時折見せる白詰草のような可憐さが、もうギャップがすごい。

「なんか、嫌なことでもあった?」

 支離滅裂になった思考をなんとか繋ぎ合わせ、勇気を出して声をかけてみた。彼女に憂いがあるなら、それを取り除いてあげたい。その欲望を優先した。

「嫌なことはない。ただ……」

「どしたの?」

「いや、嵐が、秋野さんと一緒に帰る、って言ってたじゃん。」

 享奈の後ろの席に座っていた、ハムスターかモルモットか、その辺を人間の形にした少女の姿を思い出す。

「あの子、あんまり他人が好きじゃないから……。秋野さんと一緒で、大丈夫かな、って。」

 確かに、あまり人に慣れていなさそうな印象を受けた。真剣に心を悩ませている享奈に、一瞬見惚れてしまった。

「今まで、山風さんが享奈以外と一緒に帰ろうとしたこと、あった?」

「なかったから心配なの。」

 享奈は目を細めた。

「だからさ、山風さんだって成長してるんじゃない? 心配しなくても。」

 肩を叩こうと思ったが、それが許される距離感だろうか。俺と享奈の間の距離は、どこまで近づいているのだろうか。告白して一週間、俺はまだ享奈を右目でしか捉えていなかった。


 鎌苅享奈は高嶺の花である。もう一人、秋野志津玖と並んで、学校の二大高峰と言われている。

 彼女の入学以来、告白して玉砕した数は三桁に達するという噂すらある。それの真偽は不明だが、男子は愚か、山風嵐以外の人間は、ほぼ、誰も彼女と親しげに話すことすら許されない、というのは有名な話だ。

 そんな彼女と、俺、美濃暁が、何故斯様に親しげに会話できるのか。

 その理由を語るには、先週の火曜日まで遡る必要がある。

 その日、俺はいつものようにサッカーのユニフォームを脱ぐと、不意に、宿題を忘れていたことに気づいた。

 今から教室に戻れば、まだ鍵が空いているだろうか。そう思い、急いで制服のシャツに袖を通した。

 九月とはいえ、大気中の二酸化炭素濃度のせいか、ブレザーを着るにはまだ早い。駆け抜ける体に、ねっとりと風がまとわりつく夕暮れだった。

 引き戸を引く右手に、抵抗は生まれなかった。俺は安堵して、膝に手をついた。

 机に駆け寄ると、はたして宿題のプリントはそこにあった。俺は手早くそれを鞄に入れ、素早く教室を後にした。

 一年生の教室は、何故だか知らないが三階にある。その上、俺のいる六組は突き当たりにあるのだ。

 部活でただでさえ乳酸を貯蓄しているのに、無駄に疲れてしまった。徒労感に襲われながら、無人の校舎をだらだらといい加減に歩いていた時だ。明かりの消えた教室の中から、音が流れてきた。

 かごめかごめだ。そう認識できるまで、七秒かかった。

 背筋を凍らせながら、俺はそろりそろりと、一年二組の教室の中に入った。

 音源はすぐに分かった。壁沿い、後ろから二番目の机。机の中を覗き込むと、通話がちょうど切れたところだった。

 鎌苅さんの着信音は趣味が悪いな、と思った。次いで、ホーム画面は山風さんなんだな、とも。

 他人の、しかも異性のスマホを勝手に触るのは、不審者として通報されてもおかしくない行為だ。見なかったことにして、今日は帰ろう、と思った。

 その瞬間、通知に未読のメッセージが一通届いた。電話の相手だったのだろうか。その辺りは定かではない。どんなことが書いてあったのかも、聞かされていない。でも、そのただのメールが、俺と彼女の運命を変えてしまった。

 そのメールの件名には、「新曲『ムーンボウの夜に』のイラスト料金について」という文字があった。

「新曲……?」

 その曲名には聞き覚えがあった。チームメイトが、更衣室で興奮しながらリピートしていた。聞いてみると、確かに心に残るものがある。白髪Pの曲は、その頃男子サッカー部内で密かに流行していた。

 がたり、と背後で音がして、俺は肩をびくりと跳ねさせた後、振り返った。

 膠着した戦況を打開すべく、俺が相手を小技で抜き去った時、振り返ると見える、恐慌と悔恨が入り混じった鬼気迫る表情。享奈の顔には、それがありありと浮かんでいた。

 俺を押しのけ、携帯を机の中から抜き取った彼女は、こちらをきっと睨み、「見た?」と言った。何を、というのは明らかだった。

 俺は、正直に頷いてしまった。誤魔化しておけば、あるいは後腐れなく、他人同士に戻れたかも知れないのに。

「……今見たことは、黙っててもらえる?」

 冷たくて重い声だった。まるで、何かを恐れているかのような、そんな威圧感だった。

「何故、隠す必要が?」

 俺は疑問に思って、率直にそう言った。彼女は有名人で、しかも聞き及んでいる限り、スキャンダルなども何もない。明かしてしまっても、崇め奉られるだけだと思うが。

「……口止め料を寄越せ、と?」

 思わぬ返答に、私は一瞬困惑した。だが、すぐにハッとした。

 どういう理由かはわからないが、享奈は自分の正体を隠したいらしい。俺は、黙っていることにも異存はないのだが、彼女からしてみると、口約束だけでは、俺は裏切るかもしれない危険分子だ。

 だから代価を払い、約束を契約にしてしまうことで、より裏切りにくくしよう、という発想なのだろう。

「何でもするわ、何が望み?」

 享奈がせっついてきた。しかし、望み、と言われても、そうすぐに何かが出てくるものでもない。だが、何かは言わなければならないだろう。

 適当なことを言って煙に巻こうか、と思った時、ふと、あるアイディアに至ってしまった。

「鎌苅享奈さん、一つ、お願いがあります。」

 背負っていた荷物を下ろす。享奈は終始無言だった。

「……鎌苅さん。俺、貴女に、告白してもいいですか。」

 断られてもよかった。彼女への慕情を、直接伝えられるのなら、それだけでも俺にとっては、得難い報酬だった。

 静寂が流れた。俺の人生の中で、最も長い一分だった。

「……いいでしょう。その告白、お受けします。」

 だから、享奈が結局そう答えた時、自分の心に湧き出る場違いな高揚感を、抑えることができなかった。俺は、すぐさま口を押さえて後ろを向いた。そうでもしないと、雄叫びを上げて教室中を練り歩きでもしかねなかった。

 その日から、俺と彼女は、名目上は恋人同士になった。

 だが、実質的にはまだ、恋人には程遠いだろう。俺は、ある意味では、彼女の隣の椅子を、脅し取っただけに過ぎない。最低な行いだ、という自覚はあった。だから、公表は誰にもできなかった。彼女が望んだ時、いつでも別れられるように、だ。

 享奈を、形式上だけでも手に入れられて、喜んでいる自分がいる。それが、心を始終締め付けていた。


 享奈はしばらく、顎をなぞりながら考え込んでいたが、

「そうだね、そうかも。」

 と言って、どうやら納得したようだ。唇に残った微笑が、目を灼くように美しかった。

 それから俺たちは、課題の話や、授業の話などで時間を過ごした。学年トップなだけあって、彼女は学業に一切の不安感を持っていないようだった。俺は、お世辞にも頭がいいとは言えないので、少し羨ましい。

 勉強を教えてくれ、と言うと、享奈は「暁くんも、嵐みたいなことを言うんだ」と言って、快く頷いてくれた。

 多分、彼女と親しくなれば、大半の人が同じことを言うと思う。だが、享奈はそれを、おそらく分かっていないのだ。隙のない人間だというイメージが定着している彼女だが、案外抜けたところも多い、というのは、恋人同士になってから気づいたことだ。

「じゃあ、また明日。」

 最寄駅について、軽く会釈してから、彼女は電車を降りた。その姿が階段の奥へ消えるまで、俺はじっと、その背中を見送った。

 また明日、なのだ。明日があるのだ。あるいは、その先も。

 その言葉が、麻薬のように甘く、心臓を暴れさせる。

 それが偽りと罪で出来た夢だと、俺は知っていた。だが夢ならば、現実にすれば良いのだ。必死に誠意を見せれば、もしかしたら、本当の意味での恋人同士に、俺たちはなれるかも知れない。それがどれほど低い確率でも、この心の苦しみと、幸せを両立させるには、それを追い求めるしかない。

 少なくとも、家に帰るまで、俺の頬はだらしなく緩んでいた。

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